2016年11月20日

正宗白鳥『何処へ』等



"忙しい人は仕事に心を奪われて時の立つを忘れ、歓楽に耽れる人も月日の無い世界に遊ぶのであるが、此頃の健次は絶えず刻々の時と戦っている。酒を飲むのも、散歩をするのも、気焔を吐くのも、或いは午睡をするのも、只持ち扱ってる時間を費すの為のみで、外に何の意味もない。そして一月二月を取り留めもなく過ごしては、後から振り返って、下らなく費した歳月の早く流るるに驚く。"


全集は出ているけれども没後間もなくして名前を取り沙汰されるようなこともなく、講談社文芸文庫の『白鳥評論』『白鳥随筆』ぐらいしか新刊で置いていなくて、そもそも文芸文庫が街に繰り出さないと手に入らず値も張るから中々文章が読める機会を作るのに気合がいる。


50年以上に及んだ文筆生活で『何処へ』を発表したのが明治41年白鳥当時29歳、主人公の健次は中学校教師を辞し雑誌記者で愚にもつかない、心にもない社会論評で糊口をしのいでいる実家住まいの27歳。


何も起こらない。「起こりそう」までも行かないし、教訓めいたことも言わない。人生所詮こんなものという割り切りでもない。苛烈に生きたいが生きられない。知っているから。酒を飲めば酔う、放蕩すれば後悔する、その辺に綺麗な女なんかいない。こうなってくるともう阿片か戦争しかない。


阿片か戦争か、バーニング、スピード、あるいは水谷修ぐらい恥を知らずに夜道をほっつき回れたら、と、洒落ではなく真剣に考えることがある。近頃お酒の量も減ってきているのだけれどもそれは、「腹の立つ出来事があって酒を飲んで酔っ払って楽しい気分になり忘れる」までワンセットとして扱われ、そこに肉体も精神もすっかり組み込まれてしまっていることがもどかしく、翌朝しんどいしお金を払わないとお酒は買われないし、このパッケージに費す何某を既に「知ってる」から飽きてしまってきている。警察に捕まるのがいやなのでやりませんが、迷惑をかける身内も居なくなって無事年金生活に突入せられたら、ラスタまるだし、カンナビスまるだしのTシャツを着て煙を吐き出しながら富良野かどこかで土をいじって5年ぐらい余生をやろうかとも存外まじめに視野に入れている。


「世界はこのままでいいんじゃないか」と白鳥は死の年の講演で述べたらしい。クリスチャンでありながら神の存在を疑い、心酔した内村鑑三とも決別し、どこまでも「世界はこのままでいいのか?」と考え続けた人間が、奥さんに先立たれ肉親は去り、安らかな死に顔を見届け、「つまるところ、信じる者は救われる」のだという境地に至るまでにどれほどの月日と精神を削ったか。


死の床で神父の手を握りながら「アーメン」と唱えた。散文主義、シニシズムの権化とも言われた白鳥が「ああ、老いとともに結局信心に着地してしまったのだな」と叩かれたのは、藤村、泡鳴、花袋といった赤裸々告白文学と一線を保ち続けていたのに土壇場で信心を吐露してしまったからだ。白鳥も老いるのだと。


"いっそのこと、四方から自分を憎んで攻めて来れば、少しは張り合いが出来て面白いが、撫でられて甜められて、そして生命のない生涯それが何になろう。「迫害される者は幸いなり」。ていう此奴は当たってる言葉だ。苦しめられようと泣かされようと、傷を受けて倒れようと、生命に満ちた生涯。自分はそれが欲しいのだ。
健次は立ち上がるのも物憂そうに、こう考えてる中に、酒が醒めて夜風が冷たくなった。彼れは主義に酔えず読書に酔えず、酒に酔えず、女に酔えず、己れの才智にも酔えぬ身を、独りで哀れに感じた。自分で自分の身が不憫になって睫毛に一点の涙を湛えた。"


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『身の程なんて一生知るな』というナイキのキャッチコピーがあるけれども、俺は身の程というものを判り尽くして、弁えて、輪郭をキッチリさせておいてから"あえて"それを破る(あるいは拡げる)ことの方に価値があると考えている。自分のことを把握していない人間にことが成し遂げられるとは思えず、馬鹿には出来ないことをしでかさなければ人生ではない。
なんで俺はナイキのキャッチコピーにいちいち文句をつけているのだろうか?これがジジイになるということなのか?


怒りもしないとやることもない。「迫害される者は幸いなり」はキリストの言葉だ。しかしこれは頭に「義のために」という枕がある。わめきながら、義なのか自利なのか境目がわからない時がある。

最近は「のぶみ」という絵本作家の『ママがおばけになっちゃった』が叩かれている。母親が交通事故で死ぬという描写が幼児にトラウマを植え付けかねないと。死を軽々しく扱うなと。俺はのぶみという人は、このツイートを読んだ時に「死んでしまっており、この世には居ない人なのだ」と決めてしまったので、当件で裏付けが取れて溜飲が下がった。死んでいるから生命観が希薄なのは当然のことだ。この世から「羊の皮を被った」悪は消え去る運命にあるのだ、という近頃の考えが確信に変わりつつあり、とするといち中肉中背たる自分が声を荒らげる理由も見つからず、このまま四畳半で畳の染みになるまでどろどろに溶けるのを待たねばならぬのか、という茫とした恐怖を感じている。
posted by バスケ女 at 11:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする