2016年12月30日

自律直進



朝、出勤時、麻里に社員通用口で偶々出くわした。階段を並んで上がりながら、「今晩か明日、ご飯いきませんか?」と誘われる。先週から今週頭にかけての出来事・椿事があって、よもや先方さんからアプローチをかけて頂けるとは思わなかった。金、土、どっちだろう。しかし今から一拍置くとどうせまた要らぬ小手先を練って下手をこき崖から落ちるのが関の山なので、一も二もなく今晩ご飯にしようという返事をした。


告白と言えば聞こえがいいが吐瀉に近く、食道近辺で本音が決壊した。アルコールの濁流に身を任せてしまっていた、欄干にしがみつきながら叫んでいた。などとという心情や「私」のなかで観測された内的の信号などは無理やりに受け取らされた当事者たる相手からすれば知ったことではなく、ただただ土間土間で鍛高譚の水割りを頼み続けるだけの会社の先輩が「メートルを上げている」に過ぎなかったのだろう、と思っていた。


仕事を終え、晩に合流する。相手に気を遣わせまい、と無理におどけている自分がおぞましく感じられる。そもそも貴様が余計な勘違いをしていなかったならば、麻里の生活を煩わせずに済んだのだ。そのくらいの責任を負え。あんまりふざけるな。背筋を伸ばせ。


梅田第一ビルB2Fのワインの安い居酒屋で、目の前に座っている女性が一体何を考えているのだろうということを理解したかった。カルパッチョ盛り合わせ980円のスズキやサワラに「脂が乗っていて美味しい」という感情を相通じて抱けるのだから、本当にこの人が未知なる「何らか」ではないし、そういうように人間を捉えることが非礼だ。


理解するように「努める」という心構え自体が既に、相手の顔面をじかに懐中電灯で照らすかのような厚かましさを内包しているし、かといって謙譲、もう少し行き過ぎると「崇拝」のような、絶対的な存在のまえにひれ伏すのもおかしい。もしくは、覚悟がない。「フェミニズム礼拝」をやれるのは棟方志功のように純然と芸術に向かえる人間だけであって、ほんの一縷でも「交際をしたい、キッスをしたい、セックスをしたい、Cまで行きたい」と勃起の針が振れてしまっている自分の汚穢がほとほと胸焼けがするのだが、かと言って振られたとなると「貴方と一緒にいるとこんなに楽しいといってた"くせに"」と相手に責任をなすりつけ卑下にもっていく自分が存在しているのも事実で、結局はエゴありき、己可愛さの為にやっている嫌らしさを捨てきれない。


然しながら、最後の一滴までエゴの澱をこそげとって相手に身を捧げきるなんて絶対的献身が果たして可能なのか、という疑問がある。「どうせ自分が気持ちよくなりたいだけだろう」という指摘をされて思うところのない人間がどれだけ存在するのか。例えば「向かいに座っている人を笑わせる」という行為は一見なんの否もなく損もないように思われ、僕自身どこかで「献身」をしている気にもなっていた。付随して「目の前の人間を笑わせたい」「ウケたい」「気持ちが快くなりたい」という自分自身へ返ってくる快さも目的のひとつなのは間違いない。この「快さ」をつまりエゴとして弾劾するのであれば、報われる日なぞ一生巡ってこないのじゃないだろうかという怖さがある。さだまさしは『道化師のソネット』で「笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために」と歌っていた。「僕のために」も含まれている。畢竟ピエロだって救われたいという欲を捨てされていないのではないか。坂口安吾は『ピエロ伝道者』で「竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない」と書いたが、そこまで気高くはなられない。


「誠実という態度」を担保にしてしまっている。つまり、倫理や規範におもねる自身の身に不幸や、あるいはしくじりが生じた際に「誠実という振る舞いをしていたのだから、私に否はない」という逃げ道のための「誠実」をしていた。「偽善」と言い換えられるかもしれない。世の中に責任を押し付けるなということだ。僕が不倫や浮気をしたことはないのは、いざ相手に不貞行為を働かれた場合に民事で勝とうとしているだけ、被害者であろうとしているだけなのではないか。


麻里は珍しくアルコールを頼んだ。お酒には弱いのだけれども味は好きらしく、たまにひと口ぐらい自分の酒をあげることもあったが、まるまる一杯を飲みきることはなかった。話は弾んだ。終電も近くなり家に帰ろうとJR大阪駅中央口まで送ると、円柱に凭れて瞼を重そうにしている、このまま電車に乗せるのも危ない。機転の効かざること、小回りの効かざること山の如しで知られている僕がしばらく両肩を揺さぶるでもなく揺さぶらないでもなくしていると終電が無くなった。心の中の金田一がフケを撒き散らしながら頭を掻きむしり掻きむしり、ようやく導き出した答えとして手を引き梅田茶屋町のシダックスに入った。受付で蝶ネクタイの男から札を受取り、番号の部屋を開けてみると前の客が注文した料理や飲み物がテーブルの上から片付けられていなかった。一旦麻里を待機させてロビーに戻り蝶ネクタイの男にそのことを告げると陳謝され、すぐに代わりの部屋に通されたのだけれどもワンランクいいお値段のするVIPルームだった。ソファが張っている。詫びのVIPルームで僕は麻里をソファに寝かし、向かいに坐して腕を組んでいた。何だこの時間は。


始発までは5時間ほどもある。まんじりとしてればよいのか。先週の今日、で反省をしていた僕はペースを抑えていたのでほぼ酔ってはいなかった。小一時間か四半世紀ほど経ったころに麻里は目を覚ました。付き合わせてしまってごめんなさい、と謝られる。全然大丈夫だよ、こちらこそ無理させて申し訳ない、と答えたが、それどころではなく、もうこれは「GO」をしてもいいのか、いや「GO」をしてうまく行ったためしが無いじゃないか、しかし「GO」をせず、間抜けにカラオケで場を持たせて朝まで過ごすのも嫌だ。先週の「自分の気持ちのあえて逆をやる」なんて呆けた真似を二度と繰り返したくない。素直にやるんだ素直に、と部屋のドアを開け、ドリンクバーで2人分のウーロン茶を取りに行き戻りながら僕は麻里の隣りに座った。


そして先程の大阪駅中央口での半端な風林火山ではなく、抱きしめねばと抱きしめた。しきぬさん酔ってませんか?と諭されている。冗談ですよね?冗談であってくださいね、とでもいうように。ここで嘘をついてはならないと、「自分自身を騙す自分自身」を殺してやろうと僕は麻里にキスをしようとした。麻里は顔を背けた。計3機、墜落した。
思い起こせば去年のクリスマスになんばパークス裏の高速バス乗り場で当時の彼女に背けられ、2ヶ月前には昔好意を抱いていた女性と再会し、その晩に京都の個室居酒屋で背けられた。高円寺の、5000円を支払ってお茶を運んでくれる女性と仲良くしてもいいお店でしか、この1年でキスをすることが出来なかった。資本を媒介しないキスはこんなにも遠いものだっただろうか?今年Twitterで「性の喜びおじさん」とキャプションをつけられ、女性と交われない不平を電車内でわめきちらす中年男性の映像が拡散されたけれども、全く笑えなかった。僕はわりと家であのような感じだからだ。


するとまた、左に曲がっても右に曲がってもドブに落ちる錯覚に襲われたのだが、まっすぐに走れば大丈夫なのだ。もしまっすぐ走ってその先もドブだとしても、前のめりに死ねるのには違いないと背筋をただし、先週、宇治で突然自分の意をぶっつけた否を謝り、もう一度あらためて告白をした。答えは今じゃなくてもいいから、すっかり気持ちを受け取ってもらおうと思った。麻里も了承してくれた。午前5時のフリータイム終了の内線で店を出て、駅で別れた。


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クリスマスの日曜に遊んだ。大阪市立科学館で「宮沢賢治の科学」特別展を見、淀屋橋駅近くで予約していた店に向かうまで歩くと、そのあたりの催しについては全く予備知識がなかったのだけれども、偶々中央公会堂の横を通るルートで人もごったがえしてきた。プロジェクションマッピングをやっているらしい。せっかくだからと見に行った。昭和30年生まれということもあり、プロジェクションマッピングというものを実際に見るのは初めてだった。建物に大阪の町並み、歩みが歴史とともに順繰りになって目まぐるしく投影されている。10分ほどの上映が終わり、順路に戻る人の波に飲まれぬようという口実を見つけ、「ココだ!」と僕は麻里の手を握った。しばらく歩いて人混みもある程度落ち着くと、「もうはぐれる心配も無いから、手を離しても大丈夫ですよ」と言われた。だから手を離した。恋愛関係に唯心論を持ち込んで無意味にダメージを負うのをいつ止められるのか。


ご飯を食べ、2日前にロクシタンで購入したハンドクリームをプレゼントで贈った。店を出て駅まで向かう。御堂筋のイルミネーションは青色だった。宮沢賢治が『春と修羅』の序文で「因果交流電燈の ひとつの青い照明」と書いていたけれども、ありとあらゆる事象は因果じみた電気回路で繋がっていて、何かの拍子に青色に光る。きちんと理論にした人間が「青色発光LED」を発見した。「有機交流電燈」と「有機EL」という言葉が何の科学的連環もわからないくせに頭の中で水平に浮かんでいた。


イルミネーションを見に行くカップルの波を見終えた我々が逆流していると、「いろいろ考えたんですけど」と麻里が切り出した。このトーンはいつも僕が爆発する前に流れるイントロだ。少し腰を落として話を聞く。「同じフロアで働いている人と交際関係になったとして、もし普段ケンカをしたとしたら仕事に影響が出てしまう。切り分けは出来ない」「ずっと好きでいたい。一緒にいるのは楽しい。わがままを言ってごめんなさい。」という答えだった。


「まとも」な理由と思う。本心はお前となんか付き合ってたまるかと思ってるけど気を遣ったのだろうよ、という指摘をしてくる人があるかもしれないし今まで僕がそういう立場だった。けれどもそういうひねた考えは毛頭なかった。「まとも」という壁を破る破壊力を持っておらず、なまじ「誠実」という偽善に縛られている自分は、それでも君のことが好きなのだという理由一本で突破する腕力がないまでだ。それは、そうだろうと思った。さっきのハンドクリームだって、「普段来客用の茶碗を洗い、手荒れに困っているのが可哀想だから」というもっともな理由を掲げながら、どうしたって気に入られたい、好かれたい、喜ばれるんじゃないかというエゴだって確かに存在してしまっているのである。「本当に心の底から手荒れ、治れ!!」という思い一本なら、いい皮膚科を紹介するのが正しいだろう。麻里の幸せを第一義に掲げるのならば自分は戸籍ごと抹消されてなかったことになるのが良いかもしれないが、そんなはずあってたまるかという僅かな反骨に寄りかかっている。


明けて月曜日、仕事が終わって少し話した。「あの時手を離しても大丈夫とか言うんじゃあないよ、思い切ったんだぞ」「いやめっちゃ失敗したなって思ったんですよ私」と、振られた自分をピエロにしたのであるが、ここからさて来年に向けて打開する余地があるのであろうか。背中に光の差す日が訪れるのだろうか、前のめりに2016年を締めくくることにする。
posted by しきぬ ふみょへ at 20:03| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする