2016年11月27日

京都府・宇治

いきさつ


2016/10/11のツイッター
2016/10/28のツイッター



2016/11/26(土)、会社の関根麻里似の女性(以下、麻里)と京都府宇治でデートをした。早め早めに動いたほうが得策だという俺の提案のもとに京阪電鉄中書島駅に11:00集合、11:20頃宇治駅到着。最初の目的地である抹茶、ほうじ茶ベースの菓子類が充実した人気のカフェ・テリアに先着2組の後ろにつきさほど並ばずに入店。俺はほうじ茶ゼリーと抹茶チーズケーキ、麻里は抹茶パフェを選択した。昼食を甘味で済ますのは、日本男児たる、健康優良児たる自分の本懐ではなかったけれども、「これで昼ご飯大丈夫ですか?」という麻里からの気遣いにはノーモーションでOKをした。ほうじ茶ゼリーに「優しい甘さ」、抹茶チーズケーキに「思ったよりもチーズが濃くて、後から抹茶が来る」とコメント。一口もらった抹茶パフェには「あんこが美味しい、こんなに小豆がしっかりしているつぶあんも珍しい」といういかにもな反応を示し上々の仕上がり。12時過ぎから店内も混み始め、先手をうって行動しておいてよかったねと己の株を上げる工作をする。


平等院に向かう。宇治が初めてではない麻里の案内でおすすめの茶菓子店、お土産屋などをジグザグに巡る。そもそもが「先導」が苦手なので、勝手知ったる女性のエスコートに任せられるのは気が楽だ。職場の先輩であるという立場もあって、普段目上の人間が休日に立場が逆転するという「りぼんコミックス」「マーガレットコミックス」などで予習しておいた女性優位のデートが出来ており、彼女になんらプレッシャーもなく一日が過ごせそうだ。


平等院の紅葉具合はきれいだった。美しさ、情緒わかってまっせ面をかましつつ、赤、黄色、緑の葉っぱと青空がグラデーションになっていて映えるね、などと中身のないセリフを吐きながら、デジタル一眼で紅葉を撮影する麻里の後ろ斜め45度で所在なくぶらぶらする。いきなりカメラを向けられて、写されたくないから、パンフレットで隠すなどの行動を取る。また、自撮りの角度から鳳凰堂をバックに2人で撮影。うまくいっている。十円玉の表面越しの写真も撮った。「絶対やりますよねそれ笑」とも言われたが、しょうがないじゃないかミーハーだから、と煮え切らない返し、減点1。ミュージアムでは、最近たまたま勉強していた付け焼き刃の仏教知識をさも前々から染み付いているかのごとくトークに織り交ぜる。案内文をいちいち丁寧に読み、さも学識豊か、知識欲旺盛のような振る舞い。得意中の得意だ。ミュージアムの売店で、阿弥陀様が雲に乗って今世に来迎されている様子のピンバッジを購入。300円。300円で得られる最大の有り難さじゃないかこれ、などとコメント。


平等院表参道ではない、商店街の方にある上林春松でお抹茶を飲む。2階が喫茶スペースだったのだけれども、埋まっているので申し訳ありません、からのすみません、席空いてましたという"儲けた感"で本日の追い風を感じる。歩き疲れたから女性はそろそろ足を休めたいだろうという気遣いも伝わっただろうか。上出来だ。


そして麻里は学生時代に茶道部・兼書道部で、自分でお茶を点てるという習慣が今なおもってある。尊敬するに値する、殊勝で恥じらいもあり、俺のようなせむしに接点など本来はあるべきではない人物なのであるが、何の因果か同じ会社に入ってしまったが運の尽きでこうして糸を垂らされているわけである。可哀想に。気の毒に。


失敗した。ここで「普段会社では付けていない、紫系統のマスカラを付けてはいませんか?」と指摘してしまった。それは正解は正解だったのであるが、何をお前みたいなものが「フォーマル」と「カジュアル」の差異に気づいて浮かれてやがるのだと。異性に好印象を持たれるような人間はつまり打算無く指摘できる自然さ、一挙手一投足のこなれかたが重要なのであって、鬼の首を取ったかのように「会社でしていないマスカラをつけていますやんか!」と息を荒げてしまう己が愚かで仕方がなく、テレビか雑誌か、メディアから与えられた「女の変化を指摘せよ」というミッションにペケをつけて実績を解除したことに浮かれていちいち喜んでいる自分がほとほと嫌になる。


宇治上神社に向かい、16:00頃着。たまたま後にするタイミングで16:30に門を閉めるとわかり、ここでも運良く回れている感の演出の足しになり追い風の錯覚をする。宇治川沿いを歩く。「寒い」「手が冷える」という発言に乗じて「自分がエナジーが漲っている」というユニークを織り交ぜつつ朱色に塗られた橋をどさくさに手を握って渡った。もうあとは"流す"だけで麻里を付き合える、と、バックストレートを日の丸を背中に覆いながら小走りした。決めたも同然と思った。


夜予約していた「創作小料理屋」に入る。麻里はお酒を飲まないので、一方的に楽しい気分になってしまうが、この「酒の勢い」という波に乗れているふりを悟られたくないので慎重に振る舞う。オーダーから時間を取らないであろう牛すじの煮込み、本日のおすすめからブロッコリーの天ぷら、そして「サラダが食べたい」というリクエストから、お品書きの「菜」のページから「茶そばサラダ」を頼んだ。宇治という土地柄もあり「茶」の文字さえ入っていればお気に召すだろうと、また午前から甘味しか摂っていないので至極腹が空いており、本来ヘルシーたるべき、アルカリであるべきサラダにも炭水化物を織り交ぜようとしてしまった。今思うに反省ポイントの1つだ。


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本日のデートは、1ヶ月後の12/24にご飯に誘いそこで告白するための布石だった。1週間前に会話の流れでクリスマスに空いているかどうかを確認したところスケジュールは特に入っていないという事前情報も得ており、そこで誘ってしまっても良かったのだがあくまで本日、宇治からの助走の先にあるクリスマス・イブを駆け抜けてやりたかったので言葉を飲み込み、掘りごたつのようになっているカウンター席の左側に座っている麻里を口説きにかかった。


まさか、1週間でスケジュールは埋まっていた。友だちと日帰りで旅行に行くらしい。新喜劇の内場勝則ばりに「イーッ!!??」と叫びながら、カウンターにベリーロールで飛び込んでキープしてあるボトルを全部ぶち撒けてしまった。つるの曲がったメガネを拾い、前歯がなくなってしまったので「ガッ、ガガッ」しか喋れない。「しきぬさんこそクリスマス誰かと遊びたいって言うてはったじゃないですか、もっと早く言ってくれたらよかったのに」と言われたが、なんで情緒やお約束やしきたりがわからないんだ。散々アイコンタクトを、スルーパス出すよと合図を送っていたのにまったく伝わっていない。チームから孤立していたドイツワールドカップ時の中田英寿と同じ心境になってしまった。


どうせ裏目るなら、自分が絶対に失敗すると思った行動を取れば案外うまくいくんじゃないか、という謎の理論を構築し始め、そこに縋るより道は残されていなかった。少し早くに店を出て京阪に乗り、彼女の最寄り駅まで鼻水を垂らしながらのこのこ付いていき2軒めに入る。どうせ振られるならクリスマスでも今でも変わらないだろうと「クリスマスに本当は言おうと思っていたのですが、恋愛感情がありますので交際をしていただけませんか」という旨の意味がこもっている文言を声帯を振動させて口蓋から発した。麻里は明らかにビビっている。酔った勢いで、がいちばん誠実でないのでよしたほうがいい、ということぐらいは分かっている、今のタイミングが最悪であることも分かっている。クリスマスはワイン一杯ぐらいで留めておこうと肝に銘じていた。だが、もうストラテジーが全て裏目るのならもうままよ、ええいと逆方向に突っ走ったらそれはそれで案の定ドブ一直線だった。東に走ろうが西に走ろうがドブに落ちる。もしかして地球って丸いんじゃないか?たぶん皆は気づいていないかもしれないが…


「自分はしきぬさんにとって、何ていうか"妹的な存在"なのかと思ってました」


女のことを"妹的な存在"で見るようなおぞましい男として思われている。男性としてではなく俺は「お兄ちゃん」だったらしい。女性を「対象」としてではなく"妹"として捉えているような気持ちの悪い、性根の腐った人間のうちの1人に入れられた。あくまで貴方のことをいち異性として純粋に好もしく思っております、と伝えることも気持ちが悪いし、性の匂いを消しても気持ちが悪く思われる。繰り返すが地球は丸い。どうしろというのだろう。「前に温泉に誘っていただいたじゃないですか、あれ、そういうことだったんですね」と言われた。おもむろに自分の目玉をくりぬいてぜんざいにぶち込んでやろうかと思った。


翌日LINEで身辺整理、終活に入らさせてもらったところによると「もう少し考えさせてください」というお言葉だった。今ダメなら明日も年をまたいでもダメだろう。休みの日や昼休みやアフター・ファイブに飯を奢ったり美味しい店を紹介したりされたりするような異性を好きにならずにおられるような人間なんか存在するわけがないだろう。剣桃太郎かそいつは。なめとんけ、だ。何が(以下、麻里)だ。


女に殺された翌日の食事はいつも午後4時前に近所の大阪王将で済ませている。遠くに足を伸ばす体力がないからだ。有線で星野源の「恋」が流れていた。
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posted by しきぬ ふみょへ at 18:40| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月20日

正宗白鳥『何処へ』等



"忙しい人は仕事に心を奪われて時の立つを忘れ、歓楽に耽れる人も月日の無い世界に遊ぶのであるが、此頃の健次は絶えず刻々の時と戦っている。酒を飲むのも、散歩をするのも、気焔を吐くのも、或いは午睡をするのも、只持ち扱ってる時間を費すの為のみで、外に何の意味もない。そして一月二月を取り留めもなく過ごしては、後から振り返って、下らなく費した歳月の早く流るるに驚く。"


全集は出ているけれども没後間もなくして名前を取り沙汰されるようなこともなく、講談社文芸文庫の『白鳥評論』『白鳥随筆』ぐらいしか新刊で置いていなくて、そもそも文芸文庫が街に繰り出さないと手に入らず値も張るから中々文章が読める機会を作るのに気合がいる。


50年以上に及んだ文筆生活で『何処へ』を発表したのが明治41年白鳥当時29歳、主人公の健次は中学校教師を辞し雑誌記者で愚にもつかない、心にもない社会論評で糊口をしのいでいる実家住まいの27歳。


何も起こらない。「起こりそう」までも行かないし、教訓めいたことも言わない。人生所詮こんなものという割り切りでもない。苛烈に生きたいが生きられない。知っているから。酒を飲めば酔う、放蕩すれば後悔する、その辺に綺麗な女なんかいない。こうなってくるともう阿片か戦争しかない。


阿片か戦争か、バーニング、スピード、あるいは水谷修ぐらい恥を知らずに夜道をほっつき回れたら、と、洒落ではなく真剣に考えることがある。近頃お酒の量も減ってきているのだけれどもそれは、「腹の立つ出来事があって酒を飲んで酔っ払って楽しい気分になり忘れる」までワンセットとして扱われ、そこに肉体も精神もすっかり組み込まれてしまっていることがもどかしく、翌朝しんどいしお金を払わないとお酒は買われないし、このパッケージに費す何某を既に「知ってる」から飽きてしまってきている。警察に捕まるのがいやなのでやりませんが、迷惑をかける身内も居なくなって無事年金生活に突入せられたら、ラスタまるだし、カンナビスまるだしのTシャツを着て煙を吐き出しながら富良野かどこかで土をいじって5年ぐらい余生をやろうかとも存外まじめに視野に入れている。


「世界はこのままでいいんじゃないか」と白鳥は死の年の講演で述べたらしい。クリスチャンでありながら神の存在を疑い、心酔した内村鑑三とも決別し、どこまでも「世界はこのままでいいのか?」と考え続けた人間が、奥さんに先立たれ肉親は去り、安らかな死に顔を見届け、「つまるところ、信じる者は救われる」のだという境地に至るまでにどれほどの月日と精神を削ったか。


死の床で神父の手を握りながら「アーメン」と唱えた。散文主義、シニシズムの権化とも言われた白鳥が「ああ、老いとともに結局信心に着地してしまったのだな」と叩かれたのは、藤村、泡鳴、花袋といった赤裸々告白文学と一線を保ち続けていたのに土壇場で信心を吐露してしまったからだ。白鳥も老いるのだと。


"いっそのこと、四方から自分を憎んで攻めて来れば、少しは張り合いが出来て面白いが、撫でられて甜められて、そして生命のない生涯それが何になろう。「迫害される者は幸いなり」。ていう此奴は当たってる言葉だ。苦しめられようと泣かされようと、傷を受けて倒れようと、生命に満ちた生涯。自分はそれが欲しいのだ。
健次は立ち上がるのも物憂そうに、こう考えてる中に、酒が醒めて夜風が冷たくなった。彼れは主義に酔えず読書に酔えず、酒に酔えず、女に酔えず、己れの才智にも酔えぬ身を、独りで哀れに感じた。自分で自分の身が不憫になって睫毛に一点の涙を湛えた。"


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『身の程なんて一生知るな』というナイキのキャッチコピーがあるけれども、俺は身の程というものを判り尽くして、弁えて、輪郭をキッチリさせておいてから"あえて"それを破る(あるいは拡げる)ことの方に価値があると考えている。自分のことを把握していない人間にことが成し遂げられるとは思えず、馬鹿には出来ないことをしでかさなければ人生ではない。
なんで俺はナイキのキャッチコピーにいちいち文句をつけているのだろうか?これがジジイになるということなのか?


怒りもしないとやることもない。「迫害される者は幸いなり」はキリストの言葉だ。しかしこれは頭に「義のために」という枕がある。わめきながら、義なのか自利なのか境目がわからない時がある。

最近は「のぶみ」という絵本作家の『ママがおばけになっちゃった』が叩かれている。母親が交通事故で死ぬという描写が幼児にトラウマを植え付けかねないと。死を軽々しく扱うなと。俺はのぶみという人は、このツイートを読んだ時に「死んでしまっており、この世には居ない人なのだ」と決めてしまったので、当件で裏付けが取れて溜飲が下がった。死んでいるから生命観が希薄なのは当然のことだ。この世から「羊の皮を被った」悪は消え去る運命にあるのだ、という近頃の考えが確信に変わりつつあり、とするといち中肉中背たる自分が声を荒らげる理由も見つからず、このまま四畳半で畳の染みになるまでどろどろに溶けるのを待たねばならぬのか、という茫とした恐怖を感じている。
posted by しきぬ ふみょへ at 11:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月03日

「PPAP」と生活と闘い

忘年会で「PPAP」をやらされそうになっている。2016/11/2(水)の午後3時頃、「しきぬ君に話がある」と内線をかけてきた1個上の先輩に呼び出され、普段俺がその場所で昼ご飯を食べ続けていることにより「しきぬくんが普段、昼ご飯を食べている場所」と呼ばれるようになったロッカールーム兼雑紙等を放り投げておくスペースで会合があった。


先輩は経理部なのだが、経理部長がどうやら若手同士(俺を含む4人)で組んで今流行の「PPAP」をやったら面白いんじゃないか?という思いつきによるお達しがあったらしく、伝令として渋々の申し送りをしに来たとのこと。先輩の立場上、こちらが一方的に不満を押し付けたところで板挟みにしてしまうから、表情筋で圧倒的に抗議しつつ、言葉のうえではできるだけやんわりと、なんとか収める方向に持っていけないかということ、最悪何らかの一芸を披露したとて「PPAP」だけはご勘弁願いたい、4人でピコ太郎を演る意味があるのか、1分足らずの寸芸のためにわざわざ自費で衣装をあつらえ、一応のリハーサルをやり、時間を裂き、なおかつ酒の入った場で誰もろくすっぽ注目していない舞台で駆り出される必要があるのか、冷静に考えて欲しい、とお伝えください、ほな、また、と切り上げた。


先輩の立場が一番面倒くさい。部署も違うし、越権のハラスメントを伝える飛脚をやらされるなんて、心が朽ち果ててしまう。だけれどもここは闘わなくてはならない。人間の尊厳に関わる問題だから。本当に「PPAP」をやらされる可能性が万に一つでもあるならば、徹底的に抗う覚悟である。直(じか)に経理部長とデュエルをかます構えがある。


「PPAP」そのものに嫌悪を抱いているわけではなくて、ピコ太郎も古坂大魔王も花開いて頑張っていてくれたらいいのであって、そこに一切のポジもネガもない。ただ、今流行をしているモノ、コトを「とりあえずやっといたらおもろいんちゃうのん」だけで上からグリグリ押し付けられることへ、若者として、ペーペーとして従い、これも社会で生きていく上の通過儀礼であると割り切って無表情で業務命令をこなすことが果たして是であるかという問題だ。


会社の飲み会で経理部長と話したことがあるのだが、かつては役者を目指し俳優養成の専門学校に通っており、健康不良が理由で夢を頓挫し、まっとうのサラリーマンとして生きていく道を歩んで今に至ると、若手を集めて気持ちのよい表情で喋っていた。まともに働くことを良しとせず、表現で食っていこうという時代があった人間が、社会に巻き込まれて立身出世し、階級が目下の人間に忘年会で「PPAP」をやれ、と覆いかぶされるようになってしまうのだ。


社会人、としての位が上がっていく上で、どこかで"センス"は死んでしまうのだ。あるいは、センスを殺さないとやっていけない社会なのかもわからない。夢を放擲せざるを得ないほどの病気のあとで、痛みを共有できずむしろ「押し付ける」側に回る。死ぬか生きるかなんかわからないんだから、己の思うように生きたれ、地獄に道連れじゃい、からの開き直りかもしれないけれども。とにもかくにも「PPAP」を目下の人間に無理やりやらせるという行為は精神が死んでいる。やめてくれ。ゾンビに肩を組まれたら振り払わないとこちらまでゾンビになってしまう。勘弁をしてほしい。


加えて、「PPAP」を、会社で気になっている関根麻里似の新人の前では絶対にやりたくない。クリスマスにご飯に誘おうかと逡巡しているんだよ。絶対「PPAPやらされた奴」と2016/12/24(土)という3連休の中日に飯食いたくないだろ。貴重な大卒1年目のクリスマスを。人間の尊厳と己のペニスの為に俺はジジイと闘わなくてはならない。という話。続報をします。
posted by しきぬ ふみょへ at 22:37| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする