2016年06月08日

国木田独歩『武蔵野』の感想



この武蔵野という話は今でいう井の頭線沿い、埼京線の渋谷から北、あと多摩川に近い青梅とか立川、つまり東京のはずれらへんから埼玉の南あたりまでの原風景を本当にただひたすら文章のうまい兄ちゃんが詩的に、精緻に淡々と、笑うところもなくつらつら書き連ねている。ただ淀みなく、風景描写に終始しているだけの話が130年読まれるものだろうか。埼京線沿いなんか2016年現在日本で一番汚いのに。池袋以北は心を持っている人間は住んではいけない。


独歩は冒頭"武蔵野の美今も昔に劣らずの一言である。(中略)自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美と言った、美といわんよりむしろ詩趣といいたい、その方が適切と思われる。"という。
ここまではっきりと武蔵野は美しいんじゃい!!とテーブルを叩いて始まる歯切れのよさもさることながら、
「美といわんよりむしろ詩趣といいたい」
詩の趣、ただ美しいと圧倒されるだけならば値する景勝は日本にたくさんあるけれども、詩として表現したい、俺が感じ取ったやつ、おのれが今目の当たりにしている武蔵野の光景は「形」として表現されるべきである、だからこれは書かれなくてはならない作品だ、という説得力を持った、すごく清々しくて気持ちがいい入りだと思う。


だから、独歩が切り取った詩としての武蔵野に興奮出来るかどうか、これは想像力、感受性の勝負になる。この辺に一瞬でも住んだことがあればむしろイメージの障害になるかもしれない。だって今と違うから。東京に住んでたことはあるけれども、朝方太陽が昇ってきたころの風景に「美しい…」と実際に感じたことはない。始発出るぐらいに路上でおじさんが寝ているのを「嫌ですね〜〜」と大股で跨いだことはある。思いや情感を馳せられなかったとしてもじゃあつまらない、わからないって切り捨てていいものかっていうとそんなことはもちろんなく、この作品を楽しむ余地は十分ある。独歩はこの短編の中で「武蔵野」という土地の「選択肢の豊富さ」を何度か語っている。


独歩は生まれは千葉県の銚子、5歳から16歳まで役人だった親の都合で中国地方を転々としたのちに反対を差し置いて学校を辞めて上京した。田舎から出てきた。田舎に居たくなくて、親元を出てきた。絶対興奮する。"自分は武蔵野を縦横に通じている路(みち)は、どれを選んでいっても自分を失望ささないことを久しく経験して知っているから。" どこに足を向けても美しい自然が待っている、ということなのだけれども、だいぶ東京が楽しくてしょうがなかったんじゃないか。今でいう渋谷のNHKホールのあたりに住んでいたらしい。2016年現在日本で一番楽しいとこです。


"同じ路を引き返して帰るは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困る事もあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある"。自分も田舎ものですので、東京に出てきて適当にぷらぷらしてるだけで満ち足りたような何かがあった。沈む太陽は独歩の田舎の海辺だってよっぽど綺麗だっただろうけれども、武蔵野ならではの「詩趣」を表さねば、と弾む心象が駆り出されるべくして結晶化された作品で、「筆者の技巧」または「資料価値」だけで語り継がれただけだろうと切り捨ててはならない、と思う。恐れ多くも思う。
posted by しきぬ ふみょへ at 01:37| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする