2015年03月04日

中島敦『悟浄出世』『悟浄歎異』




"考える事"と"動く事"


沙悟浄目線で進んでいく西遊記の話。
河の底で「俺ってなんなんだよ」「駄目だ〜〜〜〜」等と日々嘆き、急に立ったと思ったら座ったりして、周囲の妖怪から白い目で見られていた悟浄。妖怪世界は「自分がやりたいこと」を発達させ過ぎたが故の、ちんちんだけ異様にデカイ奴とか、脳みそだけ宙に浮いてる奴とか、"自分の世界観が絶対である、固執している"連中だらけで、他人の意見を訊いて果たして、と思えるようなのが居ない。その中で悟浄は少し違う、「俺の悩みに答えはあるのか?頭のいいやつに尋ねてみようか」と旅に出る。


悟浄は、「俺は駄目だ〜〜〜〜」と思いつつも、「考えている俺」自身にはとてもプライドがあり、どいつもこいつも、案外大したこと言ってねえぞ、とすぐに聡明な妖怪たちの元を去ってしまう。


"もはや誰にも道を聞くまいぞと、かれは思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな」と悟浄は独言を云いながら帰途についた。「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってしないんだってことは、お互いに解りきってるんだから』という約束の下にみんな生きているらしいぞ。こういう約束が既に在るのだとすれば、それを今更、解らない解らないと云って騒ぎ立てる俺は、何という気の利かない困りものだろう。全く。"


ただ、長い年月旅を続け、いろんなキモい妖怪の元を尋ねる内に、どうやら、「解かろうとするは大事でない」が道理なのでは?という端緒を掴む。旅の疲れでぶっ倒れて、「お前は"考えて"いるだけで実行に基づいていない。体を動かさんかい。」というお釈迦様からのお告げを賜り、という巡り巡って悟浄は三蔵法師御一行様に合流する。


御一行の中で特に、自分と全く正反対、考えなしに動きまくるのに一切のムダがなく、結果を出しまくる孫悟空の存在、悟浄は感銘を受けまくる。星の名前は知らないのに、単純な星の動きからで方角、時刻、季節を探り当てる悟空と、名前だけ知っててどれがどれだか全く判別できてない悟浄。動画勢。


"悟空の闊達無碍(かったつむげ)の働きを見ながら俺はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熱して来て、おのずと外に現れる行為の謂(いい)だ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。"


一旦考えてしまう時点で、絶対に自分が悟空にはなれない、追いつけない。判っているのに体が動かない、天才の業を見て、「こいつぁすげえ」と感じること"しか"出来ない。むしろ、そこで満足しているだけで、一歩踏み出してしまえば己の「大したことなさ、凡である事」を痛感してしまうかもしれない。』悟浄も、"俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていてあまりボロを出さないようにしていたからだ。"と述べています。そして物語は、三蔵法師御一行があばら屋で一夜を過ごし、いざ、というところで幕を閉じてしまう。


この作品は、中島敦が『わが西遊記』と銘打って当初は連作を予定していたらしく、悟浄がこれからどう皮が剥けていくのか?という部分について濁したまま以降の作品は遺されていません。行動すなわち是か非か、"判ってるはずなのに"からどう動くのか、中島敦という作家は早死で33才でこの世を去ってしまいましたが、バリバリ爪痕を遺している。悟空たる人間の1人であると思う。考えるだけ考えて、ハゲ散らかす前に動こう。ハゲは終わっているから。ハゲは妖怪だから。


posted by JET at 00:54| ラスベガス ☀| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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