2016年05月23日

『私は海をだきしめていたい』の話

お前はムラ社会的な考え方にはまっているから坂口安吾を読み直せ、と言われたので読み直した。どれをという指定もなかったので短いやつをパラパラ読んだ。安吾がどうこう言ってたからじゃあ自分もこうしようってそのまま鵜呑みにするならヒロポン一発打って偽物の焼酎飲んで泡吹いて死んでしまえばいい。あんまり意味がない。そんなことはどうでもいいんだけども、いい加減しつこくて申し訳ないんですが俺は結婚をしたいなという彼女と別れまして、っていうんで今の状況で読むのと学生時代に蒸し風呂状態のロフトの上で読んだのとけっこう思うところが違っておもしろかった。


掲題の『私は海をだきしめていたい』の主人公は娼婦と付き合っている男、ここに安吾の私的部分がどれくらい入っているんだろうかはわからないけれども、存外に参っているときじゃないと書けない、どうせなんにも起こらないんだよ人生なんてのは、というやっつけ、遠くを見ている。女を抱いてもなんとも思わないが単に肉体と接触したい、相手は娼婦でやり過ぎて不感症なので反応もしない、ただ単に交わっているだけ、俺は女じゃなくて女の形になっている「水」とセックスをしているだけなんじゃないだろうか?は?だけれども、そこに何の意味もないことがただただ落ち着く。情が移ったら終わり。そういうのではない。意味がなくていい。


"私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、何とでも言うがいいや。私は、私自身の考えることも一向に信用してはいないのだから。"


「私はきもいです」と言うのがいちばんきもい。「私はきもいです」と表明している奴は本当にマジで自分が想定している範囲外にきもいということに気が付いていないからおぞましいくらいきもいのだが、最後に「私は、私自身の考えることも一向に信用してはいないのだから」のところまで行くと、巡り巡ってあげくにどうでもいいんだよ、と吐き捨てられる、吐いている痰に魅力がある。


学生の時に読んで、こんなもんかねえ!!女を抱く行為ってこんなもんなのかねえ!!と放送室の松ちゃんばりに、かつ隣人に迷惑にならないように叫んで眠るだけだったが、ようやっとなんか意味ねえねこれ、が理解できてきた。ただ、


" 私は始めから不幸や苦しみを探すのだ。もう、幸福などは希わない。幸福などというものは、人の心を真実なぐさめてくれるものではないからである。かりそめにも幸福になろうなどと思ってはいけないので、人の魂は永遠に孤独なのだから。そして私は極めて威勢よく、そういう念仏のようなことを考えはじめた。
 ところが私は、不幸とか苦しみとかが、どんなものだか、その実、知っていないのだ。おまけに、幸福がどんなものだか、それも知らない。どうにでもなれ。 私はただ私の魂が何物によっても満ち足ることがないことを確信したというのだろう。私はつまり、私の魂が満ち足ることを欲しない建前となっただけだ。”


ここまで達せてはいないし達すべくして生きたくない。一生孤独で畳の上で大の字の染みになりたくないよ。まっとうに幸せになれたら上がりなのでどこまでも虚無虚無虚無、は恐ろしすぎる。こうならないようにしたい。好きなんだら同じこと重ねて標榜せんかいって言えたものかよ。俺は当たり前の奥さんがほしいです。安吾はこの文章を発表した6年後に結婚する。


だるそうにちゃぶ台を拭いている姿、洗面器に足を突っ込んでいる様子がふとエロいっていうふとしたエロさを噛みしめられるようになってきたのも読み直したおかげで気づいたからよかった。夏という季節は女の人がエロいので好きなのかもしれない。蛇足になるけれども、Twitterでフォローしている女の人がこの話を好きだ、と書いていた。女の人もいいと思うのか。女は海だ塩水だ、生理食塩水だos-1だと言われているのに、惚れ込めるものなのか。ご意見ご感想は「njomooo」までお待ちしております。
posted by しきぬ ふみょへ at 01:06| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする