2017年04月29日

お金持ちになりたい

先日入った居酒屋でテレビを観ていると、『ジョブチューン』の大物司会者特集で小倉智昭、草野仁、徳光和夫、ヒロミ、恵俊彰など動物性脂肪の塊のような面子がひな壇に集められ"暴露トーク"に花を咲かせており、1本あたりのギャラがいくらいくら云々、スタジオ感嘆、茶々を入れるネプチューンやバナナマンといったお笑いの人たちも思う存分にお金持ち、と、楽しみ方の一切わからない映像を見せられテレビの置いてある側の左目だけを固く閉じてしまった。「テレビは"オワコン"」などと喚いている連中然り茂木健一郎然り、ひとつの媒体をまるごと括って断定的評価を下す人間はろくでもないしどうせ毎日頭を洗っていないような者共とも思うが、お金持ちが制作に携わっておりお金持ちがカメラの前で騒いでいる様を貴重な土曜日の夜に割いているのか、一体自分は何を観させられているのか、と途方に暮れてしまい、テレビが何も面白くなくなってしまった。もはやNHKのBSで明け方にやっている「マチュピチュの空撮」や「オトシブミのかしこい子育て」といったような、なるべく人為の関わっていないハイビジョン映像を好むようになった。高校を出るまでは毎日死ぬまでテレビしか観ていなかったのでトントンなのかもしれないが、実際に稼いだお金で生活をしなければならない立場になってから「お金持ちがお金たくさんもらっているね」と苦虫を噛み潰すようになるというのは辛い。よくJUNKやオールナイトといった深夜ラジオを聴いていたけれど、よくよく考えればCM差し引いても1時間40分もの間お金持ちが喋っているのだし、ハガキ職人のTwitterはつまらないのにフォロワー数だけ多いしチヤホヤされて羨ましいし増長するしでこれもまた苦虫案件だ。



本屋に行けばもちろんのこと目に留まる本の作者はお金持ちで、インターネットでフォロワー数何十万人超え、を謳う、ハードカバーの1ページ1ページにちんちんの先をなすりつけているかのような書籍が平積みにされている。インターネットで幅広にウケてお金が入ってくれば嬉しいぜ、というよこしまな怠け者根性もあったが、インターネットで幅広にウケてお金をもらっている人は金玉の腐ったような者しかおらず、流石にそこまで精神が落ちぶれたくないしそもそもウケないしでうっちゃってしまったが、お金はやはり欲しい。あればあるほどいいものと思う。



ブルーハーツもお金持ちだし、格好がいいので女の子にもモテただろう。そんな些細な理由で、大人になってからブルーハーツが聴けぬようになってしまうとは、「年下がうるさいよ」と感ずるようになってしまうとは。



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彼女が、職場の60手前、「己はまだ通用するだろう」とギンガムチェックのシャツを着、べっ甲で縁の太いメガネを掛けた薄髭の、嫁も子どももある爺から誘われ、仕事終わりの晩食事に行く途中の帰り道に偶然出くわした。2人はよく会話を交わす仲で、業務中、給湯室で洗い物をする彼女と10分ばかり何やら話し込んでいる姿を見て働かんか爺と些か腹が立ってはいたのだけれども流石に飯はお前、おい、60で自分のこといけると勘違いしていいのは高田純次だけだぞ、ましてや私が交際している女性なのだ、と頭にきてしまい、晩の夜に彼女に問いただしてしまった。相手が60手前とはいえ、武田弘光のエロ漫画などの読み過ぎで地下鉄の窓に映っている己の佇まいが、私立高校の理事長に寝取られた彼女の、ハートの形の穴が空いた下着を履かせられてダブルピースをしている映像を見せられ呆然としながら勃起せざるを得ない冴えない眼鏡に思えられて居ても立ってもいられなくなった。


彼女には「いや、60やで???」と窘められ、翌日「かっとなり、すみません」と2時間電話で謝ったが、もし己に金銭的余裕があったならこのような失態も犯す恐れはないだろう。南海トラフも北朝鮮のミサイルもだいぶ怖いが、お金があれば頑丈な壁を築けるのでかなり大丈夫だ。一生懸命働いてお金を稼がなければ。何も後ろめたいところはない。「やるしかないから、やるしかない」と、駅のマイナビの広告でお金持ちの有吉弘行が腕を組んでいたのを思い出した。
posted by しきぬ ふみょへ at 22:09| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

やらせていただきました。

じゃないんだよ
一生懸命働け

脇目も振らずに一生懸命働け
posted by しきぬ ふみょへ at 23:47| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

バーチャルリアリティの略

DMM.comでVR動画を観た。新しい性デバイスに対して基本的に守りに入っていたのであるが、Amazonポイントを有効活用しタダ同然でかしこく専用ゴーグルを手に入れられたのと、大槻ひびきや蓮実クレアの最新作がどうしても気になってしまった。社会人だからクレジットカードを持っているので、なんの障害やためらいもなしに動画を購入できてしまう。



届いたゴーグルは眼鏡を着用したままでも上から装着できるかなりごつめのもので、ビジュアルは任天堂のファミコンロボットに近い。首振りに合わせて視界を動かし、手探りでしこるその様はあたかもファミコンロボットがコマを運んでいるが如くだ。それに加えて手元が見えないので、OB(Out of Bounds)があってはならないといつもよりも念を入れてティッシュペーパーを使いクッションを整える必要があり地球にも優しくない。然しながら、限りある資源や人生を犠牲にしても尚、「奥行きのある女性」はいかほどに素晴らしいか痛感した。「ケツ!」と思うて、あぐらをかきながら己の膝をピシっと打ってしまった。未来はここまで来たか。僕にとっては今この目の前のケツの流線型こそがリニアだ。



その感動のぶん、仕事を済ませた後の虚無も半端ではなく、ゴーグルを装着して下半身を露出している様はかなり終わりに近い。21世紀なんか来なければよかったのに。いったん冷静になった後でもう一度動画を観てみた。ソープで思い切り女の人に体を舐められている最中に、上を向いたらただの天井が目に映るのにウケてしまった。こんなに下品な言葉を耳元で囁かれながら全然お前のこと無視して天井観てるけどね、頑張ってね、と思いひとしきり笑い、ゴーグルを外し、布団にくるまった。SNSを一切やめているのにもう通信制限の通知が来た。4月の頭なのに。iPhoneが真っ赤に焼けただれていた。



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大阪に来て4年目の春を迎えた。会社では相変わらず東からやってきた無能の若白髪としてやっている。いつまでも西に染まるまいと抗っている。無能なわりに順応しまいと意味もなく確固たる、捻じ曲げざる、ローキックの効かざる虚栄心のせいでイントネーションを上方に寄せまいとしている。だけれども、大阪はご飯も美味しく安くてお腹がいっぱいになるお店が多いのでそれ以上に考えるのも億劫になり、死ぬまでここでしこってうんちして鼻ほじって過ごそうかな、と順応に向けて脳・体が順応に向けてシフトしてきている。



3月の末にJA大阪が主催のリレーマラソン大会があった。うちの会社も例年参加している。大阪城公園周囲をぐるぐる、42.195kmを21人で分担して走る。1人あたり約2kmを受け持つことになる。一応若手たる区分でエントリーせざるを得ない僕は生来走るのが苦手で苦痛でしかなく、タバコをやり手マンをやり、テカテカに肥えた役員連中にも劣るタイムを叩き出す始末で、「仕事もできなければちょこっと2kmばかし走らせてもボンクラなんかい、ヘラヘラしくさってブスメガネ背むし直毛オタリーマン」というあからさまに鼻くそを見るような視線で眺められる仕打ちにここ数年耐えてきた。ヘラヘラしくさって、歯を食いしばっていたら終いなので去年までは袖を噛んでいればよかったのだけれども、部署に彼女ができ、持ち前の「嫉妬」が乗っかってきたのでなおのこと苦痛になった。



彼女の同期のロシア人のクオーター、元陸上部の183cm、地毛がそもそも明るめの茶髪の男が応援ブースの前を白虎のようなストライドで走り抜ける。彼女は「はやーい!!」と感嘆しながら沿道に駆け寄った。俺も足が速ければよかったのにな、と小学生以来に思った。大人になってから尚、肉体的アドバンテージをむざむざ見せつけられて落ち込むような機会は全然あるのだ。同じ給与体系である以上、カネで説得力を植え付ける事もできず、筋力の負けがイコール雄としての敗北と切実に結びついてしまう。



「嫉妬」でいうと、彼女はおじさんの扱いに如才なく、という事はつまりお気に召されてしまうわけで、髪を切って来ようものなら翌朝「自分…AKBみたいやな!!」とおじさんにちょっかいをかけられている。”今”の喩えとしてのAKBはとっくに古いんだよジジイ、と腐す気持ちもあれど、彼女が給湯室前にておじさんの心の中で尻を撫ぜられていることに焦燥し、ひょっとしてなびかれでもしようものならどうしようか、と本気で心配してしまう。客観的に見れば「心配すんなって」「滅入るな」「口笛を吹け」で済む話なのかもしれないが、いざ当事者となると気が気でない。ともあれ堂々と・我関せず・泰然自若で居なければいけない。理性で解っていても、脳幹が熱くなる。



フィジカル面・フィナンシャル面で勝るところなく、品行方正で浮気の心配なく実直で、日々の会話の充実(への努力)でしか自分を彼氏という立場に置かせられる説得力を持たせられないのに、欲に抗えずごついゴーグルを装着し天井を観ながら笑っている。最近は毎朝ヤクルトを飲んでいる。まず腸から美しくなろうとしている。
posted by しきぬ ふみょへ at 22:25| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

A

2017/2/25(土)彼女が出来た。性懲りもなく、何度滑落に巻き込まれようが熊にぶん殴られようが、女性との平穏無事を望む自分の学ばなさに呆れる。また半袖短パンスニーカーで富士に挑んでいる。「前回は熊に襲われて死んでしまったから」という理由でポケットに鈴を忍ばせている。根本的な性根の是正が喫緊の課題である。



職場の同じ島で仕事をしている新人の女性、このブログでは「麻里」という仮称でしばしば書いた。昨年のクリスマスに中之島・中央公会堂のイルミネーションの下で振られたが、その後何度か遊びに出かけ、先週漸く了承を頂くこととなった。やってることは堀北真希に対する山本耕史のアプローチとさほど変わらないのだが、気持ちが悪い僕がやると不思議と気持ち悪くなってしまう。



その日の夜一緒に飲んだ。そろそろお互いに終電を気にする時間だ、と頭の片隅で気にしつつも、「そろそろ(時間)大丈夫?」などと気を遣うという腕力への自信のなさから発する気遣いを酒の力で押さえ込み、いつの間にやら帰る時間が無くなっちゃったねに持ち込もうとしていた。ろくでもなく「性」に理由を与えて正当化させようとするアンフェアな行動である。



実家ぐらしの麻里がお泊りの許可を得た報告を受ける。残り電池残量10%を切っているiPhone6を駆使し、それを悟られぬように近場のラブホテルを探した。手を握り、位置情報アプリの指し示す方角めがけて前のめりに突き進んだ。辿りついたホテル「NEXT」のエントランスで婆に「後15分ほど待ってもらえれば部屋が空く」旨告げられる。僕と麻里は丸テーブルを挟み向かい合わせに腰かけて待った。婆からお呼びがかかり、前払い6,500円也を支払おうとする。昼食のハーブカフェでランチプレート(お手製シフォンケーキ付)、晩に「女性でも気兼ねなく」利用しやすい内装に凝った焼き鳥屋でセセリ・ソリ・れんこんつくね各2本、セロリの浅漬け、スモークサーモンのサラダ、ウーロン茶・ゆず酒ソーダ割り・日本酒(春鹿)1合・ビール(キリンラガー)・ハイボール(角)ジョッキ1杯ずつ。2件目のショットバーでナッツ盛り合わせ、カシスオレンジ(カシス多目)・ウイスキー水割り2杯(ラフロイグ・シーバス)を現金で支払っており財布に2,000円しか残っていなかった。クレジットカードを出すと、婆は「すんませんウチカード取り扱ってないんですよ。いまどきめずらしいでしょ。すんませんねえ、すんませんねえ、斜向かいの”ラヴィアン・ローズ”さんならいけるかもわからないんですけど。ほんますんません」とのたまった。15分待って今さらラヴィアン・ローズさんへ向かうにも、間もバツも悪い、空室があるかどうかもわからない。僕は麻里に無心をし、残り4,500円を出してもらった。『せめて少しは格好つけさせてくれ』とジュリーは歌っていたが、日常に潜む「ダサ」の罠にことごとく引っかかっており、ほんの少しでも気取った真似をしようとすれば神からイカヅチを落とされる。


結論から書くと「A」までしか出来なかった。僕は意中の女性とホテルに入り、「A」までしか達せない者である。体調が悪いわけでもなく(勃起の不全でもなく)、羞恥に面食らって立ち尽くしたわけでもなく、女性側の周期的な生理現象に寄るものでもない、只々只管に「拒否」をされた、NOの札を出されて身動きが取れなくなってしまったのである。然しながら、ベッドの中で(性交渉に失敗した身分の者でありながら)「こちらとしても好意を抱き続けたままでこのように会社帰りや休日にアポイントメントを取り付け食事をしたりレジャースポットに足を運んだりを続けるのはむしろ苦痛である、中途半端な関係は具合が悪いので正式に、今日を持って交際関係を始めたい」と伝えた。戸惑っている様子だったが、首を縦に振ってくれた。


容姿も内面も美しく、よく笑い気の利く女性と同じベッドで朝まで共に過ごせただけで何をお前は不満なことがあるのかと中学生時代の自分がこの光景を見守っていたのであれば苦言を呈していたであろう、「A」で十分だろう、いわんや「B」以上をやだ。僕は結局チノパンの下の男性器に血流が集まるのが嫌で嫌でしょうがなかった。性欲というものに振り回されたくない。男性器とオートバイのハンドルをタコ糸で縛り付けてサーキットを思い切り走って欲しいとすら思う。こいつの所為で僕はどれだけの金銭と時間を無駄にし、女性と接する上で間違いを犯しただろうか。犯したくないのだ。本日これをもって終了とす、と毎度のごとく戒めては破戒の繰り返しである。



日が昇るまでも「A」までは許されたが結局それまでで、麻里はシャワーも浴びず朝まで白いニットのワンピースから着替えることはなかった。チェックアウト指定時刻は正午だったが、朝9時頃、午後から美容院の予約が入っていた麻里と店を出、ドトールでモーニングセットを食べ、各々家路についた。



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2017/3/1(水)、会社の総合朝礼で人事発令があり、来年度の昇格・異動者の発表がなされた。うちの会社では昇格試験があり、僕は今年から試験を受けられる勤続年数に達していた。初年からいきなり受かる者は極稀である、という声もあり、昇格できたら儲けである、と不合格してしまった場合に保険もかけつつ臨んだ。内容は時事問題や一般常識や小論文「リーダー(主任)に昇格した際の心構え」など、取り立て特筆すべきところもないものだった。それなりに手応えもあった。



昇格者は朝礼前日に人事部から通達がある、という情報も流れており、前日定時までにお呼ばれのなかった自分は恐らくは不合格だろう、と前もって覚悟は出来ていたのであったが、試験(1月)から発表までに上記のように事情が変わり、パブリックの場で無能の烙印を捺されるのが居た堪れない。それだけに及ばず、同じ社屋で働く自分以外の同期並びに、昨年中途採用されたジャルジャル福徳似の男まで「リーダー(主任)」に春から昇進の旨が発令された。僕は頭蓋骨の裏べりに一味唐辛子でも塗りつけられているような、夏目漱石の『それから』で親兄弟から勘当された主人公が電車に乗って職探しに出かけた場面・心情のような、「目の前が真っ赤になる」錯覚に襲われた。よく考えてみると、あれだけ拒否をした「忘年会でのPPAP」をきっちりこなした面々だった。格好が、悪い。列の後ろに並んでいる麻里の目線が背中を燃やすように熱い。



「中学の卒業式前日に、全校生徒の観ている前でヤンキーに胸ぐらを掴まれ振り回される」「高校のマラソン大会で、サボってキックボードに乗っている奴にすら抜かれてビリになる」「初めて行った合コン・ダーツバーで、誰とも喋れず1人で”ダーツの面白い投げ方”をやるも見向きもされない」「インターネットの大喜利大会で、優勝だけでも寒いのに連覇してしまう」など、大方の「ダサ」実績は解除してきたつもりだったのだが、まだ「彼女の目の前で、自分のみ昇進できず」が残っていた。彼女と普段話す中身においても「昔からの知り合いが小説を出し、10万部も売れているらしい」「友だちが芸人をやっており、今度飲みに行く」など、浮世離れした知人・友人を自慢げにあげつらってしまう。本当にダサいと思う。


加えて愚かだから気づかなかったが、同じフロアに交際中の女性が働いている、という状況には逃げ場がない。ミスや叱責など全て筒抜けである。重く責任がのしかかっているじゃあないか。これは一体、どうしよう。



麻里には当日の終業後に慰めの言葉を掛けてもらったが、僕はその日の午前死んだような目をしていたらしい。「”リーダー(主任)に昇格した際の心構え”について書いたけれど、昇格してないから心構えいらないわ」、と己の無能をあえて曝け出す道化をやったが、生活に結びつく以上そのようなおふざけをするべきではない。と解っていながら選択肢が1つしか表示されないのだ。”いつも、なぜおれはこれなんだ、犬よ、青白いふしあわせの犬よ。”。交際関係に至ろうが至るまいが苦悩は終わらず、一先ずは足を今まで向けなかったビジネス本の棚に向かわなくてはならない。
posted by しきぬ ふみょへ at 19:56| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月03日

特別放談



全身黒川涼秋氏と喋りました
posted by しきぬ ふみょへ at 00:29| 録音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月30日

セルフ一周忌

漫画や私小説を出版してえらく評判になる、仲が良かったり悪かったりした人がめでたく結婚をし家庭を築く、長く非正規雇用者、"るろうに"をやっていた人が定職に就くなど、近頃友人・知人の間で生活環境が変わるようなイベントが相次いでいる。ところで僕はというと今日会社に遅刻した。


前日新婚夫婦の家庭に呼ばれ鍋を振る舞ってもらった。僕の家は会社の独身寮なのだけれどもガス・火NGで食材の調理ができない。夕食となるとすき家、天一、立ち食いそばなど専ら偏差値の低いものばかり摂っているので、「やっぱり鍋だと野菜がたくさん食べられるからありがたいでヤンスね」と前歯を突き出しながら与太郎のようにくたくたのキャベツをもりもりと食べた。人の暮らしや幸せに慣れておらずついつい気分も高揚し痛飲、よせばいいのに帰り道に9度のトリスハイボールまで買ってしまった。劇薬をあおり、ビーズクッションに顔を埋めてムーン・ライダースの『涙は悲しさだけで、出来てるんじゃない』を聴きながらオカマの如く涙を流していると意識が途切れ、目が覚めデジタル時計に視線をやると朝の8時、アラームは平日毎朝鳴るように設定しているのだが聴こえず。会社には「昨晩食べた海老に当たった。点滴をうって午後から出社する」と電話した。寝小便をしてしまった後のような不思議な高揚感は地下鉄に映った自分の顔のむくみを見て罪悪感に変わった。赤ら顔で上司に言い訳する。


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身の回りで「面白い」という評判がたって世に出ていく人、というのは大きく分けて2種類に別れる。本人もさることながら身の回りで何かしらの異常、アブノーマル、椿事、とにかくスラップスティックな日常を送っているタイプ、これを「有機的」に面白さを提供する人とするならば、かたや素性やパーソナリティを隠し、私情を挟まずストイックに創作に打ち込む人もある。これを「無機的」とする。有機であれ無機であれ、どちらかに身を賭していたり振り切っている人は魅力的である。僕の場合はバイオにもメタルにも走れず中途半端だ。「自虐じゃ君は周りに勝たれないから、他の方法を考えたほうが良いだろう」という助言も賜ったことがある。自虐に勝ちも負けもあったものじゃないだろう、と思うが、「女に振られた」「会社に遅刻した」程度の谷に転げ落ちても目を引かない。昔の私小説作家は結核や肺炎を患うと「待ちに待った不幸だ」と喜んだという。苛烈な日常を送っている人の声が殆ど直接的に届くようになった今の世の中、「身の切り売り」もサイクルが早くなり、尚更消費されてエスカレートしていくだろう。

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"清貧と豪奢とは両立せず
いゝ芸術と恋の勝利は一諸に来ない
労働運動の首領にもなりたし
あのお嬢さんとも
行末永くつき合ひたい
そいつはとてもできないぜ"

宮沢賢治『まあこのそらの雲の量と』より


"坂口安吾「文士という職業があっちゃいけないんじゃないかな」
小林秀雄「うん、パラドックスとしてはね。―だから、俺も明日からでも陶器(せともの)商売ができる。そこまで行かなければ、何があんた、陶器が判るものかね。」
坂口「それはそうだね。やっぱり生活を賭けるということがなくちゃダメなんだろうね。」
小林「ダメらしいですよ。僕は陶器で夢中になってた二年間ぐらい、一枚だって原稿を書いたことがない。」"


小林秀雄対談集収録『伝統と反逆』より


"なぜといって結局――芸術で腕を試そうとする人生の姿ほど、あわれむべき姿があるでしょうか。ディレッタントであり、溌剌たる人間であって、しかもその上、折に触れてちょいちょい芸術家になれる、なんと思っている人たちほど、われわれ芸術家が根本的に軽蔑する者はありません。"


トマス・マン『トニオ・クレエゲル』(實吉捷郎訳)より


"君が一人の漁夫として一生をすごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく言うのはあまりに恐ろしい事だ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ。
そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じい疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。このせつなる祈りの心は君の身の上を知るようになってから僕の心の中にことに激しく強まった。"


有島武郎『生まれ出づる悩み』より

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かくいう偉大な先人たちの言葉に「何か」を思う、或いは思い込むということを本当は辞めにしたいのである。いい加減にしたいのである。彼は「文学と酒」にヒントが有るんじゃないか、芽を感じたつもりになっているのじゃないか、なんて揶揄をされたこともあり、凡々と生きていくのであればそんなものはせせら笑っておしまいになるが、なんだか無性に腹が立った。が、正確に言えば腹を立てている自分になお腹が立っている。なんでこんなことに苛ついているのか、それはきっと手に入れたいものが手に入らない、着地が決まらず足首をぐねる自分の格好悪さから湧くフラストレーションの矛先が見当たらないこと、ぐるぐると熱ばかりが循環してどこにも吐き出されないもどかしさにほとほと嫌気がさす。妬みや嫉みや恨みばかりが堆積し、バクテリアがうごめき、スモッグがもくもくと空にのぼるところから望まれぬ命が誕生し、映画『ザ・フライ』のラストでハエと人間が9:1ぐらいになった生き物が背広を着て人間の言葉を喋り、会社に出て、頭をボリボリかくとごっそり頭皮が剥がれ、右脳も左脳もなく滴り落ちる。


気に入らぬ人や物を腐す時に、「ひょっとしたらこの人は既に死んでいるのではないか」と吐き捨てることがあったが、自慰の材料に一年前に振られた前の彼女との性行為をプレイバックしている自分がいて、実際とっくに屍(かばね)と化しているのは己の方なんじゃなかろうかと不安になりギョッとした。まったく前に進んでいない。『BLEACH』で言うところの「虚(ホロウ)」になってしまっているかもしれない。セルフ・ネクロマンサーかセルフ・アンダーテイカーかわからないけれど、僕が死んでいるとしたら、死んだ人の更新しているブログとしてやや波も立つかもわからない。
posted by しきぬ ふみょへ at 23:25| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月23日

せっせっせのよいよいよい

真っピンクの自我がぶるぶるとお皿の上で揺れている。





「せせさせせ」と「ささせさせ」で迷っている。「せせせさせ」で行ったろか「ささせさせ」で行ったろか、今仕上げている恋愛の小説のタイトルを果たしてどちらで決めるべきだろうか。今朝布団から起きて朝風呂でも入るか、って素っ裸になって、その時にうっかり出たおならがゴムみたいな、タイヤを燃やしているようなにおいがした。わたしはそんなに悪いものばかり食べていたのだろうか。おなかも出てきたし不摂生を重々承知とはいえてめぇの体から漏れた空気がゴム燃しとんかい、と外に出る気も失せる。洗濯物がカゴから爆発している。なんでこんなことになってしまっているのだろう、と誰かに責任をなすりつけようとしたら一瞬でわたしに跳ねっ返りがきた。というのもわたしの億劫がカゴに沈んだ、いつ最後に着たんだか今更洗ったとこで変わらんのじゃないかという茶ばんだ肌着類を直視せざるをえない。だけどなるべく直視をしたくないのでこのせまっ苦しい部屋で窓際を向かないようにしている。こうして「せせせさせ」と「ささせさせ」でどっちにしたもんやろか、とキーボードを人差し指でうんとこと叩きながらうんうん唸っているから創作に集中をしたく、ケガれに目を向けている場合ではない。そんな暇なんかないんだ。わたしはいよいよ真剣になろうとしていた。


なるべく休みのうちにこの恋愛の小説を進めてしまいたい。怒りや嫉みをエネルギーにして、そのぶん早死にしてもいいからなんとか形にしたい。何が怒りかというとまずは昨日の夜中にコンビニで売ってたプライベートブランドの、チューハイじみた単なる化学薬品にうっかり手を付けてしまい、敗北の味や、これは。とはまあ手っ取り早く酔っ払ってドーピングかましたら文章も進むかもわからない、とつい数飲んでしまったらいつの間にぶっ潰れてた。何も進んでいない。頭が熱持ってる間に「せせせさせ」「ささせさせ」に決着付けられたらよかったんだけれどもそんなわけなくて、冷静になっても高揚したっても決着付かないんかいと朝ぼらけでこめかみのあたりを小突きながら、もうちょっと天啓とか、ぱっと閃いてそこからなんもかも片付くような、バカ大勢で並べたドミノが倒れてうわーっと桜が咲くみたいなあんなたぐいの気持ちよさはないもんかね、あっちにふらりしてもこっちにふらりしてもどっちもドブかよ、と楽しくもない、後悔するばっかりの酒は流石によす。


歩きスマホはやめたほうがいい。というのも、
@危ないから。死ぬかもしれないから
A死ぬかもしれない可能性を視界に入れるのが嫌だから
B歩いてる時ぐらい考えたほうがいいから


@、 普段音楽を聞きながら道を歩くのも怖い自分にとって、よりにもよって一番情報が先に入る視覚を殺してその辺りフラフラできるなんて、命の要らない人 か?255機あるのか?0機しかストックがなく、このプレイで死んだらお墓に入らなくてはならない自分との世間様との違いはやっぱり持っている余裕の差だ。イヤホンで聴覚ともどもダブルで奪っている人らに至ってはこっちから急に刺してやろうか。

A、 そんな余裕に満ち溢れとる連中を行き帰りの一歩一歩沈みながら歩く地下鉄で見たいもんじゃない。死んでも次がある君たちと死んだら終わりのわたしが交差するたんびにこめかみのあたりの大事な血管が反応する。もしかしたらわたしのように歩きながらスマホいじってる奴らが視界に入ると具合が悪くなるからあえて 私も周りへ意識を割かないように歩きスマホをするようになったのかもわからない。ゾンビの恐怖に怯えるぐらいならゾンビウィルスに感染したほうが幸せだ、 というのと同じ理屈だ。こう考えると@の項に説得力があるんじゃないか。あいつらは殺したって殺したことにならないんだから。この部屋にある武器になりそ うなアイテムといったら包丁ぐらいだ。包丁一本で地下鉄から脱出してやる。

B、 歩いている時が一番思いつく。どういうことを思いつくのかというとなんだろう。アイデアだ。アイデア?わたしは貧困か?歩いていると思いつくのは「歩行」 と「思索」のリズムがどうも噛み合っているからというのを高校1年4月、現代文の教科書で読んだ。今に至るまでぼんやり中身を覚えていられたのはその時少しは高校生活うまくやろう、と意気込みがあったからなのだろう。一瞬で失せてしまったので以降の出来事はほとんど蘇らない。その時瞬間ごとの燃えるような心模様をいつでも呼び戻せる人間になりたい。

アイデア。練気。かめはめ波。「かめはめ」がほどよく膨らむ、のが歩いている時。だからよそから情報をなるべく入れたくない。がん検診を受けましょう、とか、就活サイトのリクルートスーツの青年が青空に向かって思い切りジャンプしているポスター。世の中は雑音、靴音、軍靴の地響きまみれだ。必然性もなくそれっぽく意味だけこじらせて焦らされるオブジェクトばかりが散見される。あんたに言われんでもわかっとるわ。おのれの体にガタが来とったら、自覚症状あったんだったらワシのほうから医者にかかるわ。いちいちポスターでガミガミ言うな邪魔くさい。

邪魔くさいのなら自分の手のひら、スマートフォンの画面に集中できたほうが余計な情報をシャットアウトできるのでひょっとすると皆色々と逡巡した末にイヤホン、ツイッターをお供に道を歩いているのか。そんなことあるかな。喧嘩したら連中には負けるだろう。情報遮断してふんぞり返ってほっつき回れる肝っ玉の奴らに勝てるわけがない。リミッターが振り切れているから。悔しい。もっと、鍛えなくては。

いっその事寝タバコで全部焼き払ってしまったら案外愉快かもわからない。のり塩、ゆず山椒味、旨辛チキン味、ポテトチップスの空き袋。結局のり塩が一番うまいことをもう小学生の頃から、慣れ親しんだあの塩気に勝るものはないのだが、ちょっと色気を出して失敗してはまた帰ってくる。やっぱりビートルズに帰ってきちゃうんだよね、と同じかな。違うか。気合い入れよ。500のペットボトルで頬を殴った。


いっぺん試しに買ってみたがチャンピオンのパーカー。これが似合わねえの。パーカーが似合わないってもう「服」がわたしに不向きだろ。ラフな格好とそこそこの年齢が釣り合わなくなってきているわりにフォーマルな場所に出席するのもおこがましく、メガ・ドンキホーテしか行く場所がなくなってしまった。あそこなら「不相応」という考え方自体が欠如しているので今のTシャツにリラコ姿でも誰にもぶっ飛ばされないで済む。


メガ・ドンキホーテで思い出した。ドンキで自転車を買って、職場までの通勤でちょっとでも運動になるようにというので春先意気込んでいたのにまったく乗っていない。なんか、社会人ともなると自転車通勤組が乗っているチャリってロードバイクとか若干カスタムしてあったりとかホイールの口径が小さくておもちゃみたいな、おめえロンドンやパリでも走るつもりかよ、白人様が乗るタイプじゃないのけ、という優雅な、だから「チャリ」なんて表現にふさわしくない、「バイク」しかもイントネーションが尻上がりの「バイク」だ。10何万とかするんだろう。わたしの購入した「チャリ」は確か1万円しなかった。「チャリ」ごときに本気になるのも恥ずかしく、だからといって本気になっている人を揶揄するわけでもない。ただ「チャリ」「ごとき」「恥ずかしい」と己の中でぐるぐる回り、決着の付かないまま息をしていないチャリが眠っている。休みの日ぐらいは何処かに行ってやろうか。何処に?それわからない。


本棚。本屋でわたしは何を血迷ったんだよ、というバリ島旅行ガイド。思いを馳せるだけで終わる。第一わたしは基本的に絶対に死にたくない。日本人とすらコミュニケーション取るのに難儀しているんだから、いつのまにやら海外の屈強な野郎どもの怒りを買ってヘッドロックで連れ回されてバーカウンターに叩きつけられて死ぬ。バーには行くんですね。


本一冊、買ったら南国の風が吹き込んでくれるかな、とわくわくしていたんだろう。わくわくって。しゃらくさい。もう私は絶対に南には行かない。感性も死んでいる。本一冊で、なにか小さなきっかけで人生がらっと転がるような出来事なんかない。ナシゴレンもミーゴレンも食べない。なにがゴレンだ。ロコモコだ。もうネーミングの響きからして間抜けで南の島の人らとは話が合わないだろう。ハンバーグに目玉焼きとご飯?そんな美味しいに決まっているのにいまさら威張られても。わたしは4歳の時にもう気がついていたよ。ハンバーグの上に目玉焼きを乗せて丼にしたらかなり美味しい、という事実に。特許をとっておけばよかった。昔テレビで見た、特許で儲けている安全サンダル閃いたおばさんは幸せにしているんだろうか。


YouTubeでアイドルのPVを漁る。基本的に明るい未来のビジョンを歌っている。勇気や行動力をもらえるかもしれない、と一縷のやつを望みつつ肩肘をついて見る。可愛いなあ〜〜〜、と薄ぼんやりしながらとっくに眠らないとそろそろ翌日の業務に支障が出そうな時刻になっていた。夢だ希望だとヘラヘラしながら受けるだけ受けてなんてわたしは矮小な存在だっただろう。と、そんなに卑下しないでもいいはずなのに、どこかで割り切れずに、ただ苦しい。アイドル自体になりたいのか、アイドルの活動内容を事細かに噛み砕きたいのか。いや、ただ彼ら、彼女らにわたし自身の生活を立て直すエネルギー、それが建前であって構わないから、前に突き飛ばして欲しいんだ。「失った」のではなく、はじめから分けてもらえなかった青春が遅れてわたしの背中を突き飛ばしてくる。


しゃんとしたい。凛としたい。ちゃんりんしゃん。誰かにお尻を叩いてほしい。お尻を蹴られたい。お尻をつんざいてほしい。わたしのお尻は面白い。人間のからだの中で一番無防備でもろい部分がお尻だ。「心」というものが存在するのであれば、わたしのそれはお尻にある。おならと共に心を放出している。だから、たいしたことはないのだ。わたしの自意識は、一発の屁のごとし。屁如(へにょ)かよ。崖の上の屁如。うるさいうるさい、しゃんとしよう。


それにしたって、わたしの感情に説明がついたとして、理屈をいくらこねたって、「だからどうした」という声が怖かった。ついこの間までは。そんな懊悩はわきまえて生きているんだぜ、ぐちぐち考えてないで手を動かさんかい。汗流さんかい。という正論のハリセンで後頭部をどつかれる。でもわたしにダメージはそんなにない。なぜならば、わたしの心はお尻にあるからだ。考えている脳みそがいくら痛めつけられたとしても、かさぶたが出来て、なおって、元に戻る。考え直せばいいだけだから。だけど心が痛めつけられるのが、辛い。心を炙られる。心に塩を塗られる。心に頭突きをされる。焼ける痛み、飛び上がる痛み、単純で鈍い痛み。など、ありとあらゆる種類の痛みが、一見無防備でまぬけなお尻に与えられる毎日。お尻の肉の厚みは心を守るためだ。納得。だから痩せたくない。痩せてたまるか。


うん、もう一杯だけ飲むか。ボトルを買ったときにノベルティでくっついてきたグラスに茶黒いウイスキーを指二本注ぎ、割ろうとしたらペットボトルにミネラルウォーターを切らしている。もうこうなったら水道水で割ったろか。いや部屋から一歩たりとも出たくない。重たいんだ、わたしの心を防御する肉のついた尻が。


野武士の如くストレートで茶褐色の毒水を飲み干した。のどちんこが真っ赤に燃える。紅蓮のどちんこ。あごの先っちょからこぼしてしまったヘドロを垂らしている。わたしはこれから合戦に行くのか?誰の首を、タマを獲るんだ?いやそんなはずはなかった。眠りたい。さっきからかなり眠りたい。闘うのは明日かもしくはそれ以降。いい加減今何時だ。裸眼で暗闇、明かりはモニタのブルーライトのみ。まったく時の進み方がわからない。そろそろ止まったかな?終わったのかな?時。
くっそ。けっ。どうとでもなれ、というくらいにはどうやら酔いが回っている。「せせせさせ」「ささせさせ」。どっちにしよう。


二択に強くなりたい。わたしは常に「こっち!」とY字路で根拠なくハンドルを切って崖から猛スピードで落ちている。あえてこっちいってみようかな?の逆。自分を信じよう、の逆。あらゆるパターンの逆。きっと自分に懐疑的でありかつ過保護であり、どんな結果にも満足できなくなっているんだろう。「もっと出来るはずだ」「やれんのか?やれんだろ?」とお皿の上のピンク色の自我がキーキー主張してくる。窓の外に投げてやろうか。お前のせいでどれだけわたしが苦しめられてるんだふざけやがって。YESかNOか、○か×かの2択。もうむしろどちらでもなく、ちょうど真ん中をストレートに駆け抜け、どちらのパネルに飛び込むのでもなくただただ支柱に激突して昏倒するという選択肢を選びたい。どうせ間違うなら、自分の意思で間違いたい。そんなものは言ってしまえば「成功」か「失敗」かから逃げているわけだけれど。ああ、くだらない。


どこぞのロックの人が、「ステージに立ってギター抱えて何か一発音を鳴らしたら、それはロックだ」と言ったらしい。じゃあ、じゃあですよ、あほぼんでぼんくらであんぽんでへんぽんですてれんきょうで、なんだらの素養もないわたしがギター抱えて人前で顔を真っ赤にしながら弦をバチでべんべらべんべんやってみたとして、そんなものは果たしてロックなのだろうか。恥じーだけだ恥じーだけ。ていうかロックって何だ?面の皮が厚かったらそれがロックなのだとしたら、先ほどの指二本が血管に回っている今のうちに人前に出てがなり立てたてたら成立するんじゃないんか。ニトロが肝臓を痛めつけている間だけ人はロックでいられますか。お薬が血液にまわっておりながらの場合のみ格好をつけられるのがロックでしょうか。


手探りで、眼鏡をかけた。どうやら午前の2時半。わたしはお腹がすいたので回転寿司を食いにでかけた。もうどうとでもなれ。打破には寿司しかねえだろう。24時間体制で寿司を提供している近所の偏差値の低いチェーン店に入った。明日のことなんか死にさらせ。あ・うん。
早速電子メニューを御覧じろしている。あまりじっくりタッチパネルの画面を睨みつけていたら、回転寿司屋の小僧が「A~、ドゥーユーノウハウトゥオーダー?」と尋ねてきたので、習いたての日本語で「あ、さいっす」と答えた。そういやまともな日本人は寿司をつまみにくる時間じゃないんだよな。恥ずかしい。小僧は、腑に落ちぬ、という表情でカーテン裏のコンベア上流へと引っ込んでいった。


タッチバネルを操作したら己の意思どおり、意のままにお寿司が届く。わたしの知らないうちにガラっと様相がひっくり返った。お寿司、ごちそうじゃなかったでしたか。ごちそうがこんな軽佻に浮薄に扱われて良いんだろうか?誰がこしらえたのだかわからない、米粒の直方体に魚類の一部分がペーストされた食物が2ヶセットで特急レーンの上をつついー、とすべってくる。

いっちょう、わたしはバナメイえびとアボカドの軍艦巻きから始めた。フィリッピーンの潮にもまれた良質のバナメイとアボカドの脂が織りなす重奏をくちゃくちゃ咀嚼しつつ、夜中に食う寿司うめー。味蕾から体が蝕まれていく感覚癖になるでやんすね、とまず一皿を片付けた。続けざまに炙りとろサーモン。こいつもカナダあたりからアジア人の舌べろに悪い脂の膜を張りにそぞろ遡上してきたろくでなしサーモンで、このうえないてろてろがバーナーの火炎でいい具合に香ばしくなっていてお下品でお上品で美味しゅうございますという具合。


炙りとろサーモン、からのマヨコーン軍艦。ひょっとしてチェーンの社長のお孫さんあたりが発案者なのか?という野趣あふるる、とうもろこしとマヨネーズをちゃっちゃか和えたどろどろを酢飯に積載して海苔で帯をいなせに締めた高貴で誉れ高き馬鹿げた一品。ワンプッシュで適量の雫が落ちてくる、トリクル醤油さしをニ、三滴ぽたぽたさせてから口に放り込む。マヨネーズととうもろこしと、酢飯と海苔と醤油。単純明快な味の足し算。わたしの人生もこうであればいいのに。「お金に困っておらず痩せていて、おしゃべりが上手で家庭環境が良好で大きな病気をしたことがない」のに等しく明快な和算。「願いましては、おいしいなりおいしいなりおいしいなりおいしいなりおいしい。では?」「すごくおいしい。」


などと完全なる阿呆の経営しているそろばん塾に通っているがごとく、豚のカツを無理くりシャリに縛り付けた寿司もどきを注文したり、サイドメニューのフライドポテトを頼むやんちゃをやってみたり。とっくに世の中が寝静まった頃、気力もなく、心頭滅却して働いているアジア系パートタイマーを横目に、虚無の心意気で提供されるカロリーをひたすら胃に入れる。需要と供給の歯車と歯車が容赦なく背骨をバキバキに巻き込んで砕く。ついつい、杏仁豆腐まで食べてしまった。本来はケーキに行きたいところだったが手加減しての杏仁豆腐。理性の杏仁豆腐。

からの、茶碗蒸しまでたいらげ、しめて12皿1300円強を支払い店を後にした。夜風かあるいは朝風か、生ぬるい半端な空気の中を歩いている。本日と明日(みょうにち)のはざまで、わたしは娑婆で以降もやってけるものだろうかと、薄ぼんやりとしたねずみ色の目頭を擦りながら国道沿いで考えていた。どうにもならない。も少し違う。どうにもしてくれない。は甘えている。凪いでいる。ジャパニーズ・レゲエの重低音を轟かせるビッグスクーターとすれ違う。お前さんたちはバカだよ。本当に世の中にけつを向けて犯行をしたいのなら、ジャパニーズ・レゲエなんかじゃなくて、「日本の瀑布」のオムニバスCDをかけろ。名だたる滝の水しぶき、スプラッシュとともに単車を乗り回せ。どうも反抗の様式が凝り固まっていて、くだらないよ。わたしのように、夜中に寿司をつまみなさい。


と、若者のわんぱくを許容できるふところの深さも携えず、こめかみに老害ならではの緊張を走らせながら、アパートの階段を上がった。後ろ手に錠をロックし、ゴミ溜めの明かりに目をやる。点けっぱなしのモニター、進んでいない「せせさせせ」「ささせさせ」の文字羅列。羅刹。ひとまずの一件を落着させたふりをしてビーズクッションに頭をずしんとゆだねた。わたしは恋愛小説を書いているんだ。こんなところで棒きれになってたまるか。こんな自暴自棄と雑穀根性の燃えたぎる胃袋で、寿司がどろどろに消化されてゆく。よく言えば理由なき反抗。悪く言えばズボラのなまけ。よく言ってくれる人なんか、いるのかな。どこかに物好きは居るだろう。そんな見てみぬ変人。が現れることを夢見つつ、へたりきった抹茶色のビーズクッションに縋り付きながら、わたしはフローリングの染みとなるがごとく眠ろうとしている。いくらデッキブラシでこすっても消えない、ニンゲンの死んだ痕。マーキング。事故物件となった我が部屋が、格安に家賃が下がることによって、金銭的には恵まれないが才能に満ち溢れた若者が住んで欲しいな。わたしは染みになって若者の活躍を見送る。それがいい。そうしよう。せせさせせ。ささせさせ。せっせっせのよいよいよい。
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2017年01月21日

四次元の女

学生時代の夏休み、青森県立美術館:成田亨(ウルトラマンの恰好を考えた人)特設展の道すがら常設の棟方志功に出くわした。
なんとはなしの美術館見学で、素養もなにもろくにないのだが、平日の真っ昼間で空いているだろう、天井の高い施設で贅沢を味わえたらいいとJR青森駅前からバスに乗った。開館前に青森県立美術館前バス停に着き、時間つぶしにぐるりを一周した。


棟方志功への印象が、『二菩薩釈迦十大弟子』に「えらくお坊様がひしゃげて収まっておられる」と思われた、ぐらいしかなく、なんだか身につまされるという実感はなかった。新潟県中越地方の方言でいうところの「せぼんこ」である。むしろこういうものを見ても何も得るところがない自分の腐った右脳をひと冬雪の上で転がしておきたくなる。ほとんど人は誰もいなかったのだけれども、大きなブルトンの模型の前に男と女が屯しており、女がブルトン見るなと憤りを覚えた。正確に言えば、男は女をブルトンの前に連れてくるなということだ。ブルトンは四次元の世界に人間を引きずり込む能力を持っている怪獣だ。ブルトンの前で手を握るな。ブルトンが怒れば、今のお前は今の僕だってこともありうるのだ。


日が経ち、高円寺の古本屋で志功60歳頃の自伝『板極道』を買って読んだ。という記憶を最後に棟方志功という人物が頭に浮かぶことはなかったのだけれども、通勤途中地下鉄御堂筋線天王寺駅内ホームの広告で毎日刷り込まれていたあべのハルカス美術館で開催中2017/1/15(土)までという文言と辨天様が脳裏をよぎり、「本日までということは、観に行っておかなかれば今後損をするかもしれない」という貧乏根性に突き動かされ家を出た。寒波の日だった。


メスカマキリが交尾した後、枯れ果てたオスの躯を頭から食いちぎるであるとか、深海に棲んでいるアンコウが自らの何百倍という縮尺の、大いなる女体の一部と成って化石となるべくして生きているとか、「組み伏せることの能わないもの」として女性を捉えるようになったのは、大学卒業以後我が身に降り掛かった、ナタで葦を払われるがごとくの即死失恋に端を発するのか、こんな矮小な経験に重ね合わせるのが無礼か、兎にも角にも、僕は先の貧乏根性、合わせて棟方志功の「女性礼賛」に現状の打開策を求むべく入場料を支払う。


棟方志功は生来眼を病んでおり、板に鼻のくっつきそうな近さで刀を振るっていたのであるけれども、「今立ち向かっている対象」に対しての己の呼吸さえ板に跳ね返えされる距離と、扱う題材としての「仏性」「ねぷた」「宇宙」「祭」「神々から人へ」「人から神々へ」といった、魚眼で捉えたかのような視野の広さ。つまり、「視る」ことと、「表される」ことになんらの連関性はつかないということである。『板極道』では、"目が弱いわたくしは、モデルの身体の線も見えてこないし、モデルも生涯使わないで行こう。こころの中に美が祭られているのだ。それを描くのだ。"という。ここにいない自分を彫るということだ。しかし何度振り返っても自分はここにおり、「利己の残像」がある。


『辨財天妃の柵』の前にベンチがあったので、座って暫く作品を眺めた。女の前に居ると頭がぼーっとしてくる。ふと思う、わからないものをわからないと、責任を持ってそのまま書いている人間はなかなか居ないのではないだろうか。ようやっとルーベンスの絵の前にたどり着いたネロが、「案外こんなもんかね」と直帰するのだってありうると思う。これでいこう、と立ち上がると、ブルトンの前で拳を握っていた自分と空間ごと入れ替わった。バスは一体何時に出るのだ。
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posted by しきぬ ふみょへ at 01:52| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月13日

桑田佳祐と「落ち込む」

2014年の暮れ、紅白を家族で見ていた。
サザンオールスターズが何年ぶりかで出ていた。どこかの会場からの中継でいきなりハイビジョン映像に切り替わり、あの「一線を置いている」タイプの大御所が満を持しての出演となると決まって別会場から高画質で現れるのがあまり好きではなくて、いつだったか中島みゆきが黒部ダムから地上の星を歌った時も「会場に来なさいよ、あなたも大人なのだから」と思った記憶があるけれどもともかくそれはそれとして、桑田佳祐さんがその時一番の新曲だった『ピースとハイライト』をがなっていた。


昭和30年代後半生まれの父親が、歌詞に文句をつけている。いまさら楽観的に「音楽の力で平和を」だなんて、そんなふうには笑ってられんのだと。もはや戦後ではないのだと。家の中で唯一喫煙を許されているスペースである2Fのトイレの床に『マンガ嫌韓流』が投げられていた。インターネットで右翼をやっているかどうかは聞いたことが無いがサザンの結成当時から平行線で人生をやってきた男がテレビに石を投げている。WOWOWで中継された同ライブにおいての、紫綬褒章を顔の横に掲げるパフォーマンスが槍玉に上げられて、後日謝罪の文章を打っていたことを知る。何だかひどく落ち込む。


ニッポンで芸能とポリティカルな行動って心底相性悪いので止めておくのが懸命でしたね、とか、謝るのなんてダサい、"ロッカー"なら反骨精神を一貫して持ちなさい、とか、2年も経って散々言われ尽くしている部分は蒸し返さない。落ち込むのは、これを契機に「桑田佳祐って何?」と一回息をついて見つめ直した時に、この人に対して「情緒」以外で好きな部分が自分の中に無かったのではないかということだった。紫綬褒章にしろ、チョビ髭にしろ、サザンオールスターズ | SUPER SUMMER LIVE 2013 「灼熱のマンピー!! G☆スポット解禁!!」にしろ、どうも「調子に乗っていますよ、弁えていますよ、おじさんだというのにね、笑ってくださいね」と自分で見えている範疇を尚飛び越えてやらかしているんじゃないかこの人は、という気がしてしまう。「ヱビス。ちょっとぜいたくなビールです」というキャッチから漂うロマンスグレーにも似たユーモアである。サザンの醸す「情緒」は素直に格好いいと感ずるのに、ライブで両脇に女のくびれを抱えた桑田佳祐を見て、「おじさんのC調」をやられると、怒る、とか、嫌だなぁ、とも少し違う、「落ち込む」のである。


僕が好きな、「父親のカーステレオ」で流れていたあのサザンがどうしてもある。エロからノスタルジーから、「なんでも出来ますよ」の十把一絡げ、ごった煮感がファンを引きつける所以なのだろうけれども、その「エロ」および「笑い」という要素は、これはどうしたって、どうあがいたって世代ズレが生じる。しょうもないことをあえてやっているんですよ、の自戒以上に下品さが先立ってしまう。受け手であるこちらとしても、「おじさんのポンコツさ加減」をストレートに腹を抱えて笑う心構えはあるのに、それでも尚。だ。僕は鎌倉から湘南に向かう江ノ電で、当時付き合っていた彼女とイヤホン片耳ずつで希望の轍を聴く、という大地を揺るがすが如くのベタをかましたことがある。BGMとしての、舞台効果としてのサザンに絶大なる信頼を置いていたわけである。その憧憬にあるサザンが好きなのに。浜田省吾も佐野元春も、イズムがいききっているおかしさもあるけれど、最後にはカッコよさが勝るから僕はこちらのほうに魅力を感ずる。


2016年のソロ新曲『ヨシ子さん』を聴いた。曲調や音楽的な斬新さは僕にはわからないけれども、「EDMたあ何だよ、親友(Dear Friend)?"イザ"いう時に勃たないやつかい?」という部分に、遠い目をしてしまう。自分が若い時に思い描いていたおじさん、老い、をあえて演じているんですよ、というエレジーで勝負されるのがこの憂い・落ち込みの原因なのか。"あえて"という精神の運び方は日常において自らを苛烈に至らしめる上で大事な態度とは思うけれど、それを伏せずに作品として世に出してしまうのは受け手のがっかりに繋がってくると思う。この辺りで桑田佳祐と長渕剛を2人同時に相手取るような爆弾魔のような人が出てきて、風穴を空けるのか吹っ飛んで死ぬかするところが見たい。
posted by しきぬ ふみょへ at 00:02| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

自律直進



朝、出勤時、麻里に社員通用口で偶々出くわした。階段を並んで上がりながら、「今晩か明日、ご飯いきませんか?」と誘われる。先週から今週頭にかけての出来事・椿事があって、よもや先方さんからアプローチをかけて頂けるとは思わなかった。金、土、どっちだろう。しかし今から一拍置くとどうせまた要らぬ小手先を練って下手をこき崖から落ちるのが関の山なので、一も二もなく今晩ご飯にしようという返事をした。


告白と言えば聞こえがいいが吐瀉に近く、食道近辺で本音が決壊した。アルコールの濁流に身を任せてしまっていた、欄干にしがみつきながら叫んでいた。などとという心情や「私」のなかで観測された内的の信号などは無理やりに受け取らされた当事者たる相手からすれば知ったことではなく、ただただ土間土間で鍛高譚の水割りを頼み続けるだけの会社の先輩が「メートルを上げている」に過ぎなかったのだろう、と思っていた。


仕事を終え、晩に合流する。相手に気を遣わせまい、と無理におどけている自分がおぞましく感じられる。そもそも貴様が余計な勘違いをしていなかったならば、麻里の生活を煩わせずに済んだのだ。そのくらいの責任を負え。あんまりふざけるな。背筋を伸ばせ。


梅田第一ビルB2Fのワインの安い居酒屋で、目の前に座っている女性が一体何を考えているのだろうということを理解したかった。カルパッチョ盛り合わせ980円のスズキやサワラに「脂が乗っていて美味しい」という感情を相通じて抱けるのだから、本当にこの人が未知なる「何らか」ではないし、そういうように人間を捉えることが非礼だ。


理解するように「努める」という心構え自体が既に、相手の顔面をじかに懐中電灯で照らすかのような厚かましさを内包しているし、かといって謙譲、もう少し行き過ぎると「崇拝」のような、絶対的な存在のまえにひれ伏すのもおかしい。もしくは、覚悟がない。「フェミニズム礼拝」をやれるのは棟方志功のように純然と芸術に向かえる人間だけであって、ほんの一縷でも「交際をしたい、キッスをしたい、セックスをしたい、Cまで行きたい」と勃起の針が振れてしまっている自分の汚穢がほとほと胸焼けがするのだが、かと言って振られたとなると「貴方と一緒にいるとこんなに楽しいといってた"くせに"」と相手に責任をなすりつけ卑下にもっていく自分が存在しているのも事実で、結局はエゴありき、己可愛さの為にやっている嫌らしさを捨てきれない。


然しながら、最後の一滴までエゴの澱をこそげとって相手に身を捧げきるなんて絶対的献身が果たして可能なのか、という疑問がある。「どうせ自分が気持ちよくなりたいだけだろう」という指摘をされて思うところのない人間がどれだけ存在するのか。例えば「向かいに座っている人を笑わせる」という行為は一見なんの否もなく損もないように思われ、僕自身どこかで「献身」をしている気にもなっていた。付随して「目の前の人間を笑わせたい」「ウケたい」「気持ちが快くなりたい」という自分自身へ返ってくる快さも目的のひとつなのは間違いない。この「快さ」をつまりエゴとして弾劾するのであれば、報われる日なぞ一生巡ってこないのじゃないだろうかという怖さがある。さだまさしは『道化師のソネット』で「笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために」と歌っていた。「僕のために」も含まれている。畢竟ピエロだって救われたいという欲を捨てされていないのではないか。坂口安吾は『ピエロ伝道者』で「竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない」と書いたが、そこまで気高くはなられない。


「誠実という態度」を担保にしてしまっている。つまり、倫理や規範におもねる自身の身に不幸や、あるいはしくじりが生じた際に「誠実という振る舞いをしていたのだから、私に否はない」という逃げ道のための「誠実」をしていた。「偽善」と言い換えられるかもしれない。世の中に責任を押し付けるなということだ。僕が不倫や浮気をしたことはないのは、いざ相手に不貞行為を働かれた場合に民事で勝とうとしているだけ、被害者であろうとしているだけなのではないか。


麻里は珍しくアルコールを頼んだ。お酒には弱いのだけれども味は好きらしく、たまにひと口ぐらい自分の酒をあげることもあったが、まるまる一杯を飲みきることはなかった。話は弾んだ。終電も近くなり家に帰ろうとJR大阪駅中央口まで送ると、円柱に凭れて瞼を重そうにしている、このまま電車に乗せるのも危ない。機転の効かざること、小回りの効かざること山の如しで知られている僕がしばらく両肩を揺さぶるでもなく揺さぶらないでもなくしていると終電が無くなった。心の中の金田一がフケを撒き散らしながら頭を掻きむしり掻きむしり、ようやく導き出した答えとして手を引き梅田茶屋町のシダックスに入った。受付で蝶ネクタイの男から札を受取り、番号の部屋を開けてみると前の客が注文した料理や飲み物がテーブルの上から片付けられていなかった。一旦麻里を待機させてロビーに戻り蝶ネクタイの男にそのことを告げると陳謝され、すぐに代わりの部屋に通されたのだけれどもワンランクいいお値段のするVIPルームだった。ソファが張っている。詫びのVIPルームで僕は麻里をソファに寝かし、向かいに坐して腕を組んでいた。何だこの時間は。


始発までは5時間ほどもある。まんじりとしてればよいのか。先週の今日、で反省をしていた僕はペースを抑えていたのでほぼ酔ってはいなかった。小一時間か四半世紀ほど経ったころに麻里は目を覚ました。付き合わせてしまってごめんなさい、と謝られる。全然大丈夫だよ、こちらこそ無理させて申し訳ない、と答えたが、それどころではなく、もうこれは「GO」をしてもいいのか、いや「GO」をしてうまく行ったためしが無いじゃないか、しかし「GO」をせず、間抜けにカラオケで場を持たせて朝まで過ごすのも嫌だ。先週の「自分の気持ちのあえて逆をやる」なんて呆けた真似を二度と繰り返したくない。素直にやるんだ素直に、と部屋のドアを開け、ドリンクバーで2人分のウーロン茶を取りに行き戻りながら僕は麻里の隣りに座った。


そして先程の大阪駅中央口での半端な風林火山ではなく、抱きしめねばと抱きしめた。しきぬさん酔ってませんか?と諭されている。冗談ですよね?冗談であってくださいね、とでもいうように。ここで嘘をついてはならないと、「自分自身を騙す自分自身」を殺してやろうと僕は麻里にキスをしようとした。麻里は顔を背けた。計3機、墜落した。
思い起こせば去年のクリスマスになんばパークス裏の高速バス乗り場で当時の彼女に背けられ、2ヶ月前には昔好意を抱いていた女性と再会し、その晩に京都の個室居酒屋で背けられた。高円寺の、5000円を支払ってお茶を運んでくれる女性と仲良くしてもいいお店でしか、この1年でキスをすることが出来なかった。資本を媒介しないキスはこんなにも遠いものだっただろうか?今年Twitterで「性の喜びおじさん」とキャプションをつけられ、女性と交われない不平を電車内でわめきちらす中年男性の映像が拡散されたけれども、全く笑えなかった。僕はわりと家であのような感じだからだ。


するとまた、左に曲がっても右に曲がってもドブに落ちる錯覚に襲われたのだが、まっすぐに走れば大丈夫なのだ。もしまっすぐ走ってその先もドブだとしても、前のめりに死ねるのには違いないと背筋をただし、先週、宇治で突然自分の意をぶっつけた否を謝り、もう一度あらためて告白をした。答えは今じゃなくてもいいから、すっかり気持ちを受け取ってもらおうと思った。麻里も了承してくれた。午前5時のフリータイム終了の内線で店を出て、駅で別れた。


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クリスマスの日曜に遊んだ。大阪市立科学館で「宮沢賢治の科学」特別展を見、淀屋橋駅近くで予約していた店に向かうまで歩くと、そのあたりの催しについては全く予備知識がなかったのだけれども、偶々中央公会堂の横を通るルートで人もごったがえしてきた。プロジェクションマッピングをやっているらしい。せっかくだからと見に行った。昭和30年生まれということもあり、プロジェクションマッピングというものを実際に見るのは初めてだった。建物に大阪の町並み、歩みが歴史とともに順繰りになって目まぐるしく投影されている。10分ほどの上映が終わり、順路に戻る人の波に飲まれぬようという口実を見つけ、「ココだ!」と僕は麻里の手を握った。しばらく歩いて人混みもある程度落ち着くと、「もうはぐれる心配も無いから、手を離しても大丈夫ですよ」と言われた。だから手を離した。恋愛関係に唯心論を持ち込んで無意味にダメージを負うのをいつ止められるのか。


ご飯を食べ、2日前にロクシタンで購入したハンドクリームをプレゼントで贈った。店を出て駅まで向かう。御堂筋のイルミネーションは青色だった。宮沢賢治が『春と修羅』の序文で「因果交流電燈の ひとつの青い照明」と書いていたけれども、ありとあらゆる事象は因果じみた電気回路で繋がっていて、何かの拍子に青色に光る。きちんと理論にした人間が「青色発光LED」を発見した。「有機交流電燈」と「有機EL」という言葉が何の科学的連環もわからないくせに頭の中で水平に浮かんでいた。


イルミネーションを見に行くカップルの波を見終えた我々が逆流していると、「いろいろ考えたんですけど」と麻里が切り出した。このトーンはいつも僕が爆発する前に流れるイントロだ。少し腰を落として話を聞く。「同じフロアで働いている人と交際関係になったとして、もし普段ケンカをしたとしたら仕事に影響が出てしまう。切り分けは出来ない」「ずっと好きでいたい。一緒にいるのは楽しい。わがままを言ってごめんなさい。」という答えだった。


「まとも」な理由と思う。本心はお前となんか付き合ってたまるかと思ってるけど気を遣ったのだろうよ、という指摘をしてくる人があるかもしれないし今まで僕がそういう立場だった。けれどもそういうひねた考えは毛頭なかった。「まとも」という壁を破る破壊力を持っておらず、なまじ「誠実」という偽善に縛られている自分は、それでも君のことが好きなのだという理由一本で突破する腕力がないまでだ。それは、そうだろうと思った。さっきのハンドクリームだって、「普段来客用の茶碗を洗い、手荒れに困っているのが可哀想だから」というもっともな理由を掲げながら、どうしたって気に入られたい、好かれたい、喜ばれるんじゃないかというエゴだって確かに存在してしまっているのである。「本当に心の底から手荒れ、治れ!!」という思い一本なら、いい皮膚科を紹介するのが正しいだろう。麻里の幸せを第一義に掲げるのならば自分は戸籍ごと抹消されてなかったことになるのが良いかもしれないが、そんなはずあってたまるかという僅かな反骨に寄りかかっている。


明けて月曜日、仕事が終わって少し話した。「あの時手を離しても大丈夫とか言うんじゃあないよ、思い切ったんだぞ」「いやめっちゃ失敗したなって思ったんですよ私」と、振られた自分をピエロにしたのであるが、ここからさて来年に向けて打開する余地があるのであろうか。背中に光の差す日が訪れるのだろうか、前のめりに2016年を締めくくることにする。
posted by しきぬ ふみょへ at 20:03| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする