2016年10月13日

宗教と自動車と人気もの

某人気ベータツイッタラーの日常用アカウント("ネタツイ用"ではつぶやけないこぼれ話のための)において、去る8月4日に以下のような発言があった。


"車を運転する人が歩きスマホをバチバチに叩いているのを見ると「この人の中では歩きスマホはNGで自分の移動時間を短縮するためだけに歩行者を轢き殺すことのできる道具を使うことはOKなのか……」と頭がクラクラするんですけど、この話はもう宗教に近いのかもしれませんね。”


日常用のアカウントといえどフォロワー数は流石の2800人、当投稿のリツイート数は200回を超えている。俺のタイムラインにもこのつぶやきが回ってきた。なるほど少し過激な内容でウケているのだろうな、と流しかけたのだけれども、引っかかった。これは一体どこが「宗教」なんだろうと。


「歩きながらスマートフォンを操作することはNG」であることと、「自分の移動時間を短縮するために自動車=歩行者を轢き殺せる乗り物を運転することがOKになる」が結びつき、しかもそれが「宗教に近い」という。申し訳ないけれども一見にはさっぱりわけがわからなかった。某ベータツイッタラーさんに意を問うリプライを送ってみたけれども当人からの返事が無かった(どうせ無視されるんならと悪のりをして「BROTHER時代のたけしが一番格好よくないか」、と問うてみたけれどもなかったことになった。これだけに返事来たら面白かったのに)。なので、某ベータツイッタラーさんの中で発言がリツイートされて意図せず膨らんでいくのが許容されるのであるならば、ブログで引用するのも大して変わらないだろう、と誠に勝手ながら当発言の脈絡について考える。


まず、この場合の「宗教」の意味合いはなんだろうか。おそらくは宗教、という言葉に対してのマイナスイメージ(カルト、洗脳、妄執、水中クンバカなど)に端を発しているんじゃないか。つまり某ベータツイッタラーさんの中に軸としてある『自動車運転絶対最悪教』の戒律に「自動車の運転は人間を殺す可能性がある→人間を殺しうる存在は悪だ→すなわち自動車は悪である」とあって、とすると、{「頭がクラクラする」=自動車という兵器を操っている人間が、「歩きスマホ」という不注意甚だしい行為にケチをつけていることに混乱している。} すなわち、いつでも人を殺せることにある状況にある(命を手玉に取れる)のにも関わらず、"「死」に意を向けていない連中に怒りを覚えている奴ら"という存在の矛盾、に疑問を感じずには居られないのである、と解釈した。


そのような"極論"で物事を捉えてしまう自分は『自動車運転絶対最悪教』の信徒で、"極論"といえ宗教、なるほど「宗教」なのかもしれませんねと。というように、極論と宗教がイコールなのではないだろうか。


(「物流」は誰が支えてるんだ、人を殺せるトラックの運ちゃんじゃないのか。という反論をしている方も居たが黙殺されていた。今は「"宗教"かもしれませんね」とのことなので、残念だが的外れとしてふいにされたのかもしれない。プレイステーションの「交通整理シミュレーションゲーム・ナビット」を極めてプレイをVHSで収録して着払いで送れば反応があるかもしれない)


俺も一応免許は持っているけれども、自動車の運転はなるべくやりたくない。が、労働で「運転自信ないんで…エヘヘ…」を無理やりこじ開けられてハンドルを握らされることもある。


基本的にはなるべくして「人を殺す」「己が死ぬ」リスクを少しでも回避したい。メチャクチャ生きたいし殺したくないから。嫌で嫌で仕方なくやっているのに、ちょっと地下駐車場で駐車にミスりリアバンパーを擦って始末書を書かされた。俺は失敗しまっせ、と散々フリをして案の定やらかしたのに真面目に怒られていることに理不尽を覚えて『自動車運転悪教』に入信はしている。しかしここで某ベータツイッタラーさんと違うのは、『自動車運転絶対最悪教』と宗派が微妙に別れているということだ。俺は自動車の運転が上手い人、なりわいとしている方々を尊敬している。


例えば自分の父親の車に乗って家族で旅行に連れて行ってもらったことも沢山有るけれど、父親が「移動時間を短縮するためならば歩行者を轢き殺してもよい」とというドグマに則りホンダ・ステップワゴンを運転していたとは思えない。というか、いざ出発の間際に「父さんはな、人を轢き殺すリスクよりも移動時間の短縮を選んだ。さあ車に乗れ。」と宣言されたら怖すぎて振り切り、家でスーパーファミコンをするほうを選ぶと思う。


『自動車運転絶対最悪教』は完全なる「極論」です。でも俺は"あえての極論"というものが面白くて、きちんとわかりきって右に左に針が振れている人にはそのままやっちまえ、と背中を押したくなるが、やっぱりご意見として(ネタ用と日常用でわざわざアカウントを使い分けしているのもあるし)世に発しているのであれば、ある程度は事情を説明できる地盤が固まっていてほしい。「ギャグ」なら、「ギャグでした〜っと!」と片足を上げてダブルピースしてもらえれば「な〜んだ〜〜」で(あくまで俺の中では。世間様は黙っておかないかもしれない)収まるのだけれども、じゃないのなら宗教、なんてデリケートでありながら壮大で、人類が生まれてからずっとあるのに、ずっとあるのにも関わらず未だかつて明確に定義づけられていない言葉を、ぞんざいに取り扱うのはよしたほうがいいと思う。ましてや「轢き殺す」なんて扇情的、アジ的な言葉が乗っかるのであればなおさら。


「反応の取捨選択」が怖い。何かの拍子に自分の声が届く範囲が広くなったとして、90%賛成、10%反対という結果が出た時に「10%」の声を無いことにしてしまえる。人間なんて己に都合がよければいいのでそりゃ90の波に乗ってしまえればあとはGOGOになる。10の反対というさざなみを「うるせえな」で抑えつけられる。「タバコを吸っている人は、早死にすると覚悟しているのだから今すぐさま殺しても構わない」と叫んだって、90賛成していればその人の中では正義になってしまう。ツイッターのフォロワー、なんて「フォローをしてくれる人」なんだから基本味方で応援してくれて、好き放題言えがちだけど、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)でアーカイブとして残るんだぞおい、と殊勝に、弁えなくてはならないと思っている。とはいいつつ、俺がブログを書いても、2000人弱の「フォロワー」の支えをかいくぐって「計5いいね」だったりする。俺がアフィリエイトで覚せい剤売っててもバレないと思う。
posted by しきぬ ふみょへ at 23:45| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする