2016年10月31日

フォルティシモ無意味論

おまえの涙も
俺を止められない
いまさら失う
ものなど何もない

言葉にならない
胸の熱いたぎり
拳を固めろ
叩きのめされても

激しくたかぶる
夢を眠らせるな
あふれる思いを
あきらめはしない

愛がすべてさ
今こそ誓うよ
愛をこめて
強く強く




大友康平さん率いるHOUND DOG(ハウンド・ドッグ)が1985年に発表した楽曲「ff(フォルティシモ)」。
1番の歌詞を抜粋し、吟味し、咀嚼してみたい。
1985年度年間56位(ザ・ベストテン調べ)である当楽曲が当時、日本で56番目に国民の琴線を震わせた根拠・いわれは果たしてどこにあるのだろうか。


おまえの涙も
俺を止められない
いまさら失う
ものなど何もない



作中の俺・大友康平(以下、こうへい)は「おまえ」に涙を流させてしまった。原因はわからない。けれども、俺の夢、目標を最優先事項に据えているので、今さらどうこうと咎められようがこのまま突き進むという決意表明。「いまさら失うものなど何もない」とこうへいは言う。「おまえ」を失うことを厭わないようだ。おまえの涙以上に崇高で価値を感ずるsomethingをこうへいは追い求めているようだ。果たして一体なんなのだろう。はっきりしない。最後まで。


言葉にならない
胸の熱いたぎり
拳を固めろ
叩きのめされても


言葉として表現できないほどにパトスを感じている。その対象が不明瞭だけれども、リリースされた年、こうへいは29歳。今更言葉にならない怒りを表明するにはいささかおじさん過ぎはしないか。言葉にならないことと、「言葉に出来ない」のは別だ。「言葉にしようとしたか?」「サボってない?」ということだ。ここで飛び火させるのもどうかと思うが、怒髪天の「おじさん頑張ってるんだぞロック」も馴染めない。俺もおじさんに片足突っ込んでいるけれども、果たして四十を迎えて「おじさん頑張ってるんだぞロック」を聴きながら中ジョッキを煽って月曜もお仕事頑張るぞ!と活力にするものだろうか?苦手だ。目を逸らしてしまう。


1985年。ブルーハーツが『1985』で”全ての大人に感謝します"と宣戦布告した年。尾崎豊が卒業の答辞を読み、BOOWYが『BOOWY』を発表し、北アメリカ大陸でウケていたWe are the worldが敗戦国ジャパンにも鳴り響いた。うんざりするほどメッセージが世にあふれかえっていた。さなか、このff(フォルティシモ)が期せずして一石を投じたのだ。先に結論付けてしまうけれども、この曲は「マジで何も言っていない」。


「叩きのめされても」と一口にいうけれど、叩きのめされたにしては、映像で見ている限りマイクスタンドをショルダーに担いでマッチョイズムをむき出ししている。のめされているか?のめされた男性に果たしてここまで勝ち誇った表情でとっぽいパフォーマンスが出来るものなのか。

激しくたかぶる
夢を眠らせるな
あふれる思いを
あきらめはしない

愛がすべてさ
今こそ誓うよ
愛をこめて
強く強く


叩きのめされたはずの、世の中への不平を抱いている、抑圧された人間が「強く"come on"強く」と歌詞に載っていない"come on"をはずみで口ずさむなんてありえない。そして具体的に教えてほしい。夢とは。思いとは。


言ったもの勝ち、言えばそれで完了して責任が手から離れた、となしてしまう勘違いは流石に2016年も終わりに差し掛かっているのだからそろそろ咎めたい。残るんだぞ。言葉は。「激しくたかぶる夢」「あふれる思い」と、口に出すだけならば誰にだってモンキーにだって出来る。間寛平も「誰がモンキーやねん」「ワシは止まると死ぬんじゃ」と杖を振り回した。寛平が振り回す杖のほうがこうへいのマイクスタンドよりも「近寄った際のヤバさ」にあふれてよっぽど様になっている。"声の出る人"ことファンキーモンキーベイビーズのファンキー加藤さんは公衆に向けて声を発したり、CDに焼いたりするとなぜかお金をくれる人たちがいるらしく、そのおかげで生活しているが、彼も決して意味を伝えているわけではない。亀田大穀がリング上で熱唱したのもさもありなん、だ。意味がない。


急に「愛がすべてさ」「今こそ誓うよ」と表明されたところで、「と申しますと?」となってしまう。この詞には意味および脈絡がない。言うだけならば誰にでもできることを歌うのをやめてほしい。歌ってもいいけど、家でやってほしい。


と、30年以上前のこうへいに言いがかりをつけている奴の方が頭どうかしている気もするが、こうへい→加藤の系譜として、ffのような「何も言っていない歌」の流れが出来ていることも確かで、「誰かが強く言う」をしなければ。どこかで食い止めないといけない。何だこのこみあげる使命感は。


ナンセンスと「意味がない」はどうやら違う。たとえばイマクニ?さんの「ポケモン言えるかな?」の詞は当時151匹しか発見されていなかったポケモンの名前を羅列しただけだけれども、小学生だったころは歌えない奴はクラスのつまはじきだったし、CDを買ってもらうまでは歌詞カードを友達にコピーしてもらって授業中机の下で読んでいた。ナンセンスかもしれないが、子どもたちには"意味"をもたらしていた。意味を付随させるのは受け手たる我々の仕事だ。「意味がない」とは、聞かされたところで得られる情報、知識、感慨、情、などが欠落しているもののことだ。「毒にもクスリにもならない」という言い回しがあるけれど、毒でもクスリでもないものは毒より毒だ。


現在、自身以外の全メンバーが脱退し、1人で「ハウンド・ドッグ」をやっているこうへい。「いまさら失うものは何もない」じゃない。まだ、ある。「ハウンド・ドッグ」だ。売りましょう。断捨離。削ぎ落していきましょう。意味のない歌を唄うのであれば、限りなく自己を無くし、「空(くう)」の域にまで達したこうへいの歌が聴きたい。


※こんな「意味のない」歌がありますよというご報告をTwitter「n-jomooo」までお待ちしております。
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2016年10月13日

宗教と自動車と人気もの

某人気ベータツイッタラーの日常用アカウント("ネタツイ用"ではつぶやけないこぼれ話のための)において、去る8月4日に以下のような発言があった。


"車を運転する人が歩きスマホをバチバチに叩いているのを見ると「この人の中では歩きスマホはNGで自分の移動時間を短縮するためだけに歩行者を轢き殺すことのできる道具を使うことはOKなのか……」と頭がクラクラするんですけど、この話はもう宗教に近いのかもしれませんね。”


日常用のアカウントといえどフォロワー数は流石の2800人、当投稿のリツイート数は200回を超えている。俺のタイムラインにもこのつぶやきが回ってきた。なるほど少し過激な内容でウケているのだろうな、と流しかけたのだけれども、引っかかった。これは一体どこが「宗教」なんだろうと。


「歩きながらスマートフォンを操作することはNG」であることと、「自分の移動時間を短縮するために自動車=歩行者を轢き殺せる乗り物を運転することがOKになる」が結びつき、しかもそれが「宗教に近い」という。申し訳ないけれども一見にはさっぱりわけがわからなかった。某ベータツイッタラーさんに意を問うリプライを送ってみたけれども当人からの返事が無かった(どうせ無視されるんならと悪のりをして「BROTHER時代のたけしが一番格好よくないか」、と問うてみたけれどもなかったことになった。これだけに返事来たら面白かったのに)。なので、某ベータツイッタラーさんの中で発言がリツイートされて意図せず膨らんでいくのが許容されるのであるならば、ブログで引用するのも大して変わらないだろう、と誠に勝手ながら当発言の脈絡について考える。


まず、この場合の「宗教」の意味合いはなんだろうか。おそらくは宗教、という言葉に対してのマイナスイメージ(カルト、洗脳、妄執、水中クンバカなど)に端を発しているんじゃないか。つまり某ベータツイッタラーさんの中に軸としてある『自動車運転絶対最悪教』の戒律に「自動車の運転は人間を殺す可能性がある→人間を殺しうる存在は悪だ→すなわち自動車は悪である」とあって、とすると、{「頭がクラクラする」=自動車という兵器を操っている人間が、「歩きスマホ」という不注意甚だしい行為にケチをつけていることに混乱している。} すなわち、いつでも人を殺せることにある状況にある(命を手玉に取れる)のにも関わらず、"「死」に意を向けていない連中に怒りを覚えている奴ら"という存在の矛盾、に疑問を感じずには居られないのである、と解釈した。


そのような"極論"で物事を捉えてしまう自分は『自動車運転絶対最悪教』の信徒で、"極論"といえ宗教、なるほど「宗教」なのかもしれませんねと。というように、極論と宗教がイコールなのではないだろうか。


(「物流」は誰が支えてるんだ、人を殺せるトラックの運ちゃんじゃないのか。という反論をしている方も居たが黙殺されていた。今は「"宗教"かもしれませんね」とのことなので、残念だが的外れとしてふいにされたのかもしれない。プレイステーションの「交通整理シミュレーションゲーム・ナビット」を極めてプレイをVHSで収録して着払いで送れば反応があるかもしれない)


俺も一応免許は持っているけれども、自動車の運転はなるべくやりたくない。が、労働で「運転自信ないんで…エヘヘ…」を無理やりこじ開けられてハンドルを握らされることもある。


基本的にはなるべくして「人を殺す」「己が死ぬ」リスクを少しでも回避したい。メチャクチャ生きたいし殺したくないから。嫌で嫌で仕方なくやっているのに、ちょっと地下駐車場で駐車にミスりリアバンパーを擦って始末書を書かされた。俺は失敗しまっせ、と散々フリをして案の定やらかしたのに真面目に怒られていることに理不尽を覚えて『自動車運転悪教』に入信はしている。しかしここで某ベータツイッタラーさんと違うのは、『自動車運転絶対最悪教』と宗派が微妙に別れているということだ。俺は自動車の運転が上手い人、なりわいとしている方々を尊敬している。


例えば自分の父親の車に乗って家族で旅行に連れて行ってもらったことも沢山有るけれど、父親が「移動時間を短縮するためならば歩行者を轢き殺してもよい」とというドグマに則りホンダ・ステップワゴンを運転していたとは思えない。というか、いざ出発の間際に「父さんはな、人を轢き殺すリスクよりも移動時間の短縮を選んだ。さあ車に乗れ。」と宣言されたら怖すぎて振り切り、家でスーパーファミコンをするほうを選ぶと思う。


『自動車運転絶対最悪教』は完全なる「極論」です。でも俺は"あえての極論"というものが面白くて、きちんとわかりきって右に左に針が振れている人にはそのままやっちまえ、と背中を押したくなるが、やっぱりご意見として(ネタ用と日常用でわざわざアカウントを使い分けしているのもあるし)世に発しているのであれば、ある程度は事情を説明できる地盤が固まっていてほしい。「ギャグ」なら、「ギャグでした〜っと!」と片足を上げてダブルピースしてもらえれば「な〜んだ〜〜」で(あくまで俺の中では。世間様は黙っておかないかもしれない)収まるのだけれども、じゃないのなら宗教、なんてデリケートでありながら壮大で、人類が生まれてからずっとあるのに、ずっとあるのにも関わらず未だかつて明確に定義づけられていない言葉を、ぞんざいに取り扱うのはよしたほうがいいと思う。ましてや「轢き殺す」なんて扇情的、アジ的な言葉が乗っかるのであればなおさら。


「反応の取捨選択」が怖い。何かの拍子に自分の声が届く範囲が広くなったとして、90%賛成、10%反対という結果が出た時に「10%」の声を無いことにしてしまえる。人間なんて己に都合がよければいいのでそりゃ90の波に乗ってしまえればあとはGOGOになる。10の反対というさざなみを「うるせえな」で抑えつけられる。「タバコを吸っている人は、早死にすると覚悟しているのだから今すぐさま殺しても構わない」と叫んだって、90賛成していればその人の中では正義になってしまう。ツイッターのフォロワー、なんて「フォローをしてくれる人」なんだから基本味方で応援してくれて、好き放題言えがちだけど、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)でアーカイブとして残るんだぞおい、と殊勝に、弁えなくてはならないと思っている。とはいいつつ、俺がブログを書いても、2000人弱の「フォロワー」の支えをかいくぐって「計5いいね」だったりする。俺がアフィリエイトで覚せい剤売っててもバレないと思う。
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2016年10月09日

梅崎春生『幻化』




九州に向かう飛行機の中で偶然知り合った映画会社の営業の丹尾(にお)という男と、阿蘇山で賭けをする。「丹尾が火口を一周して元の場所へ帰ってくるかどうか」つまり、飛び込まずに無事に戻ってきたら貴方の勝ちですよ。と。ハサミで万札を真っ二つに断って、半分をしまった。2つに繋ぎ合わせなければもう使い物にならない。
主人公は精神病院を脱走している。戦争が終わってから、「自分が自分でないような感覚」に苛まれるようになった。「悲哀」に心は動くのに、「笑い」には一切鈍くなった。夜中に玄関のブザーが鳴って、ドアを開けても誰もいない。壁にはアリが這っている。それを医者に説明することをしたくない。そんなことを言うやつはまともではない、という認識はまだ残っている。


ほうぼうを回る。戦時中に奄美出身の兵長が酔っ払って調子こいて、海に関してはマジで自信があるから泳ごうぜ、とざぶざぶ入っていって心臓麻痺で死んだ岬。その時は気づかなかったけれども、彼は自殺するつもりじゃなかったのか?暗号兵(作者の梅崎春生も枕崎で従軍していたこともある)という立場、戦局の実況がいちいち聞こえてくる。彼の一家のある辺りが焼き払われたとか、守りがどんどん手薄になる様子も一番最初に知る。明確に自死の意思があったかどうかは定かでないが、死ぬギリギリの縁まで行ってみようかな、と覗きに行って、踏み外して死んだのかもしれない。


砂浜で貧血を起こし、木陰でしばらく眠る。精神病院で入院していた時に同室だった「チンドン屋を見ると"頭がばかになってしまう"」おじいさんがいて、同室の連中で共謀してチンドン屋のマネをしたらおじいさんどんなになるだろう、とスレスレのギャグをやった。そのことをふと思い出し、砂浜でひとりチンドン屋をやった。つい面白くなってきた。誰も見ていないと思った。そうしていたら、浜辺で魚をすくっている少年に視線をくれられているのに気がついた。"おじさんは気違いじゃないんだ。安心しなさい。"


少年の父親はタクシー運転手をやっていた。無下にもできず、馴染みの按摩が働いている旅館まで連れて行かれ、泊まっていきな、ということになった。按摩を呼んだ。老人が来た。もごもご背中を押しこくられていたら、ずしっと圧がかかった。さては、と様子をうかがうと背中に両足で乗られていた。は?なんでじいさんによりじいさんの足で踏まれなくちゃならないんだ?元を正せば少年と仲良くなったのも、魚獲りとチンドン屋が一瞬交錯してその場でバイバイ、が綺麗だったんじゃないのか。大人に余計なおせっかいをするな。なめんなよ。腹が立ってきた。"不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着替えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。「おれは憐れまれたくないんだ」怒りのあまり、布団の襟にかみつきながら思った。「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」"


死ぬことと生きていることの境界線は一歩跨げば超えられてしまう。誰かに引っ張ってもらわないとぐらっと崩れてしまうこともある。兵長も無理やりあの時咎めていたら生き永らえていたかもしれないが、「そうやって死ぬこともあるだろう人間なんて」とつい他人事のようになり、見過ごしてしまった。


映画会社の営業は事故で妻子をなくしてから、常にポケットにスキットルを忍ばせて酒びたりになった。彼も「自分が自分でなくなってしまった」人間だった。自殺の賭けをしましょうよ、一周して戻ってきたらお金あげます。主人公は観光地用の望遠鏡に小銭を入れて様子を追いかけた。「あいつは俺なのか?俺はあいつか?」と境目がぼやけて、ふらふら火口に吸い寄せられそうになる男に視線を注力してしまう。


"しっかり歩け!元気出して歩け!"もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなっていくようだ。そしてふらふらと歩き出す―"


梅崎春生は『幻化』の前編を発表した一ヶ月後に肝硬変で死んだ(後編は死後に発表された)。「しっかり歩け!元気出して歩け!」と彼方の自分の肩を揺さぶった。人間の命を係累しておく何か、へ意識が傾き、探りだしたら瀬戸際と思う。どこまで行ったら自分は死ぬのか?とおぼろげの中を歩いていってがくんと道を踏み外してぽっくり逝ってしまうこともある。肝臓が固まったのも酒のやり過ぎが原因だった。ここからは過度でここまではセーフだ、という線の上を歩いているとふと、死んでしまう。作者自身、鹿児島県坊津基地で特攻隊を見届けていた側だったから、なんで俺は生きていて、彼らは死んでいくのだろう、というラインが茫としてしまった。『幻化』という表題がそのものずばりと思う。では、何処へ?という。
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2016年10月03日

尾崎翠『第七官界彷徨』



「点描ということは吾々散文作家が、今までの自然主義時代の一から十までくどくど説明するというような手法ですが、ああいうものに吾々は飽き飽きしたのです。…(中略)…とにかく自然主義的な、ものの考え方とか手法、あれで日本の文学というものが非常に腐ったと思います。平板です。もうすこし新鮮な立体的な文章を欲しいのです。」
「心境文学、触覚文学というものを書きたい」


昔、一度目に読んだときはなんだかもやめいて筋があるようでないようで、何が書かれているのだかむず痒い感覚しかわかず、さてどうしようかと、評判だけで入ってしまい尾崎翠の「第七官」を理解しようとする端緒を引っ張り寄せられる感受性もはなから持ち合わせていなかった。というか、未だにわからないのだけれども、群ようこの『尾崎翠』で引用されている座談会での上記の発言を読んだら、ようやく「第七官界彷徨」の糸口を手繰り寄せられるのかもしれない気がどことなく沸いてきた。


「夢はつまり、思い出の後先」とサングラスをかけて大麻をやっていたおじさんが歌っていたが、鋭敏に、鮮烈に心のひだにトゲが刺さった出来事を膨らませて形にする。「第七官」「恋愛」「慕情」の中に潜まった「もやもや」は万人がそれを受け止めきれる感性を持ち合わせているわけではない。もやもや病で徳永英明は苦しんだ。もう「もやもや病で一時期お休みをもらっていた」、って一生ネタの十字架を背負っていくのは気の毒だ。あと、お金を持っているのだから歯を直した方がいい。


俺みたいな者が死ぬるまでわからない核、コアの部分があって、それを主軸に扱われたら如何ともし難いと諦めていたのだけれども、「心境文学、触覚文学を書きたい」にハッとした。この人は、「指紋で触れて心の中で感ずられた」出来事を理屈を超越して成形しようとしていたんじゃないか。尾崎翠が主人公=小野町子の分身として、精神科医の長男、苔の研究をしている次男とそれぞれの兄弟および、音大浪人中の従兄弟と4人暮らしで進むんだけれども、「心境」を表す上で、@精神科医の常にサイエンティフィックに理詰め理詰めで、あまり感情を表沙汰にしない長男、A「苔」、「蘚」のうずうずというかもぞもぞというか、肥やしを鍋で煮やしてバイオ、ナマモノ的に有機的に女の心情を解きほぐす次男、B音大志望でとにかく理屈はのけといて肉体的にアプローチをかけてくる、エネルゲンを活力源にする従兄弟、という三者三様との生活。というか、三人共血縁関係なのに「肉薄」が薄紙一枚なので、恋愛感情を近親に抱いてしまうインモラルは一旦外に捨て置くべきと思う。なんだかそういったものさえくだらなく感じる。


おもしろいのが、尾崎翠は「まるで設計図を引くかのように」この話を書いたとのことで、絵コンテを別に用意し、登場人物の配置や舞台設定とかインテリアを前もって緻密に設定していたらしい。「心境文学」を標榜するうえにおいてさえ、心のうちを書きなぐるのではなく、あくまで、自分の中では説得力を持たせたうえで言い訳しない。あまり世間を喜ばせようというサービス精神があったわけでなく(同時代の林芙美子が意気揚々と「放浪記」を発表するのを傍目に眺めながら、かえって内々へと向かっていった)、あくまで己が納得することが最前提の文章を書いた。つまり、尾崎翠の体内に流れる「第七官」に輪郭を与えたゼラチン質、じゅん菜。


蘚苔の研究をしている次男の部屋に茹でたかち栗を運ぶ場面の文章

"うで栗の中身がすこしばかり二助の歯からこぼれ、そしてノートの上に散ったのである。私は思わず頸(くび)をのばしてノートの上をみつめた。そして私は知った。蘚の花粉とうで栗の粉とは、これはまったく同じ色をしている!そして形さえもおんなじだ!そして私は、一つの漠然とした。偉(おお)きい知識をえたような気もちであった。ー私のさがしている私の詩の境地は、このような、こまかい粉の世界でなかったのか。"


フォーカスの絞り値を上げて限りまで寄って寄った「栗の破片」と「蘚のなごり」に共通点を見出す。「こまかい粉の世界」、吹けば跳ぶような、とは、「村田だ。ガムくれ。」でおなじみの村田英雄も歌っていた。ページをめくった風圧でいなくなってしまうようなトンボの羽の網目をなぞるような書き方だ。結局尾崎翠は「わからない」ままであって欲しいし、誰かが「わかる!」と言い出したのなら、特に野郎であるならば懐疑的、舐めんなよ、と頬を平手打ちしてしまうと思う。尾崎翠は有声映画=トーキーが気に召さず、「こっちのの想像で補うから邪魔するな」と張り倒す。どこまでも心境が張り詰めすぎて、頭痛薬中毒になり文壇から姿を消してしまった。もったいないけれども、ここまでの繊細をやり続けることもそうそう出来ないと思う。押し入れには衝動買いしたフルーツバスケット全巻が3年近く眠っている。いい加減に読まないと、Lカゼイシロタ株を体に入れ続けないとすぐ腸に毒が貯まるので、「第七官」の要素もどんどん取り入れ、ゼッタイキレイになってやると思いました。
posted by JET at 21:57| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする