2017年01月21日

四次元の女

学生時代の夏休み、青森県立美術館:成田亨(ウルトラマンの恰好を考えた人)特設展の道すがら常設の棟方志功に出くわした。
なんとはなしの美術館見学で、素養もなにもろくにないのだが、平日の真っ昼間で空いているだろう、天井の高い施設で贅沢を味わえたらいいとJR青森駅前からバスに乗った。開館前に青森県立美術館前バス停に着き、時間つぶしにぐるりを一周した。


棟方志功への印象が、『二菩薩釈迦十大弟子』に「えらくお坊様がひしゃげて収まっておられる」と思われた、ぐらいしかなく、なんだか身につまされるという実感はなかった。新潟県中越地方の方言でいうところの「せぼんこ」である。むしろこういうものを見ても何も得るところがない自分の腐った右脳をひと冬雪の上で転がしておきたくなる。ほとんど人は誰もいなかったのだけれども、大きなブルトンの模型の前に男と女が屯しており、女がブルトン見るなと憤りを覚えた。正確に言えば、男は女をブルトンの前に連れてくるなということだ。ブルトンは四次元の世界に人間を引きずり込む能力を持っている怪獣だ。ブルトンの前で手を握るな。ブルトンが怒れば、今のお前は今の僕だってこともありうるのだ。


日が経ち、高円寺の古本屋で志功60歳頃の自伝『板極道』を買って読んだ。という記憶を最後に棟方志功という人物が頭に浮かぶことはなかったのだけれども、通勤途中地下鉄御堂筋線天王寺駅内ホームの広告で毎日刷り込まれていたあべのハルカス美術館で開催中2017/1/15(土)までという文言と辨天様が脳裏をよぎり、「本日までということは、観に行っておかなかれば今後損をするかもしれない」という貧乏根性に突き動かされ家を出た。寒波の日だった。


メスカマキリが交尾した後、枯れ果てたオスの躯を頭から食いちぎるであるとか、深海に棲んでいるアンコウが自らの何百倍という縮尺の、大いなる女体の一部と成って化石となるべくして生きているとか、「組み伏せることの能わないもの」として女性を捉えるようになったのは、大学卒業以後我が身に降り掛かった、ナタで葦を払われるがごとくの即死失恋に端を発するのか、こんな矮小な経験に重ね合わせるのが無礼か、兎にも角にも、僕は先の貧乏根性、合わせて棟方志功の「女性礼賛」に現状の打開策を求むべく入場料を支払う。


棟方志功は生来眼を病んでおり、板に鼻のくっつきそうな近さで刀を振るっていたのであるけれども、「今立ち向かっている対象」に対しての己の呼吸さえ板に跳ね返えされる距離と、扱う題材としての「仏性」「ねぷた」「宇宙」「祭」「神々から人へ」「人から神々へ」といった、魚眼で捉えたかのような視野の広さ。つまり、「視る」ことと、「表される」ことになんらの連関性はつかないということである。『板極道』では、"目が弱いわたくしは、モデルの身体の線も見えてこないし、モデルも生涯使わないで行こう。こころの中に美が祭られているのだ。それを描くのだ。"という。ここにいない自分を彫るということだ。しかし何度振り返っても自分はここにおり、「利己の残像」がある。


『辨財天妃の柵』の前にベンチがあったので、座って暫く作品を眺めた。女の前に居ると頭がぼーっとしてくる。ふと思う、わからないものをわからないと、責任を持ってそのまま書いている人間はなかなか居ないのではないだろうか。ようやっとルーベンスの絵の前にたどり着いたネロが、「案外こんなもんかね」と直帰するのだってありうると思う。これでいこう、と立ち上がると、ブルトンの前で拳を握っていた自分と空間ごと入れ替わった。バスは一体何時に出るのだ。


posted by しきぬ ふみょへ at 01:52| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする