2016年03月13日

サン=テグジュペリ『夜間飛行』感想



1931年 仏


飛行機に乗ってる奴と、地上で飛行機の運行を管理してる奴とのプロフェッショナルの話です。じっさいに飛行機乗ってる奴が、地上に居る奴に命を握られている。リヴィエールという主人公(航空郵便会社支配人、50代のえらい人)が、日々の商売が淡々とうまくいければそれでいい、お前は飛行機に乗れ、と冷酷に命令を下すことができ、飛行機乗ってる奴を従わせられる。互いがこいつプロだな、と認め合ってるから。航空郵便、というビジネスがまだ安定しだす前、そもそもが夜中に飛行機飛ばすのが、暗いし怖いからやばいとされていた頃に、リヴィエールは"せっかく、汽車や汽船に対して、昼間勝ち優(まさ)った速度を、夜間に失うということは、実に航空会社にとっては死活の重大問題だ"と、世間の罵詈や雑言は承知のうえで、あくまでビジネスチャンスであり、この事業は広い目で見れば人類の進歩に繋がるのだ、と今日もパイロットを見送る。郵便物は届けまくっても無くならない。理念が穏便に成されるためには、飛行機乗ってる奴の「恐怖心」を殺さないといけない、俺は上空で山がうねっているように錯覚しました、とか、マジで木々が俺に向かって吠えたんすよ、とか、お前しか知らないだろ、記録に記せないんなら虚偽として扱う、ちゃんと仕事しろやと。本人に言う。


作者のサン=テグジュペリは実際に飛行機乗ってる側の人間ですので、本当はこんな駒扱いされたらキレてもいいしその権利がある。しかしながら、リヴィエールという地上で管理する組織側の人間にまったく悪態をついていない。気高い精神を兼ね備えた者のみにしかわからない苦悩にクローズアップして作品の主題に据えられるってどういうこと?と。爆撃して殺戮してさよならオチ(どくろ雲オチ)で書いたって説得力はありますよ。でも、反体制の文章にしなかったのは、飛行機というマシンを操れるという条件が魔法並みに限られていた1930年代、いまだってパイロットの免許取るのなんかむずいですけども、プロペラを駆動させる快感を味わった、「限られた俺」たる矜持が、管理体制すら跳ね飛ばすほどにバキバキに勃起していたんじゃないでしょうか。


飛行機乗ってる奴がどういう状況で何を感じているのか、アンデス山脈のギザギザすれすれをすり抜け、嵐と雲の中で信じられるのは自分自身の操縦桿をつかむ握力だけだ、って男の子なら興奮しますよ。しかも実際にやったことある奴が書いてるんだから絶対そうですよ。「猛スピードで」「見下ろす」ことの優越感(気持ちよさ)もちゃんと書いていて、"あの農夫たちは、自分たちのランプは、その貧しいテーブルを照らすだけだと思っている。だが、彼らから八十キロメートルも隔たった所で、人は早くもこの灯火の呼びかけを心に感受しているのである。" 「生活」を追い越していく爽快 と、無事に職務を終えて地上で一安心 と、「明日も飛べよ」と通達が"来る"憂鬱=リヴィエールが「明日も飛べよ」と通達を"出す"憂鬱と、そのルーチンを丁寧に均等にならべていて、明日読んだら感想が変わるような小説です。


"「部下の者を愛したまえ、ただ彼らにそれと知らさずに愛したまえ」"というリヴィエールの哲学を実行に移せるのは相当に難しい。というか今の御時世、古典じゃないと受け入れられないかもしれない。雇われている側の人間は、何を気取ってんだよ、そこまでマジじゃないから、と横っ面を引っ叩いて棒に荷物くくりつけて退職しかねない。けれども、愛してまっせ、わかってくれまっしゃろ、というベタベタしたザラメ溶かしたのじゃなくて、互いにプロ同士で腕ぶつけ合うの憧れますね。なんのプロでもねえけど。
posted by バスケ女 at 12:02| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする