2016年10月09日

梅崎春生『幻化』




九州に向かう飛行機の中で偶然知り合った映画会社の営業の丹尾(にお)という男と、阿蘇山で賭けをする。「丹尾が火口を一周して元の場所へ帰ってくるかどうか」つまり、飛び込まずに無事に戻ってきたら貴方の勝ちですよ。と。ハサミで万札を真っ二つに断って、半分をしまった。2つに繋ぎ合わせなければもう使い物にならない。
主人公は精神病院を脱走している。戦争が終わってから、「自分が自分でないような感覚」に苛まれるようになった。「悲哀」に心は動くのに、「笑い」には一切鈍くなった。夜中に玄関のブザーが鳴って、ドアを開けても誰もいない。壁にはアリが這っている。それを医者に説明することをしたくない。そんなことを言うやつはまともではない、という認識はまだ残っている。


ほうぼうを回る。戦時中に奄美出身の兵長が酔っ払って調子こいて、海に関してはマジで自信があるから泳ごうぜ、とざぶざぶ入っていって心臓麻痺で死んだ岬。その時は気づかなかったけれども、彼は自殺するつもりじゃなかったのか?暗号兵(作者の梅崎春生も枕崎で従軍していたこともある)という立場、戦局の実況がいちいち聞こえてくる。彼の一家のある辺りが焼き払われたとか、守りがどんどん手薄になる様子も一番最初に知る。明確に自死の意思があったかどうかは定かでないが、死ぬギリギリの縁まで行ってみようかな、と覗きに行って、踏み外して死んだのかもしれない。


砂浜で貧血を起こし、木陰でしばらく眠る。精神病院で入院していた時に同室だった「チンドン屋を見ると"頭がばかになってしまう"」おじいさんがいて、同室の連中で共謀してチンドン屋のマネをしたらおじいさんどんなになるだろう、とスレスレのギャグをやった。そのことをふと思い出し、砂浜でひとりチンドン屋をやった。つい面白くなってきた。誰も見ていないと思った。そうしていたら、浜辺で魚をすくっている少年に視線をくれられているのに気がついた。"おじさんは気違いじゃないんだ。安心しなさい。"


少年の父親はタクシー運転手をやっていた。無下にもできず、馴染みの按摩が働いている旅館まで連れて行かれ、泊まっていきな、ということになった。按摩を呼んだ。老人が来た。もごもご背中を押しこくられていたら、ずしっと圧がかかった。さては、と様子をうかがうと背中に両足で乗られていた。は?なんでじいさんによりじいさんの足で踏まれなくちゃならないんだ?元を正せば少年と仲良くなったのも、魚獲りとチンドン屋が一瞬交錯してその場でバイバイ、が綺麗だったんじゃないのか。大人に余計なおせっかいをするな。なめんなよ。腹が立ってきた。"不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着替えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。「おれは憐れまれたくないんだ」怒りのあまり、布団の襟にかみつきながら思った。「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」"


死ぬことと生きていることの境界線は一歩跨げば超えられてしまう。誰かに引っ張ってもらわないとぐらっと崩れてしまうこともある。兵長も無理やりあの時咎めていたら生き永らえていたかもしれないが、「そうやって死ぬこともあるだろう人間なんて」とつい他人事のようになり、見過ごしてしまった。


映画会社の営業は事故で妻子をなくしてから、常にポケットにスキットルを忍ばせて酒びたりになった。彼も「自分が自分でなくなってしまった」人間だった。自殺の賭けをしましょうよ、一周して戻ってきたらお金あげます。主人公は観光地用の望遠鏡に小銭を入れて様子を追いかけた。「あいつは俺なのか?俺はあいつか?」と境目がぼやけて、ふらふら火口に吸い寄せられそうになる男に視線を注力してしまう。


"しっかり歩け!元気出して歩け!"もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなっていくようだ。そしてふらふらと歩き出す―"


梅崎春生は『幻化』の前編を発表した一ヶ月後に肝硬変で死んだ(後編は死後に発表された)。「しっかり歩け!元気出して歩け!」と彼方の自分の肩を揺さぶった。人間の命を係累しておく何か、へ意識が傾き、探りだしたら瀬戸際と思う。どこまで行ったら自分は死ぬのか?とおぼろげの中を歩いていってがくんと道を踏み外してぽっくり逝ってしまうこともある。肝臓が固まったのも酒のやり過ぎが原因だった。ここからは過度でここまではセーフだ、という線の上を歩いているとふと、死んでしまう。作者自身、鹿児島県坊津基地で特攻隊を見届けていた側だったから、なんで俺は生きていて、彼らは死んでいくのだろう、というラインが茫としてしまった。『幻化』という表題がそのものずばりと思う。では、何処へ?という。
posted by バスケ女 at 11:50| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする