2017年01月30日

セルフ一周忌

漫画や私小説を出版してえらく評判になる、仲が良かったり悪かったりした人がめでたく結婚をし家庭を築く、長く非正規雇用者、"るろうに"をやっていた人が定職に就くなど、近頃友人・知人の間で生活環境が変わるようなイベントが相次いでいる。ところで僕はというと今日会社に遅刻した。


前日新婚夫婦の家庭に呼ばれ鍋を振る舞ってもらった。僕の家は会社の独身寮なのだけれどもガス・火NGで食材の調理ができない。夕食となるとすき家、天一、立ち食いそばなど専ら偏差値の低いものばかり摂っているので、「やっぱり鍋だと野菜がたくさん食べられるからありがたいでヤンスね」と前歯を突き出しながら与太郎のようにくたくたのキャベツをもりもりと食べた。人の暮らしや幸せに慣れておらずついつい気分も高揚し痛飲、よせばいいのに帰り道に9度のトリスハイボールまで買ってしまった。劇薬をあおり、ビーズクッションに顔を埋めてムーン・ライダースの『涙は悲しさだけで、出来てるんじゃない』を聴きながらオカマの如く涙を流していると意識が途切れ、目が覚めデジタル時計に視線をやると朝の8時、アラームは平日毎朝鳴るように設定しているのだが聴こえず。会社には「昨晩食べた海老に当たった。点滴をうって午後から出社する」と電話した。寝小便をしてしまった後のような不思議な高揚感は地下鉄に映った自分の顔のむくみを見て罪悪感に変わった。赤ら顔で上司に言い訳する。


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身の回りで「面白い」という評判がたって世に出ていく人、というのは大きく分けて2種類に別れる。本人もさることながら身の回りで何かしらの異常、アブノーマル、椿事、とにかくスラップスティックな日常を送っているタイプ、これを「有機的」に面白さを提供する人とするならば、かたや素性やパーソナリティを隠し、私情を挟まずストイックに創作に打ち込む人もある。これを「無機的」とする。有機であれ無機であれ、どちらかに身を賭していたり振り切っている人は魅力的である。僕の場合はバイオにもメタルにも走れず中途半端だ。「自虐じゃ君は周りに勝たれないから、他の方法を考えたほうが良いだろう」という助言も賜ったことがある。自虐に勝ちも負けもあったものじゃないだろう、と思うが、「女に振られた」「会社に遅刻した」程度の谷に転げ落ちても目を引かない。昔の私小説作家は結核や肺炎を患うと「待ちに待った不幸だ」と喜んだという。苛烈な日常を送っている人の声が殆ど直接的に届くようになった今の世の中、「身の切り売り」もサイクルが早くなり、尚更消費されてエスカレートしていくだろう。

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"清貧と豪奢とは両立せず
いゝ芸術と恋の勝利は一諸に来ない
労働運動の首領にもなりたし
あのお嬢さんとも
行末永くつき合ひたい
そいつはとてもできないぜ"

宮沢賢治『まあこのそらの雲の量と』より


"坂口安吾「文士という職業があっちゃいけないんじゃないかな」
小林秀雄「うん、パラドックスとしてはね。―だから、俺も明日からでも陶器(せともの)商売ができる。そこまで行かなければ、何があんた、陶器が判るものかね。」
坂口「それはそうだね。やっぱり生活を賭けるということがなくちゃダメなんだろうね。」
小林「ダメらしいですよ。僕は陶器で夢中になってた二年間ぐらい、一枚だって原稿を書いたことがない。」"


小林秀雄対談集収録『伝統と反逆』より


"なぜといって結局――芸術で腕を試そうとする人生の姿ほど、あわれむべき姿があるでしょうか。ディレッタントであり、溌剌たる人間であって、しかもその上、折に触れてちょいちょい芸術家になれる、なんと思っている人たちほど、われわれ芸術家が根本的に軽蔑する者はありません。"


トマス・マン『トニオ・クレエゲル』(實吉捷郎訳)より


"君が一人の漁夫として一生をすごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく言うのはあまりに恐ろしい事だ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ。
そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じい疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。このせつなる祈りの心は君の身の上を知るようになってから僕の心の中にことに激しく強まった。"


有島武郎『生まれ出づる悩み』より

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かくいう偉大な先人たちの言葉に「何か」を思う、或いは思い込むということを本当は辞めにしたいのである。いい加減にしたいのである。彼は「文学と酒」にヒントが有るんじゃないか、芽を感じたつもりになっているのじゃないか、なんて揶揄をされたこともあり、凡々と生きていくのであればそんなものはせせら笑っておしまいになるが、なんだか無性に腹が立った。が、正確に言えば腹を立てている自分になお腹が立っている。なんでこんなことに苛ついているのか、それはきっと手に入れたいものが手に入らない、着地が決まらず足首をぐねる自分の格好悪さから湧くフラストレーションの矛先が見当たらないこと、ぐるぐると熱ばかりが循環してどこにも吐き出されないもどかしさにほとほと嫌気がさす。妬みや嫉みや恨みばかりが堆積し、バクテリアがうごめき、スモッグがもくもくと空にのぼるところから望まれぬ命が誕生し、映画『ザ・フライ』のラストでハエと人間が9:1ぐらいになった生き物が背広を着て人間の言葉を喋り、会社に出て、頭をボリボリかくとごっそり頭皮が剥がれ、右脳も左脳もなく滴り落ちる。


気に入らぬ人や物を腐す時に、「ひょっとしたらこの人は既に死んでいるのではないか」と吐き捨てることがあったが、自慰の材料に一年前に振られた前の彼女との性行為をプレイバックしている自分がいて、実際とっくに屍(かばね)と化しているのは己の方なんじゃなかろうかと不安になりギョッとした。まったく前に進んでいない。『BLEACH』で言うところの「虚(ホロウ)」になってしまっているかもしれない。セルフ・ネクロマンサーかセルフ・アンダーテイカーかわからないけれど、僕が死んでいるとしたら、死んだ人の更新しているブログとしてやや波も立つかもわからない。
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2017年01月23日

せっせっせのよいよいよい

真っピンクの自我がぶるぶるとお皿の上で揺れている。





「せせさせせ」と「ささせさせ」で迷っている。「せせせさせ」で行ったろか「ささせさせ」で行ったろか、今仕上げている恋愛の小説のタイトルを果たしてどちらで決めるべきだろうか。今朝布団から起きて朝風呂でも入るか、って素っ裸になって、その時にうっかり出たおならがゴムみたいな、タイヤを燃やしているようなにおいがした。わたしはそんなに悪いものばかり食べていたのだろうか。おなかも出てきたし不摂生を重々承知とはいえてめぇの体から漏れた空気がゴム燃しとんかい、と外に出る気も失せる。洗濯物がカゴから爆発している。なんでこんなことになってしまっているのだろう、と誰かに責任をなすりつけようとしたら一瞬でわたしに跳ねっ返りがきた。というのもわたしの億劫がカゴに沈んだ、いつ最後に着たんだか今更洗ったとこで変わらんのじゃないかという茶ばんだ肌着類を直視せざるをえない。だけどなるべく直視をしたくないのでこのせまっ苦しい部屋で窓際を向かないようにしている。こうして「せせせさせ」と「ささせさせ」でどっちにしたもんやろか、とキーボードを人差し指でうんとこと叩きながらうんうん唸っているから創作に集中をしたく、ケガれに目を向けている場合ではない。そんな暇なんかないんだ。わたしはいよいよ真剣になろうとしていた。


なるべく休みのうちにこの恋愛の小説を進めてしまいたい。怒りや嫉みをエネルギーにして、そのぶん早死にしてもいいからなんとか形にしたい。何が怒りかというとまずは昨日の夜中にコンビニで売ってたプライベートブランドの、チューハイじみた単なる化学薬品にうっかり手を付けてしまい、敗北の味や、これは。とはまあ手っ取り早く酔っ払ってドーピングかましたら文章も進むかもわからない、とつい数飲んでしまったらいつの間にぶっ潰れてた。何も進んでいない。頭が熱持ってる間に「せせせさせ」「ささせさせ」に決着付けられたらよかったんだけれどもそんなわけなくて、冷静になっても高揚したっても決着付かないんかいと朝ぼらけでこめかみのあたりを小突きながら、もうちょっと天啓とか、ぱっと閃いてそこからなんもかも片付くような、バカ大勢で並べたドミノが倒れてうわーっと桜が咲くみたいなあんなたぐいの気持ちよさはないもんかね、あっちにふらりしてもこっちにふらりしてもどっちもドブかよ、と楽しくもない、後悔するばっかりの酒は流石によす。


歩きスマホはやめたほうがいい。というのも、
@危ないから。死ぬかもしれないから
A死ぬかもしれない可能性を視界に入れるのが嫌だから
B歩いてる時ぐらい考えたほうがいいから


@、 普段音楽を聞きながら道を歩くのも怖い自分にとって、よりにもよって一番情報が先に入る視覚を殺してその辺りフラフラできるなんて、命の要らない人 か?255機あるのか?0機しかストックがなく、このプレイで死んだらお墓に入らなくてはならない自分との世間様との違いはやっぱり持っている余裕の差だ。イヤホンで聴覚ともどもダブルで奪っている人らに至ってはこっちから急に刺してやろうか。

A、 そんな余裕に満ち溢れとる連中を行き帰りの一歩一歩沈みながら歩く地下鉄で見たいもんじゃない。死んでも次がある君たちと死んだら終わりのわたしが交差するたんびにこめかみのあたりの大事な血管が反応する。もしかしたらわたしのように歩きながらスマホいじってる奴らが視界に入ると具合が悪くなるからあえて 私も周りへ意識を割かないように歩きスマホをするようになったのかもわからない。ゾンビの恐怖に怯えるぐらいならゾンビウィルスに感染したほうが幸せだ、 というのと同じ理屈だ。こう考えると@の項に説得力があるんじゃないか。あいつらは殺したって殺したことにならないんだから。この部屋にある武器になりそ うなアイテムといったら包丁ぐらいだ。包丁一本で地下鉄から脱出してやる。

B、 歩いている時が一番思いつく。どういうことを思いつくのかというとなんだろう。アイデアだ。アイデア?わたしは貧困か?歩いていると思いつくのは「歩行」 と「思索」のリズムがどうも噛み合っているからというのを高校1年4月、現代文の教科書で読んだ。今に至るまでぼんやり中身を覚えていられたのはその時少しは高校生活うまくやろう、と意気込みがあったからなのだろう。一瞬で失せてしまったので以降の出来事はほとんど蘇らない。その時瞬間ごとの燃えるような心模様をいつでも呼び戻せる人間になりたい。

アイデア。練気。かめはめ波。「かめはめ」がほどよく膨らむ、のが歩いている時。だからよそから情報をなるべく入れたくない。がん検診を受けましょう、とか、就活サイトのリクルートスーツの青年が青空に向かって思い切りジャンプしているポスター。世の中は雑音、靴音、軍靴の地響きまみれだ。必然性もなくそれっぽく意味だけこじらせて焦らされるオブジェクトばかりが散見される。あんたに言われんでもわかっとるわ。おのれの体にガタが来とったら、自覚症状あったんだったらワシのほうから医者にかかるわ。いちいちポスターでガミガミ言うな邪魔くさい。

邪魔くさいのなら自分の手のひら、スマートフォンの画面に集中できたほうが余計な情報をシャットアウトできるのでひょっとすると皆色々と逡巡した末にイヤホン、ツイッターをお供に道を歩いているのか。そんなことあるかな。喧嘩したら連中には負けるだろう。情報遮断してふんぞり返ってほっつき回れる肝っ玉の奴らに勝てるわけがない。リミッターが振り切れているから。悔しい。もっと、鍛えなくては。

いっその事寝タバコで全部焼き払ってしまったら案外愉快かもわからない。のり塩、ゆず山椒味、旨辛チキン味、ポテトチップスの空き袋。結局のり塩が一番うまいことをもう小学生の頃から、慣れ親しんだあの塩気に勝るものはないのだが、ちょっと色気を出して失敗してはまた帰ってくる。やっぱりビートルズに帰ってきちゃうんだよね、と同じかな。違うか。気合い入れよ。500のペットボトルで頬を殴った。


いっぺん試しに買ってみたがチャンピオンのパーカー。これが似合わねえの。パーカーが似合わないってもう「服」がわたしに不向きだろ。ラフな格好とそこそこの年齢が釣り合わなくなってきているわりにフォーマルな場所に出席するのもおこがましく、メガ・ドンキホーテしか行く場所がなくなってしまった。あそこなら「不相応」という考え方自体が欠如しているので今のTシャツにリラコ姿でも誰にもぶっ飛ばされないで済む。


メガ・ドンキホーテで思い出した。ドンキで自転車を買って、職場までの通勤でちょっとでも運動になるようにというので春先意気込んでいたのにまったく乗っていない。なんか、社会人ともなると自転車通勤組が乗っているチャリってロードバイクとか若干カスタムしてあったりとかホイールの口径が小さくておもちゃみたいな、おめえロンドンやパリでも走るつもりかよ、白人様が乗るタイプじゃないのけ、という優雅な、だから「チャリ」なんて表現にふさわしくない、「バイク」しかもイントネーションが尻上がりの「バイク」だ。10何万とかするんだろう。わたしの購入した「チャリ」は確か1万円しなかった。「チャリ」ごときに本気になるのも恥ずかしく、だからといって本気になっている人を揶揄するわけでもない。ただ「チャリ」「ごとき」「恥ずかしい」と己の中でぐるぐる回り、決着の付かないまま息をしていないチャリが眠っている。休みの日ぐらいは何処かに行ってやろうか。何処に?それわからない。


本棚。本屋でわたしは何を血迷ったんだよ、というバリ島旅行ガイド。思いを馳せるだけで終わる。第一わたしは基本的に絶対に死にたくない。日本人とすらコミュニケーション取るのに難儀しているんだから、いつのまにやら海外の屈強な野郎どもの怒りを買ってヘッドロックで連れ回されてバーカウンターに叩きつけられて死ぬ。バーには行くんですね。


本一冊、買ったら南国の風が吹き込んでくれるかな、とわくわくしていたんだろう。わくわくって。しゃらくさい。もう私は絶対に南には行かない。感性も死んでいる。本一冊で、なにか小さなきっかけで人生がらっと転がるような出来事なんかない。ナシゴレンもミーゴレンも食べない。なにがゴレンだ。ロコモコだ。もうネーミングの響きからして間抜けで南の島の人らとは話が合わないだろう。ハンバーグに目玉焼きとご飯?そんな美味しいに決まっているのにいまさら威張られても。わたしは4歳の時にもう気がついていたよ。ハンバーグの上に目玉焼きを乗せて丼にしたらかなり美味しい、という事実に。特許をとっておけばよかった。昔テレビで見た、特許で儲けている安全サンダル閃いたおばさんは幸せにしているんだろうか。


YouTubeでアイドルのPVを漁る。基本的に明るい未来のビジョンを歌っている。勇気や行動力をもらえるかもしれない、と一縷のやつを望みつつ肩肘をついて見る。可愛いなあ〜〜〜、と薄ぼんやりしながらとっくに眠らないとそろそろ翌日の業務に支障が出そうな時刻になっていた。夢だ希望だとヘラヘラしながら受けるだけ受けてなんてわたしは矮小な存在だっただろう。と、そんなに卑下しないでもいいはずなのに、どこかで割り切れずに、ただ苦しい。アイドル自体になりたいのか、アイドルの活動内容を事細かに噛み砕きたいのか。いや、ただ彼ら、彼女らにわたし自身の生活を立て直すエネルギー、それが建前であって構わないから、前に突き飛ばして欲しいんだ。「失った」のではなく、はじめから分けてもらえなかった青春が遅れてわたしの背中を突き飛ばしてくる。


しゃんとしたい。凛としたい。ちゃんりんしゃん。誰かにお尻を叩いてほしい。お尻を蹴られたい。お尻をつんざいてほしい。わたしのお尻は面白い。人間のからだの中で一番無防備でもろい部分がお尻だ。「心」というものが存在するのであれば、わたしのそれはお尻にある。おならと共に心を放出している。だから、たいしたことはないのだ。わたしの自意識は、一発の屁のごとし。屁如(へにょ)かよ。崖の上の屁如。うるさいうるさい、しゃんとしよう。


それにしたって、わたしの感情に説明がついたとして、理屈をいくらこねたって、「だからどうした」という声が怖かった。ついこの間までは。そんな懊悩はわきまえて生きているんだぜ、ぐちぐち考えてないで手を動かさんかい。汗流さんかい。という正論のハリセンで後頭部をどつかれる。でもわたしにダメージはそんなにない。なぜならば、わたしの心はお尻にあるからだ。考えている脳みそがいくら痛めつけられたとしても、かさぶたが出来て、なおって、元に戻る。考え直せばいいだけだから。だけど心が痛めつけられるのが、辛い。心を炙られる。心に塩を塗られる。心に頭突きをされる。焼ける痛み、飛び上がる痛み、単純で鈍い痛み。など、ありとあらゆる種類の痛みが、一見無防備でまぬけなお尻に与えられる毎日。お尻の肉の厚みは心を守るためだ。納得。だから痩せたくない。痩せてたまるか。


うん、もう一杯だけ飲むか。ボトルを買ったときにノベルティでくっついてきたグラスに茶黒いウイスキーを指二本注ぎ、割ろうとしたらペットボトルにミネラルウォーターを切らしている。もうこうなったら水道水で割ったろか。いや部屋から一歩たりとも出たくない。重たいんだ、わたしの心を防御する肉のついた尻が。


野武士の如くストレートで茶褐色の毒水を飲み干した。のどちんこが真っ赤に燃える。紅蓮のどちんこ。あごの先っちょからこぼしてしまったヘドロを垂らしている。わたしはこれから合戦に行くのか?誰の首を、タマを獲るんだ?いやそんなはずはなかった。眠りたい。さっきからかなり眠りたい。闘うのは明日かもしくはそれ以降。いい加減今何時だ。裸眼で暗闇、明かりはモニタのブルーライトのみ。まったく時の進み方がわからない。そろそろ止まったかな?終わったのかな?時。
くっそ。けっ。どうとでもなれ、というくらいにはどうやら酔いが回っている。「せせせさせ」「ささせさせ」。どっちにしよう。


二択に強くなりたい。わたしは常に「こっち!」とY字路で根拠なくハンドルを切って崖から猛スピードで落ちている。あえてこっちいってみようかな?の逆。自分を信じよう、の逆。あらゆるパターンの逆。きっと自分に懐疑的でありかつ過保護であり、どんな結果にも満足できなくなっているんだろう。「もっと出来るはずだ」「やれんのか?やれんだろ?」とお皿の上のピンク色の自我がキーキー主張してくる。窓の外に投げてやろうか。お前のせいでどれだけわたしが苦しめられてるんだふざけやがって。YESかNOか、○か×かの2択。もうむしろどちらでもなく、ちょうど真ん中をストレートに駆け抜け、どちらのパネルに飛び込むのでもなくただただ支柱に激突して昏倒するという選択肢を選びたい。どうせ間違うなら、自分の意思で間違いたい。そんなものは言ってしまえば「成功」か「失敗」かから逃げているわけだけれど。ああ、くだらない。


どこぞのロックの人が、「ステージに立ってギター抱えて何か一発音を鳴らしたら、それはロックだ」と言ったらしい。じゃあ、じゃあですよ、あほぼんでぼんくらであんぽんでへんぽんですてれんきょうで、なんだらの素養もないわたしがギター抱えて人前で顔を真っ赤にしながら弦をバチでべんべらべんべんやってみたとして、そんなものは果たしてロックなのだろうか。恥じーだけだ恥じーだけ。ていうかロックって何だ?面の皮が厚かったらそれがロックなのだとしたら、先ほどの指二本が血管に回っている今のうちに人前に出てがなり立てたてたら成立するんじゃないんか。ニトロが肝臓を痛めつけている間だけ人はロックでいられますか。お薬が血液にまわっておりながらの場合のみ格好をつけられるのがロックでしょうか。


手探りで、眼鏡をかけた。どうやら午前の2時半。わたしはお腹がすいたので回転寿司を食いにでかけた。もうどうとでもなれ。打破には寿司しかねえだろう。24時間体制で寿司を提供している近所の偏差値の低いチェーン店に入った。明日のことなんか死にさらせ。あ・うん。
早速電子メニューを御覧じろしている。あまりじっくりタッチパネルの画面を睨みつけていたら、回転寿司屋の小僧が「A~、ドゥーユーノウハウトゥオーダー?」と尋ねてきたので、習いたての日本語で「あ、さいっす」と答えた。そういやまともな日本人は寿司をつまみにくる時間じゃないんだよな。恥ずかしい。小僧は、腑に落ちぬ、という表情でカーテン裏のコンベア上流へと引っ込んでいった。


タッチバネルを操作したら己の意思どおり、意のままにお寿司が届く。わたしの知らないうちにガラっと様相がひっくり返った。お寿司、ごちそうじゃなかったでしたか。ごちそうがこんな軽佻に浮薄に扱われて良いんだろうか?誰がこしらえたのだかわからない、米粒の直方体に魚類の一部分がペーストされた食物が2ヶセットで特急レーンの上をつついー、とすべってくる。

いっちょう、わたしはバナメイえびとアボカドの軍艦巻きから始めた。フィリッピーンの潮にもまれた良質のバナメイとアボカドの脂が織りなす重奏をくちゃくちゃ咀嚼しつつ、夜中に食う寿司うめー。味蕾から体が蝕まれていく感覚癖になるでやんすね、とまず一皿を片付けた。続けざまに炙りとろサーモン。こいつもカナダあたりからアジア人の舌べろに悪い脂の膜を張りにそぞろ遡上してきたろくでなしサーモンで、このうえないてろてろがバーナーの火炎でいい具合に香ばしくなっていてお下品でお上品で美味しゅうございますという具合。


炙りとろサーモン、からのマヨコーン軍艦。ひょっとしてチェーンの社長のお孫さんあたりが発案者なのか?という野趣あふるる、とうもろこしとマヨネーズをちゃっちゃか和えたどろどろを酢飯に積載して海苔で帯をいなせに締めた高貴で誉れ高き馬鹿げた一品。ワンプッシュで適量の雫が落ちてくる、トリクル醤油さしをニ、三滴ぽたぽたさせてから口に放り込む。マヨネーズととうもろこしと、酢飯と海苔と醤油。単純明快な味の足し算。わたしの人生もこうであればいいのに。「お金に困っておらず痩せていて、おしゃべりが上手で家庭環境が良好で大きな病気をしたことがない」のに等しく明快な和算。「願いましては、おいしいなりおいしいなりおいしいなりおいしいなりおいしい。では?」「すごくおいしい。」


などと完全なる阿呆の経営しているそろばん塾に通っているがごとく、豚のカツを無理くりシャリに縛り付けた寿司もどきを注文したり、サイドメニューのフライドポテトを頼むやんちゃをやってみたり。とっくに世の中が寝静まった頃、気力もなく、心頭滅却して働いているアジア系パートタイマーを横目に、虚無の心意気で提供されるカロリーをひたすら胃に入れる。需要と供給の歯車と歯車が容赦なく背骨をバキバキに巻き込んで砕く。ついつい、杏仁豆腐まで食べてしまった。本来はケーキに行きたいところだったが手加減しての杏仁豆腐。理性の杏仁豆腐。

からの、茶碗蒸しまでたいらげ、しめて12皿1300円強を支払い店を後にした。夜風かあるいは朝風か、生ぬるい半端な空気の中を歩いている。本日と明日(みょうにち)のはざまで、わたしは娑婆で以降もやってけるものだろうかと、薄ぼんやりとしたねずみ色の目頭を擦りながら国道沿いで考えていた。どうにもならない。も少し違う。どうにもしてくれない。は甘えている。凪いでいる。ジャパニーズ・レゲエの重低音を轟かせるビッグスクーターとすれ違う。お前さんたちはバカだよ。本当に世の中にけつを向けて犯行をしたいのなら、ジャパニーズ・レゲエなんかじゃなくて、「日本の瀑布」のオムニバスCDをかけろ。名だたる滝の水しぶき、スプラッシュとともに単車を乗り回せ。どうも反抗の様式が凝り固まっていて、くだらないよ。わたしのように、夜中に寿司をつまみなさい。


と、若者のわんぱくを許容できるふところの深さも携えず、こめかみに老害ならではの緊張を走らせながら、アパートの階段を上がった。後ろ手に錠をロックし、ゴミ溜めの明かりに目をやる。点けっぱなしのモニター、進んでいない「せせさせせ」「ささせさせ」の文字羅列。羅刹。ひとまずの一件を落着させたふりをしてビーズクッションに頭をずしんとゆだねた。わたしは恋愛小説を書いているんだ。こんなところで棒きれになってたまるか。こんな自暴自棄と雑穀根性の燃えたぎる胃袋で、寿司がどろどろに消化されてゆく。よく言えば理由なき反抗。悪く言えばズボラのなまけ。よく言ってくれる人なんか、いるのかな。どこかに物好きは居るだろう。そんな見てみぬ変人。が現れることを夢見つつ、へたりきった抹茶色のビーズクッションに縋り付きながら、わたしはフローリングの染みとなるがごとく眠ろうとしている。いくらデッキブラシでこすっても消えない、ニンゲンの死んだ痕。マーキング。事故物件となった我が部屋が、格安に家賃が下がることによって、金銭的には恵まれないが才能に満ち溢れた若者が住んで欲しいな。わたしは染みになって若者の活躍を見送る。それがいい。そうしよう。せせさせせ。ささせさせ。せっせっせのよいよいよい。
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2017年01月13日

桑田佳祐と「落ち込む」

2014年の暮れ、紅白を家族で見ていた。
サザンオールスターズが何年ぶりかで出ていた。どこかの会場からの中継でいきなりハイビジョン映像に切り替わり、あの「一線を置いている」タイプの大御所が満を持しての出演となると決まって別会場から高画質で現れるのがあまり好きではなくて、いつだったか中島みゆきが黒部ダムから地上の星を歌った時も「会場に来なさいよ、あなたも大人なのだから」と思った記憶があるけれどもともかくそれはそれとして、桑田佳祐さんがその時一番の新曲だった『ピースとハイライト』をがなっていた。


昭和30年代後半生まれの父親が、歌詞に文句をつけている。いまさら楽観的に「音楽の力で平和を」だなんて、そんなふうには笑ってられんのだと。もはや戦後ではないのだと。家の中で唯一喫煙を許されているスペースである2Fのトイレの床に『マンガ嫌韓流』が投げられていた。インターネットで右翼をやっているかどうかは聞いたことが無いがサザンの結成当時から平行線で人生をやってきた男がテレビに石を投げている。WOWOWで中継された同ライブにおいての、紫綬褒章を顔の横に掲げるパフォーマンスが槍玉に上げられて、後日謝罪の文章を打っていたことを知る。何だかひどく落ち込む。


ニッポンで芸能とポリティカルな行動って心底相性悪いので止めておくのが懸命でしたね、とか、謝るのなんてダサい、"ロッカー"なら反骨精神を一貫して持ちなさい、とか、2年も経って散々言われ尽くしている部分は蒸し返さない。落ち込むのは、これを契機に「桑田佳祐って何?」と一回息をついて見つめ直した時に、この人に対して「情緒」以外で好きな部分が自分の中に無かったのではないかということだった。紫綬褒章にしろ、チョビ髭にしろ、サザンオールスターズ | SUPER SUMMER LIVE 2013 「灼熱のマンピー!! G☆スポット解禁!!」にしろ、どうも「調子に乗っていますよ、弁えていますよ、おじさんだというのにね、笑ってくださいね」と自分で見えている範疇を尚飛び越えてやらかしているんじゃないかこの人は、という気がしてしまう。「ヱビス。ちょっとぜいたくなビールです」というキャッチから漂うロマンスグレーにも似たユーモアである。サザンの醸す「情緒」は素直に格好いいと感ずるのに、ライブで両脇に女のくびれを抱えた桑田佳祐を見て、「おじさんのC調」をやられると、怒る、とか、嫌だなぁ、とも少し違う、「落ち込む」のである。


僕が好きな、「父親のカーステレオ」で流れていたあのサザンがどうしてもある。エロからノスタルジーから、「なんでも出来ますよ」の十把一絡げ、ごった煮感がファンを引きつける所以なのだろうけれども、その「エロ」および「笑い」という要素は、これはどうしたって、どうあがいたって世代ズレが生じる。しょうもないことをあえてやっているんですよ、の自戒以上に下品さが先立ってしまう。受け手であるこちらとしても、「おじさんのポンコツさ加減」をストレートに腹を抱えて笑う心構えはあるのに、それでも尚。だ。僕は鎌倉から湘南に向かう江ノ電で、当時付き合っていた彼女とイヤホン片耳ずつで希望の轍を聴く、という大地を揺るがすが如くのベタをかましたことがある。BGMとしての、舞台効果としてのサザンに絶大なる信頼を置いていたわけである。その憧憬にあるサザンが好きなのに。浜田省吾も佐野元春も、イズムがいききっているおかしさもあるけれど、最後にはカッコよさが勝るから僕はこちらのほうに魅力を感ずる。


2016年のソロ新曲『ヨシ子さん』を聴いた。曲調や音楽的な斬新さは僕にはわからないけれども、「EDMたあ何だよ、親友(Dear Friend)?"イザ"いう時に勃たないやつかい?」という部分に、遠い目をしてしまう。自分が若い時に思い描いていたおじさん、老い、をあえて演じているんですよ、というエレジーで勝負されるのがこの憂い・落ち込みの原因なのか。"あえて"という精神の運び方は日常において自らを苛烈に至らしめる上で大事な態度とは思うけれど、それを伏せずに作品として世に出してしまうのは受け手のがっかりに繋がってくると思う。この辺りで桑田佳祐と長渕剛を2人同時に相手取るような爆弾魔のような人が出てきて、風穴を空けるのか吹っ飛んで死ぬかするところが見たい。
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