2017年06月07日

M&F

先日デビルと遊んだ際に、「俺はここから捲り上げて、ロシア人のブロンドと結婚する。そうでもしないとここから人生逆転できない」と漏らしていた。その数か月後に再開したところ、見事に上半身の筋肉がパンプアップされており、お初天神のタイ料理屋でシンハービールの瓶を煽りながらカーキ色のタンクトップ一丁で仕上がりについて満悦に語っていた。デビルがとみに主張しているのが、「これからはM&F」だ、と。M&F、Muscle&Financeである。筋肉と経済の時代が訪れた、という。そうだったのか。



マッスルとファイナンス、つまり目に見えてわかりやすく物理と経済で優位に立てば物事はスムーズに回る。強ければ生き、弱ければ死ぬと志々雄真さんもスローガンにしていた。筋トレこそが最強のソリューションだ、とひつこく提案し続けインターネットの人気者になった人もあるし、大いなる優越、さえあればにへらにへらと拳の関節を鳴らしつつ笑ってやり過ごせる。



かくいう僕もデビルのM&F宣言に賛同し、彼女に「痩せて、格好良くなってください」と要求をされたのもあり、ここ数ヶ月ほど食事制限と腹筋ローラーを続けている。デビルと女に耳元で囁かれてその通り行動するなんて僕かアクセル・ローズかどっちかだろう。アクセル・ローズがそんな事を話したかどうかは知らないが、シャナナナナナナ・ニーズ、ニーズと僕もかなり思っている。腹筋もうっすら割れてきた。ケンシロウがジャギにとどめを刺した時、ユリアとシンとジャギに殺された子どもと己の怒りを拳に込めヘルメットをかち割っていたが、怒り・反骨が則ちエネルギーに還元されるというのは身体を鍛えている時に最も実感する。踊り場で挨拶を返さなかった経理部長の顔を思い浮かべるとローラーが自然にもう5往復する。ホラーゲーム『学校であった怖い話』に「殺人クラブ」という、日常で些細なストレスを与えた人間を抹殺するというよしてほしい部活動の連中に追い回されるエピソードがあったけれども、そのストレスがまんま己に返ってくる版だ。版(ばん)だ。と言い切ってしまった。



実際やればやるだけ目に見える成果が出るので、見えない相手と闘うよりよっぽど心も体も爽やかだ。Mがある程度の水準に達したら次はFを詰める番である。お金は難しい。凄いやつがお金を持っている場合はいいが、変なやつがお金を持っている場合もある。納得がいかない。芸NO人なんか特にそうで、芸NO人なんかお金を持つべきじゃないだろう。だって芸”NO”人だから。昔の先生や名人と呼ばれるような方々が本物の芸能人と言うのだ。三波春夫先生の俵星玄蕃を御覧なさい。日本人の心が詰まっている。いまのAKB、ジャニーズ、EXILEなんか箸にも棒にもかからないじゃないかあんなものは。だのにお金だけは腐るほど持っている。金満球団ゴミ売虚塵軍も日本をダメにしているよ。



などと、もしお金があるならば「日本人の心」だの「金満球団ゴミ売虚塵軍」だの喚かなくて済む。僕はかっこいいスーツを着た男性が「金満球団ゴミ売虚塵軍」という言葉を発しているのは見たことがない。心の余裕と肉体とお金は順繰りに巡っている。「ニセ科学」という言葉も、相手を腐してやろうという意図が含まれているので良くない。モーツァルトを聴かせて育てたチューリップに毎日ありがとうと呟いてから会社に出かけたほうが健やかだ。フリースタイルラップも悪口のないように。肩を組んでスイカの名産地を輪唱するほうがいい。木村祐一監督作品・ワラライフを借りてくる。

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2017年05月07日

2017/5/7 文学フリマ

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本日の文学フリマでは、僕のふるさと:カナダのハリファックス名物である"ハリバット"を振る舞います。時には4mを超すこともある巨大なカレイで、とても淡白な味わいなので、日本人の皆さんの口にも合うと思います。ぜひご賞味あれ。
posted by しきぬ ふみょへ at 10:54| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月29日

お金持ちになりたい

先日入った居酒屋でテレビを観ていると、『ジョブチューン』の大物司会者特集で小倉智昭、草野仁、徳光和夫、ヒロミ、恵俊彰など動物性脂肪の塊のような面子がひな壇に集められ"暴露トーク"に花を咲かせており、1本あたりのギャラがいくらいくら云々、スタジオ感嘆、茶々を入れるネプチューンやバナナマンといったお笑いの人たちも思う存分にお金持ち、と、楽しみ方の一切わからない映像を見せられテレビの置いてある側の左目だけを固く閉じてしまった。「テレビは"オワコン"」などと喚いている連中然り茂木健一郎然り、ひとつの媒体をまるごと括って断定的評価を下す人間はろくでもないしどうせ毎日頭を洗っていないような者共とも思うが、お金持ちが制作に携わっておりお金持ちがカメラの前で騒いでいる様を貴重な土曜日の夜に割いているのか、一体自分は何を観させられているのか、と途方に暮れてしまい、テレビが何も面白くなくなってしまった。もはやNHKのBSで明け方にやっている「マチュピチュの空撮」や「オトシブミのかしこい子育て」といったような、なるべく人為の関わっていないハイビジョン映像を好むようになった。高校を出るまでは毎日死ぬまでテレビしか観ていなかったのでトントンなのかもしれないが、実際に稼いだお金で生活をしなければならない立場になってから「お金持ちがお金たくさんもらっているね」と苦虫を噛み潰すようになるというのは辛い。よくJUNKやオールナイトといった深夜ラジオを聴いていたけれど、よくよく考えればCM差し引いても1時間40分もの間お金持ちが喋っているのだし、ハガキ職人のTwitterはつまらないのにフォロワー数だけ多いしチヤホヤされて羨ましいし増長するしでこれもまた苦虫案件だ。



本屋に行けばもちろんのこと目に留まる本の作者はお金持ちで、インターネットでフォロワー数何十万人超え、を謳う、ハードカバーの1ページ1ページにちんちんの先をなすりつけているかのような書籍が平積みにされている。インターネットで幅広にウケてお金が入ってくれば嬉しいぜ、というよこしまな怠け者根性もあったが、インターネットで幅広にウケてお金をもらっている人は金玉の腐ったような者しかおらず、流石にそこまで精神が落ちぶれたくないしそもそもウケないしでうっちゃってしまったが、お金はやはり欲しい。あればあるほどいいものと思う。



ブルーハーツもお金持ちだし、格好がいいので女の子にもモテただろう。そんな些細な理由で、大人になってからブルーハーツが聴けぬようになってしまうとは、「年下がうるさいよ」と感ずるようになってしまうとは。



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彼女が、職場の60手前、「己はまだ通用するだろう」とギンガムチェックのシャツを着、べっ甲で縁の太いメガネを掛けた薄髭の、嫁も子どももある爺から誘われ、仕事終わりの晩食事に行く途中の帰り道に偶然出くわした。2人はよく会話を交わす仲で、業務中、給湯室で洗い物をする彼女と10分ばかり何やら話し込んでいる姿を見て働かんか爺と些か腹が立ってはいたのだけれども流石に飯はお前、おい、60で自分のこといけると勘違いしていいのは高田純次だけだぞ、ましてや私が交際している女性なのだ、と頭にきてしまい、晩の夜に彼女に問いただしてしまった。相手が60手前とはいえ、武田弘光のエロ漫画などの読み過ぎで地下鉄の窓に映っている己の佇まいが、私立高校の理事長に寝取られた彼女の、ハートの形の穴が空いた下着を履かせられてダブルピースをしている映像を見せられ呆然としながら勃起せざるを得ない冴えない眼鏡に思えられて居ても立ってもいられなくなった。


彼女には「いや、60やで???」と窘められ、翌日「かっとなり、すみません」と2時間電話で謝ったが、もし己に金銭的余裕があったならこのような失態も犯す恐れはないだろう。南海トラフも北朝鮮のミサイルもだいぶ怖いが、お金があれば頑丈な壁を築けるのでかなり大丈夫だ。一生懸命働いてお金を稼がなければ。何も後ろめたいところはない。「やるしかないから、やるしかない」と、駅のマイナビの広告でお金持ちの有吉弘行が腕を組んでいたのを思い出した。
posted by しきぬ ふみょへ at 22:09| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

やらせていただきました。

じゃないんだよ
一生懸命働け

脇目も振らずに一生懸命働け
posted by しきぬ ふみょへ at 23:47| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

バーチャルリアリティの略

DMM.comでVR動画を観た。新しい性デバイスに対して基本的に守りに入っていたのであるが、Amazonポイントを有効活用しタダ同然でかしこく専用ゴーグルを手に入れられたのと、大槻ひびきや蓮実クレアの最新作がどうしても気になってしまった。社会人だからクレジットカードを持っているので、なんの障害やためらいもなしに動画を購入できてしまう。



届いたゴーグルは眼鏡を着用したままでも上から装着できるかなりごつめのもので、ビジュアルは任天堂のファミコンロボットに近い。首振りに合わせて視界を動かし、手探りでしこるその様はあたかもファミコンロボットがコマを運んでいるが如くだ。それに加えて手元が見えないので、OB(Out of Bounds)があってはならないといつもよりも念を入れてティッシュペーパーを使いクッションを整える必要があり地球にも優しくない。然しながら、限りある資源や人生を犠牲にしても尚、「奥行きのある女性」はいかほどに素晴らしいか痛感した。「ケツ!」と思うて、あぐらをかきながら己の膝をピシっと打ってしまった。未来はここまで来たか。僕にとっては今この目の前のケツの流線型こそがリニアだ。



その感動のぶん、仕事を済ませた後の虚無も半端ではなく、ゴーグルを装着して下半身を露出している様はかなり終わりに近い。21世紀なんか来なければよかったのに。いったん冷静になった後でもう一度動画を観てみた。ソープで思い切り女の人に体を舐められている最中に、上を向いたらただの天井が目に映るのにウケてしまった。こんなに下品な言葉を耳元で囁かれながら全然お前のこと無視して天井観てるけどね、頑張ってね、と思いひとしきり笑い、ゴーグルを外し、布団にくるまった。SNSを一切やめているのにもう通信制限の通知が来た。4月の頭なのに。iPhoneが真っ赤に焼けただれていた。



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大阪に来て4年目の春を迎えた。会社では相変わらず東からやってきた無能の若白髪としてやっている。いつまでも西に染まるまいと抗っている。無能なわりに順応しまいと意味もなく確固たる、捻じ曲げざる、ローキックの効かざる虚栄心のせいでイントネーションを上方に寄せまいとしている。だけれども、大阪はご飯も美味しく安くてお腹がいっぱいになるお店が多いのでそれ以上に考えるのも億劫になり、死ぬまでここでしこってうんちして鼻ほじって過ごそうかな、と順応に向けて脳・体が順応に向けてシフトしてきている。



3月の末にJA大阪が主催のリレーマラソン大会があった。うちの会社も例年参加している。大阪城公園周囲をぐるぐる、42.195kmを21人で分担して走る。1人あたり約2kmを受け持つことになる。一応若手たる区分でエントリーせざるを得ない僕は生来走るのが苦手で苦痛でしかなく、タバコをやり手マンをやり、テカテカに肥えた役員連中にも劣るタイムを叩き出す始末で、「仕事もできなければちょこっと2kmばかし走らせてもボンクラなんかい、ヘラヘラしくさってブスメガネ背むし直毛オタリーマン」というあからさまに鼻くそを見るような視線で眺められる仕打ちにここ数年耐えてきた。ヘラヘラしくさって、歯を食いしばっていたら終いなので去年までは袖を噛んでいればよかったのだけれども、部署に彼女ができ、持ち前の「嫉妬」が乗っかってきたのでなおのこと苦痛になった。



彼女の同期のロシア人のクオーター、元陸上部の183cm、地毛がそもそも明るめの茶髪の男が応援ブースの前を白虎のようなストライドで走り抜ける。彼女は「はやーい!!」と感嘆しながら沿道に駆け寄った。俺も足が速ければよかったのにな、と小学生以来に思った。大人になってから尚、肉体的アドバンテージをむざむざ見せつけられて落ち込むような機会は全然あるのだ。同じ給与体系である以上、カネで説得力を植え付ける事もできず、筋力の負けがイコール雄としての敗北と切実に結びついてしまう。



「嫉妬」でいうと、彼女はおじさんの扱いに如才なく、という事はつまりお気に召されてしまうわけで、髪を切って来ようものなら翌朝「自分…AKBみたいやな!!」とおじさんにちょっかいをかけられている。”今”の喩えとしてのAKBはとっくに古いんだよジジイ、と腐す気持ちもあれど、彼女が給湯室前にておじさんの心の中で尻を撫ぜられていることに焦燥し、ひょっとしてなびかれでもしようものならどうしようか、と本気で心配してしまう。客観的に見れば「心配すんなって」「滅入るな」「口笛を吹け」で済む話なのかもしれないが、いざ当事者となると気が気でない。ともあれ堂々と・我関せず・泰然自若で居なければいけない。理性で解っていても、脳幹が熱くなる。



フィジカル面・フィナンシャル面で勝るところなく、品行方正で浮気の心配なく実直で、日々の会話の充実(への努力)でしか自分を彼氏という立場に置かせられる説得力を持たせられないのに、欲に抗えずごついゴーグルを装着し天井を観ながら笑っている。最近は毎朝ヤクルトを飲んでいる。まず腸から美しくなろうとしている。
posted by しきぬ ふみょへ at 22:25| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

A

2017/2/25(土)彼女が出来た。性懲りもなく、何度滑落に巻き込まれようが熊にぶん殴られようが、女性との平穏無事を望む自分の学ばなさに呆れる。また半袖短パンスニーカーで富士に挑んでいる。「前回は熊に襲われて死んでしまったから」という理由でポケットに鈴を忍ばせている。根本的な性根の是正が喫緊の課題である。



職場の同じ島で仕事をしている新人の女性、このブログでは「麻里」という仮称でしばしば書いた。昨年のクリスマスに中之島・中央公会堂のイルミネーションの下で振られたが、その後何度か遊びに出かけ、先週漸く了承を頂くこととなった。やってることは堀北真希に対する山本耕史のアプローチとさほど変わらないのだが、気持ちが悪い僕がやると不思議と気持ち悪くなってしまう。



その日の夜一緒に飲んだ。そろそろお互いに終電を気にする時間だ、と頭の片隅で気にしつつも、「そろそろ(時間)大丈夫?」などと気を遣うという腕力への自信のなさから発する気遣いを酒の力で押さえ込み、いつの間にやら帰る時間が無くなっちゃったねに持ち込もうとしていた。ろくでもなく「性」に理由を与えて正当化させようとするアンフェアな行動である。



実家ぐらしの麻里がお泊りの許可を得た報告を受ける。残り電池残量10%を切っているiPhone6を駆使し、それを悟られぬように近場のラブホテルを探した。手を握り、位置情報アプリの指し示す方角めがけて前のめりに突き進んだ。辿りついたホテル「NEXT」のエントランスで婆に「後15分ほど待ってもらえれば部屋が空く」旨告げられる。僕と麻里は丸テーブルを挟み向かい合わせに腰かけて待った。婆からお呼びがかかり、前払い6,500円也を支払おうとする。昼食のハーブカフェでランチプレート(お手製シフォンケーキ付)、晩に「女性でも気兼ねなく」利用しやすい内装に凝った焼き鳥屋でセセリ・ソリ・れんこんつくね各2本、セロリの浅漬け、スモークサーモンのサラダ、ウーロン茶・ゆず酒ソーダ割り・日本酒(春鹿)1合・ビール(キリンラガー)・ハイボール(角)ジョッキ1杯ずつ。2件目のショットバーでナッツ盛り合わせ、カシスオレンジ(カシス多目)・ウイスキー水割り2杯(ラフロイグ・シーバス)を現金で支払っており財布に2,000円しか残っていなかった。クレジットカードを出すと、婆は「すんませんウチカード取り扱ってないんですよ。いまどきめずらしいでしょ。すんませんねえ、すんませんねえ、斜向かいの”ラヴィアン・ローズ”さんならいけるかもわからないんですけど。ほんますんません」とのたまった。15分待って今さらラヴィアン・ローズさんへ向かうにも、間もバツも悪い、空室があるかどうかもわからない。僕は麻里に無心をし、残り4,500円を出してもらった。『せめて少しは格好つけさせてくれ』とジュリーは歌っていたが、日常に潜む「ダサ」の罠にことごとく引っかかっており、ほんの少しでも気取った真似をしようとすれば神からイカヅチを落とされる。


結論から書くと「A」までしか出来なかった。僕は意中の女性とホテルに入り、「A」までしか達せない者である。体調が悪いわけでもなく(勃起の不全でもなく)、羞恥に面食らって立ち尽くしたわけでもなく、女性側の周期的な生理現象に寄るものでもない、只々只管に「拒否」をされた、NOの札を出されて身動きが取れなくなってしまったのである。然しながら、ベッドの中で(性交渉に失敗した身分の者でありながら)「こちらとしても好意を抱き続けたままでこのように会社帰りや休日にアポイントメントを取り付け食事をしたりレジャースポットに足を運んだりを続けるのはむしろ苦痛である、中途半端な関係は具合が悪いので正式に、今日を持って交際関係を始めたい」と伝えた。戸惑っている様子だったが、首を縦に振ってくれた。


容姿も内面も美しく、よく笑い気の利く女性と同じベッドで朝まで共に過ごせただけで何をお前は不満なことがあるのかと中学生時代の自分がこの光景を見守っていたのであれば苦言を呈していたであろう、「A」で十分だろう、いわんや「B」以上をやだ。僕は結局チノパンの下の男性器に血流が集まるのが嫌で嫌でしょうがなかった。性欲というものに振り回されたくない。男性器とオートバイのハンドルをタコ糸で縛り付けてサーキットを思い切り走って欲しいとすら思う。こいつの所為で僕はどれだけの金銭と時間を無駄にし、女性と接する上で間違いを犯しただろうか。犯したくないのだ。本日これをもって終了とす、と毎度のごとく戒めては破戒の繰り返しである。



日が昇るまでも「A」までは許されたが結局それまでで、麻里はシャワーも浴びず朝まで白いニットのワンピースから着替えることはなかった。チェックアウト指定時刻は正午だったが、朝9時頃、午後から美容院の予約が入っていた麻里と店を出、ドトールでモーニングセットを食べ、各々家路についた。



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2017/3/1(水)、会社の総合朝礼で人事発令があり、来年度の昇格・異動者の発表がなされた。うちの会社では昇格試験があり、僕は今年から試験を受けられる勤続年数に達していた。初年からいきなり受かる者は極稀である、という声もあり、昇格できたら儲けである、と不合格してしまった場合に保険もかけつつ臨んだ。内容は時事問題や一般常識や小論文「リーダー(主任)に昇格した際の心構え」など、取り立て特筆すべきところもないものだった。それなりに手応えもあった。



昇格者は朝礼前日に人事部から通達がある、という情報も流れており、前日定時までにお呼ばれのなかった自分は恐らくは不合格だろう、と前もって覚悟は出来ていたのであったが、試験(1月)から発表までに上記のように事情が変わり、パブリックの場で無能の烙印を捺されるのが居た堪れない。それだけに及ばず、同じ社屋で働く自分以外の同期並びに、昨年中途採用されたジャルジャル福徳似の男まで「リーダー(主任)」に春から昇進の旨が発令された。僕は頭蓋骨の裏べりに一味唐辛子でも塗りつけられているような、夏目漱石の『それから』で親兄弟から勘当された主人公が電車に乗って職探しに出かけた場面・心情のような、「目の前が真っ赤になる」錯覚に襲われた。よく考えてみると、あれだけ拒否をした「忘年会でのPPAP」をきっちりこなした面々だった。格好が、悪い。列の後ろに並んでいる麻里の目線が背中を燃やすように熱い。



「中学の卒業式前日に、全校生徒の観ている前でヤンキーに胸ぐらを掴まれ振り回される」「高校のマラソン大会で、サボってキックボードに乗っている奴にすら抜かれてビリになる」「初めて行った合コン・ダーツバーで、誰とも喋れず1人で”ダーツの面白い投げ方”をやるも見向きもされない」「インターネットの大喜利大会で、優勝だけでも寒いのに連覇してしまう」など、大方の「ダサ」実績は解除してきたつもりだったのだが、まだ「彼女の目の前で、自分のみ昇進できず」が残っていた。彼女と普段話す中身においても「昔からの知り合いが小説を出し、10万部も売れているらしい」「友だちが芸人をやっており、今度飲みに行く」など、浮世離れした知人・友人を自慢げにあげつらってしまう。本当にダサいと思う。


加えて愚かだから気づかなかったが、同じフロアに交際中の女性が働いている、という状況には逃げ場がない。ミスや叱責など全て筒抜けである。重く責任がのしかかっているじゃあないか。これは一体、どうしよう。



麻里には当日の終業後に慰めの言葉を掛けてもらったが、僕はその日の午前死んだような目をしていたらしい。「”リーダー(主任)に昇格した際の心構え”について書いたけれど、昇格してないから心構えいらないわ」、と己の無能をあえて曝け出す道化をやったが、生活に結びつく以上そのようなおふざけをするべきではない。と解っていながら選択肢が1つしか表示されないのだ。”いつも、なぜおれはこれなんだ、犬よ、青白いふしあわせの犬よ。”。交際関係に至ろうが至るまいが苦悩は終わらず、一先ずは足を今まで向けなかったビジネス本の棚に向かわなくてはならない。
posted by しきぬ ふみょへ at 19:56| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月30日

セルフ一周忌

漫画や私小説を出版してえらく評判になる、仲が良かったり悪かったりした人がめでたく結婚をし家庭を築く、長く非正規雇用者、"るろうに"をやっていた人が定職に就くなど、近頃友人・知人の間で生活環境が変わるようなイベントが相次いでいる。ところで僕はというと今日会社に遅刻した。


前日新婚夫婦の家庭に呼ばれ鍋を振る舞ってもらった。僕の家は会社の独身寮なのだけれどもガス・火NGで食材の調理ができない。夕食となるとすき家、天一、立ち食いそばなど専ら偏差値の低いものばかり摂っているので、「やっぱり鍋だと野菜がたくさん食べられるからありがたいでヤンスね」と前歯を突き出しながら与太郎のようにくたくたのキャベツをもりもりと食べた。人の暮らしや幸せに慣れておらずついつい気分も高揚し痛飲、よせばいいのに帰り道に9度のトリスハイボールまで買ってしまった。劇薬をあおり、ビーズクッションに顔を埋めてムーン・ライダースの『涙は悲しさだけで、出来てるんじゃない』を聴きながらオカマの如く涙を流していると意識が途切れ、目が覚めデジタル時計に視線をやると朝の8時、アラームは平日毎朝鳴るように設定しているのだが聴こえず。会社には「昨晩食べた海老に当たった。点滴をうって午後から出社する」と電話した。寝小便をしてしまった後のような不思議な高揚感は地下鉄に映った自分の顔のむくみを見て罪悪感に変わった。赤ら顔で上司に言い訳する。


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身の回りで「面白い」という評判がたって世に出ていく人、というのは大きく分けて2種類に別れる。本人もさることながら身の回りで何かしらの異常、アブノーマル、椿事、とにかくスラップスティックな日常を送っているタイプ、これを「有機的」に面白さを提供する人とするならば、かたや素性やパーソナリティを隠し、私情を挟まずストイックに創作に打ち込む人もある。これを「無機的」とする。有機であれ無機であれ、どちらかに身を賭していたり振り切っている人は魅力的である。僕の場合はバイオにもメタルにも走れず中途半端だ。「自虐じゃ君は周りに勝たれないから、他の方法を考えたほうが良いだろう」という助言も賜ったことがある。自虐に勝ちも負けもあったものじゃないだろう、と思うが、「女に振られた」「会社に遅刻した」程度の谷に転げ落ちても目を引かない。昔の私小説作家は結核や肺炎を患うと「待ちに待った不幸だ」と喜んだという。苛烈な日常を送っている人の声が殆ど直接的に届くようになった今の世の中、「身の切り売り」もサイクルが早くなり、尚更消費されてエスカレートしていくだろう。

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"清貧と豪奢とは両立せず
いゝ芸術と恋の勝利は一諸に来ない
労働運動の首領にもなりたし
あのお嬢さんとも
行末永くつき合ひたい
そいつはとてもできないぜ"

宮沢賢治『まあこのそらの雲の量と』より


"坂口安吾「文士という職業があっちゃいけないんじゃないかな」
小林秀雄「うん、パラドックスとしてはね。―だから、俺も明日からでも陶器(せともの)商売ができる。そこまで行かなければ、何があんた、陶器が判るものかね。」
坂口「それはそうだね。やっぱり生活を賭けるということがなくちゃダメなんだろうね。」
小林「ダメらしいですよ。僕は陶器で夢中になってた二年間ぐらい、一枚だって原稿を書いたことがない。」"


小林秀雄対談集収録『伝統と反逆』より


"なぜといって結局――芸術で腕を試そうとする人生の姿ほど、あわれむべき姿があるでしょうか。ディレッタントであり、溌剌たる人間であって、しかもその上、折に触れてちょいちょい芸術家になれる、なんと思っている人たちほど、われわれ芸術家が根本的に軽蔑する者はありません。"


トマス・マン『トニオ・クレエゲル』(實吉捷郎訳)より


"君が一人の漁夫として一生をすごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく言うのはあまりに恐ろしい事だ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ。
そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じい疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。このせつなる祈りの心は君の身の上を知るようになってから僕の心の中にことに激しく強まった。"


有島武郎『生まれ出づる悩み』より

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かくいう偉大な先人たちの言葉に「何か」を思う、或いは思い込むということを本当は辞めにしたいのである。いい加減にしたいのである。彼は「文学と酒」にヒントが有るんじゃないか、芽を感じたつもりになっているのじゃないか、なんて揶揄をされたこともあり、凡々と生きていくのであればそんなものはせせら笑っておしまいになるが、なんだか無性に腹が立った。が、正確に言えば腹を立てている自分になお腹が立っている。なんでこんなことに苛ついているのか、それはきっと手に入れたいものが手に入らない、着地が決まらず足首をぐねる自分の格好悪さから湧くフラストレーションの矛先が見当たらないこと、ぐるぐると熱ばかりが循環してどこにも吐き出されないもどかしさにほとほと嫌気がさす。妬みや嫉みや恨みばかりが堆積し、バクテリアがうごめき、スモッグがもくもくと空にのぼるところから望まれぬ命が誕生し、映画『ザ・フライ』のラストでハエと人間が9:1ぐらいになった生き物が背広を着て人間の言葉を喋り、会社に出て、頭をボリボリかくとごっそり頭皮が剥がれ、右脳も左脳もなく滴り落ちる。


気に入らぬ人や物を腐す時に、「ひょっとしたらこの人は既に死んでいるのではないか」と吐き捨てることがあったが、自慰の材料に一年前に振られた前の彼女との性行為をプレイバックしている自分がいて、実際とっくに屍(かばね)と化しているのは己の方なんじゃなかろうかと不安になりギョッとした。まったく前に進んでいない。『BLEACH』で言うところの「虚(ホロウ)」になってしまっているかもしれない。セルフ・ネクロマンサーかセルフ・アンダーテイカーかわからないけれど、僕が死んでいるとしたら、死んだ人の更新しているブログとしてやや波も立つかもわからない。
posted by しきぬ ふみょへ at 23:25| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月23日

せっせっせのよいよいよい

真っピンクの自我がぶるぶるとお皿の上で揺れている。





「せせさせせ」と「ささせさせ」で迷っている。「せせせさせ」で行ったろか「ささせさせ」で行ったろか、今仕上げている恋愛の小説のタイトルを果たしてどちらで決めるべきだろうか。今朝布団から起きて朝風呂でも入るか、って素っ裸になって、その時にうっかり出たおならがゴムみたいな、タイヤを燃やしているようなにおいがした。わたしはそんなに悪いものばかり食べていたのだろうか。おなかも出てきたし不摂生を重々承知とはいえてめぇの体から漏れた空気がゴム燃しとんかい、と外に出る気も失せる。洗濯物がカゴから爆発している。なんでこんなことになってしまっているのだろう、と誰かに責任をなすりつけようとしたら一瞬でわたしに跳ねっ返りがきた。というのもわたしの億劫がカゴに沈んだ、いつ最後に着たんだか今更洗ったとこで変わらんのじゃないかという茶ばんだ肌着類を直視せざるをえない。だけどなるべく直視をしたくないのでこのせまっ苦しい部屋で窓際を向かないようにしている。こうして「せせせさせ」と「ささせさせ」でどっちにしたもんやろか、とキーボードを人差し指でうんとこと叩きながらうんうん唸っているから創作に集中をしたく、ケガれに目を向けている場合ではない。そんな暇なんかないんだ。わたしはいよいよ真剣になろうとしていた。


なるべく休みのうちにこの恋愛の小説を進めてしまいたい。怒りや嫉みをエネルギーにして、そのぶん早死にしてもいいからなんとか形にしたい。何が怒りかというとまずは昨日の夜中にコンビニで売ってたプライベートブランドの、チューハイじみた単なる化学薬品にうっかり手を付けてしまい、敗北の味や、これは。とはまあ手っ取り早く酔っ払ってドーピングかましたら文章も進むかもわからない、とつい数飲んでしまったらいつの間にぶっ潰れてた。何も進んでいない。頭が熱持ってる間に「せせせさせ」「ささせさせ」に決着付けられたらよかったんだけれどもそんなわけなくて、冷静になっても高揚したっても決着付かないんかいと朝ぼらけでこめかみのあたりを小突きながら、もうちょっと天啓とか、ぱっと閃いてそこからなんもかも片付くような、バカ大勢で並べたドミノが倒れてうわーっと桜が咲くみたいなあんなたぐいの気持ちよさはないもんかね、あっちにふらりしてもこっちにふらりしてもどっちもドブかよ、と楽しくもない、後悔するばっかりの酒は流石によす。


歩きスマホはやめたほうがいい。というのも、
@危ないから。死ぬかもしれないから
A死ぬかもしれない可能性を視界に入れるのが嫌だから
B歩いてる時ぐらい考えたほうがいいから


@、 普段音楽を聞きながら道を歩くのも怖い自分にとって、よりにもよって一番情報が先に入る視覚を殺してその辺りフラフラできるなんて、命の要らない人 か?255機あるのか?0機しかストックがなく、このプレイで死んだらお墓に入らなくてはならない自分との世間様との違いはやっぱり持っている余裕の差だ。イヤホンで聴覚ともどもダブルで奪っている人らに至ってはこっちから急に刺してやろうか。

A、 そんな余裕に満ち溢れとる連中を行き帰りの一歩一歩沈みながら歩く地下鉄で見たいもんじゃない。死んでも次がある君たちと死んだら終わりのわたしが交差するたんびにこめかみのあたりの大事な血管が反応する。もしかしたらわたしのように歩きながらスマホいじってる奴らが視界に入ると具合が悪くなるからあえて 私も周りへ意識を割かないように歩きスマホをするようになったのかもわからない。ゾンビの恐怖に怯えるぐらいならゾンビウィルスに感染したほうが幸せだ、 というのと同じ理屈だ。こう考えると@の項に説得力があるんじゃないか。あいつらは殺したって殺したことにならないんだから。この部屋にある武器になりそ うなアイテムといったら包丁ぐらいだ。包丁一本で地下鉄から脱出してやる。

B、 歩いている時が一番思いつく。どういうことを思いつくのかというとなんだろう。アイデアだ。アイデア?わたしは貧困か?歩いていると思いつくのは「歩行」 と「思索」のリズムがどうも噛み合っているからというのを高校1年4月、現代文の教科書で読んだ。今に至るまでぼんやり中身を覚えていられたのはその時少しは高校生活うまくやろう、と意気込みがあったからなのだろう。一瞬で失せてしまったので以降の出来事はほとんど蘇らない。その時瞬間ごとの燃えるような心模様をいつでも呼び戻せる人間になりたい。

アイデア。練気。かめはめ波。「かめはめ」がほどよく膨らむ、のが歩いている時。だからよそから情報をなるべく入れたくない。がん検診を受けましょう、とか、就活サイトのリクルートスーツの青年が青空に向かって思い切りジャンプしているポスター。世の中は雑音、靴音、軍靴の地響きまみれだ。必然性もなくそれっぽく意味だけこじらせて焦らされるオブジェクトばかりが散見される。あんたに言われんでもわかっとるわ。おのれの体にガタが来とったら、自覚症状あったんだったらワシのほうから医者にかかるわ。いちいちポスターでガミガミ言うな邪魔くさい。

邪魔くさいのなら自分の手のひら、スマートフォンの画面に集中できたほうが余計な情報をシャットアウトできるのでひょっとすると皆色々と逡巡した末にイヤホン、ツイッターをお供に道を歩いているのか。そんなことあるかな。喧嘩したら連中には負けるだろう。情報遮断してふんぞり返ってほっつき回れる肝っ玉の奴らに勝てるわけがない。リミッターが振り切れているから。悔しい。もっと、鍛えなくては。

いっその事寝タバコで全部焼き払ってしまったら案外愉快かもわからない。のり塩、ゆず山椒味、旨辛チキン味、ポテトチップスの空き袋。結局のり塩が一番うまいことをもう小学生の頃から、慣れ親しんだあの塩気に勝るものはないのだが、ちょっと色気を出して失敗してはまた帰ってくる。やっぱりビートルズに帰ってきちゃうんだよね、と同じかな。違うか。気合い入れよ。500のペットボトルで頬を殴った。


いっぺん試しに買ってみたがチャンピオンのパーカー。これが似合わねえの。パーカーが似合わないってもう「服」がわたしに不向きだろ。ラフな格好とそこそこの年齢が釣り合わなくなってきているわりにフォーマルな場所に出席するのもおこがましく、メガ・ドンキホーテしか行く場所がなくなってしまった。あそこなら「不相応」という考え方自体が欠如しているので今のTシャツにリラコ姿でも誰にもぶっ飛ばされないで済む。


メガ・ドンキホーテで思い出した。ドンキで自転車を買って、職場までの通勤でちょっとでも運動になるようにというので春先意気込んでいたのにまったく乗っていない。なんか、社会人ともなると自転車通勤組が乗っているチャリってロードバイクとか若干カスタムしてあったりとかホイールの口径が小さくておもちゃみたいな、おめえロンドンやパリでも走るつもりかよ、白人様が乗るタイプじゃないのけ、という優雅な、だから「チャリ」なんて表現にふさわしくない、「バイク」しかもイントネーションが尻上がりの「バイク」だ。10何万とかするんだろう。わたしの購入した「チャリ」は確か1万円しなかった。「チャリ」ごときに本気になるのも恥ずかしく、だからといって本気になっている人を揶揄するわけでもない。ただ「チャリ」「ごとき」「恥ずかしい」と己の中でぐるぐる回り、決着の付かないまま息をしていないチャリが眠っている。休みの日ぐらいは何処かに行ってやろうか。何処に?それわからない。


本棚。本屋でわたしは何を血迷ったんだよ、というバリ島旅行ガイド。思いを馳せるだけで終わる。第一わたしは基本的に絶対に死にたくない。日本人とすらコミュニケーション取るのに難儀しているんだから、いつのまにやら海外の屈強な野郎どもの怒りを買ってヘッドロックで連れ回されてバーカウンターに叩きつけられて死ぬ。バーには行くんですね。


本一冊、買ったら南国の風が吹き込んでくれるかな、とわくわくしていたんだろう。わくわくって。しゃらくさい。もう私は絶対に南には行かない。感性も死んでいる。本一冊で、なにか小さなきっかけで人生がらっと転がるような出来事なんかない。ナシゴレンもミーゴレンも食べない。なにがゴレンだ。ロコモコだ。もうネーミングの響きからして間抜けで南の島の人らとは話が合わないだろう。ハンバーグに目玉焼きとご飯?そんな美味しいに決まっているのにいまさら威張られても。わたしは4歳の時にもう気がついていたよ。ハンバーグの上に目玉焼きを乗せて丼にしたらかなり美味しい、という事実に。特許をとっておけばよかった。昔テレビで見た、特許で儲けている安全サンダル閃いたおばさんは幸せにしているんだろうか。


YouTubeでアイドルのPVを漁る。基本的に明るい未来のビジョンを歌っている。勇気や行動力をもらえるかもしれない、と一縷のやつを望みつつ肩肘をついて見る。可愛いなあ〜〜〜、と薄ぼんやりしながらとっくに眠らないとそろそろ翌日の業務に支障が出そうな時刻になっていた。夢だ希望だとヘラヘラしながら受けるだけ受けてなんてわたしは矮小な存在だっただろう。と、そんなに卑下しないでもいいはずなのに、どこかで割り切れずに、ただ苦しい。アイドル自体になりたいのか、アイドルの活動内容を事細かに噛み砕きたいのか。いや、ただ彼ら、彼女らにわたし自身の生活を立て直すエネルギー、それが建前であって構わないから、前に突き飛ばして欲しいんだ。「失った」のではなく、はじめから分けてもらえなかった青春が遅れてわたしの背中を突き飛ばしてくる。


しゃんとしたい。凛としたい。ちゃんりんしゃん。誰かにお尻を叩いてほしい。お尻を蹴られたい。お尻をつんざいてほしい。わたしのお尻は面白い。人間のからだの中で一番無防備でもろい部分がお尻だ。「心」というものが存在するのであれば、わたしのそれはお尻にある。おならと共に心を放出している。だから、たいしたことはないのだ。わたしの自意識は、一発の屁のごとし。屁如(へにょ)かよ。崖の上の屁如。うるさいうるさい、しゃんとしよう。


それにしたって、わたしの感情に説明がついたとして、理屈をいくらこねたって、「だからどうした」という声が怖かった。ついこの間までは。そんな懊悩はわきまえて生きているんだぜ、ぐちぐち考えてないで手を動かさんかい。汗流さんかい。という正論のハリセンで後頭部をどつかれる。でもわたしにダメージはそんなにない。なぜならば、わたしの心はお尻にあるからだ。考えている脳みそがいくら痛めつけられたとしても、かさぶたが出来て、なおって、元に戻る。考え直せばいいだけだから。だけど心が痛めつけられるのが、辛い。心を炙られる。心に塩を塗られる。心に頭突きをされる。焼ける痛み、飛び上がる痛み、単純で鈍い痛み。など、ありとあらゆる種類の痛みが、一見無防備でまぬけなお尻に与えられる毎日。お尻の肉の厚みは心を守るためだ。納得。だから痩せたくない。痩せてたまるか。


うん、もう一杯だけ飲むか。ボトルを買ったときにノベルティでくっついてきたグラスに茶黒いウイスキーを指二本注ぎ、割ろうとしたらペットボトルにミネラルウォーターを切らしている。もうこうなったら水道水で割ったろか。いや部屋から一歩たりとも出たくない。重たいんだ、わたしの心を防御する肉のついた尻が。


野武士の如くストレートで茶褐色の毒水を飲み干した。のどちんこが真っ赤に燃える。紅蓮のどちんこ。あごの先っちょからこぼしてしまったヘドロを垂らしている。わたしはこれから合戦に行くのか?誰の首を、タマを獲るんだ?いやそんなはずはなかった。眠りたい。さっきからかなり眠りたい。闘うのは明日かもしくはそれ以降。いい加減今何時だ。裸眼で暗闇、明かりはモニタのブルーライトのみ。まったく時の進み方がわからない。そろそろ止まったかな?終わったのかな?時。
くっそ。けっ。どうとでもなれ、というくらいにはどうやら酔いが回っている。「せせせさせ」「ささせさせ」。どっちにしよう。


二択に強くなりたい。わたしは常に「こっち!」とY字路で根拠なくハンドルを切って崖から猛スピードで落ちている。あえてこっちいってみようかな?の逆。自分を信じよう、の逆。あらゆるパターンの逆。きっと自分に懐疑的でありかつ過保護であり、どんな結果にも満足できなくなっているんだろう。「もっと出来るはずだ」「やれんのか?やれんだろ?」とお皿の上のピンク色の自我がキーキー主張してくる。窓の外に投げてやろうか。お前のせいでどれだけわたしが苦しめられてるんだふざけやがって。YESかNOか、○か×かの2択。もうむしろどちらでもなく、ちょうど真ん中をストレートに駆け抜け、どちらのパネルに飛び込むのでもなくただただ支柱に激突して昏倒するという選択肢を選びたい。どうせ間違うなら、自分の意思で間違いたい。そんなものは言ってしまえば「成功」か「失敗」かから逃げているわけだけれど。ああ、くだらない。


どこぞのロックの人が、「ステージに立ってギター抱えて何か一発音を鳴らしたら、それはロックだ」と言ったらしい。じゃあ、じゃあですよ、あほぼんでぼんくらであんぽんでへんぽんですてれんきょうで、なんだらの素養もないわたしがギター抱えて人前で顔を真っ赤にしながら弦をバチでべんべらべんべんやってみたとして、そんなものは果たしてロックなのだろうか。恥じーだけだ恥じーだけ。ていうかロックって何だ?面の皮が厚かったらそれがロックなのだとしたら、先ほどの指二本が血管に回っている今のうちに人前に出てがなり立てたてたら成立するんじゃないんか。ニトロが肝臓を痛めつけている間だけ人はロックでいられますか。お薬が血液にまわっておりながらの場合のみ格好をつけられるのがロックでしょうか。


手探りで、眼鏡をかけた。どうやら午前の2時半。わたしはお腹がすいたので回転寿司を食いにでかけた。もうどうとでもなれ。打破には寿司しかねえだろう。24時間体制で寿司を提供している近所の偏差値の低いチェーン店に入った。明日のことなんか死にさらせ。あ・うん。
早速電子メニューを御覧じろしている。あまりじっくりタッチパネルの画面を睨みつけていたら、回転寿司屋の小僧が「A~、ドゥーユーノウハウトゥオーダー?」と尋ねてきたので、習いたての日本語で「あ、さいっす」と答えた。そういやまともな日本人は寿司をつまみにくる時間じゃないんだよな。恥ずかしい。小僧は、腑に落ちぬ、という表情でカーテン裏のコンベア上流へと引っ込んでいった。


タッチバネルを操作したら己の意思どおり、意のままにお寿司が届く。わたしの知らないうちにガラっと様相がひっくり返った。お寿司、ごちそうじゃなかったでしたか。ごちそうがこんな軽佻に浮薄に扱われて良いんだろうか?誰がこしらえたのだかわからない、米粒の直方体に魚類の一部分がペーストされた食物が2ヶセットで特急レーンの上をつついー、とすべってくる。

いっちょう、わたしはバナメイえびとアボカドの軍艦巻きから始めた。フィリッピーンの潮にもまれた良質のバナメイとアボカドの脂が織りなす重奏をくちゃくちゃ咀嚼しつつ、夜中に食う寿司うめー。味蕾から体が蝕まれていく感覚癖になるでやんすね、とまず一皿を片付けた。続けざまに炙りとろサーモン。こいつもカナダあたりからアジア人の舌べろに悪い脂の膜を張りにそぞろ遡上してきたろくでなしサーモンで、このうえないてろてろがバーナーの火炎でいい具合に香ばしくなっていてお下品でお上品で美味しゅうございますという具合。


炙りとろサーモン、からのマヨコーン軍艦。ひょっとしてチェーンの社長のお孫さんあたりが発案者なのか?という野趣あふるる、とうもろこしとマヨネーズをちゃっちゃか和えたどろどろを酢飯に積載して海苔で帯をいなせに締めた高貴で誉れ高き馬鹿げた一品。ワンプッシュで適量の雫が落ちてくる、トリクル醤油さしをニ、三滴ぽたぽたさせてから口に放り込む。マヨネーズととうもろこしと、酢飯と海苔と醤油。単純明快な味の足し算。わたしの人生もこうであればいいのに。「お金に困っておらず痩せていて、おしゃべりが上手で家庭環境が良好で大きな病気をしたことがない」のに等しく明快な和算。「願いましては、おいしいなりおいしいなりおいしいなりおいしいなりおいしい。では?」「すごくおいしい。」


などと完全なる阿呆の経営しているそろばん塾に通っているがごとく、豚のカツを無理くりシャリに縛り付けた寿司もどきを注文したり、サイドメニューのフライドポテトを頼むやんちゃをやってみたり。とっくに世の中が寝静まった頃、気力もなく、心頭滅却して働いているアジア系パートタイマーを横目に、虚無の心意気で提供されるカロリーをひたすら胃に入れる。需要と供給の歯車と歯車が容赦なく背骨をバキバキに巻き込んで砕く。ついつい、杏仁豆腐まで食べてしまった。本来はケーキに行きたいところだったが手加減しての杏仁豆腐。理性の杏仁豆腐。

からの、茶碗蒸しまでたいらげ、しめて12皿1300円強を支払い店を後にした。夜風かあるいは朝風か、生ぬるい半端な空気の中を歩いている。本日と明日(みょうにち)のはざまで、わたしは娑婆で以降もやってけるものだろうかと、薄ぼんやりとしたねずみ色の目頭を擦りながら国道沿いで考えていた。どうにもならない。も少し違う。どうにもしてくれない。は甘えている。凪いでいる。ジャパニーズ・レゲエの重低音を轟かせるビッグスクーターとすれ違う。お前さんたちはバカだよ。本当に世の中にけつを向けて犯行をしたいのなら、ジャパニーズ・レゲエなんかじゃなくて、「日本の瀑布」のオムニバスCDをかけろ。名だたる滝の水しぶき、スプラッシュとともに単車を乗り回せ。どうも反抗の様式が凝り固まっていて、くだらないよ。わたしのように、夜中に寿司をつまみなさい。


と、若者のわんぱくを許容できるふところの深さも携えず、こめかみに老害ならではの緊張を走らせながら、アパートの階段を上がった。後ろ手に錠をロックし、ゴミ溜めの明かりに目をやる。点けっぱなしのモニター、進んでいない「せせさせせ」「ささせさせ」の文字羅列。羅刹。ひとまずの一件を落着させたふりをしてビーズクッションに頭をずしんとゆだねた。わたしは恋愛小説を書いているんだ。こんなところで棒きれになってたまるか。こんな自暴自棄と雑穀根性の燃えたぎる胃袋で、寿司がどろどろに消化されてゆく。よく言えば理由なき反抗。悪く言えばズボラのなまけ。よく言ってくれる人なんか、いるのかな。どこかに物好きは居るだろう。そんな見てみぬ変人。が現れることを夢見つつ、へたりきった抹茶色のビーズクッションに縋り付きながら、わたしはフローリングの染みとなるがごとく眠ろうとしている。いくらデッキブラシでこすっても消えない、ニンゲンの死んだ痕。マーキング。事故物件となった我が部屋が、格安に家賃が下がることによって、金銭的には恵まれないが才能に満ち溢れた若者が住んで欲しいな。わたしは染みになって若者の活躍を見送る。それがいい。そうしよう。せせさせせ。ささせさせ。せっせっせのよいよいよい。
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2017年01月21日

四次元の女

学生時代の夏休み、青森県立美術館:成田亨(ウルトラマンの恰好を考えた人)特設展の道すがら常設の棟方志功に出くわした。
なんとはなしの美術館見学で、素養もなにもろくにないのだが、平日の真っ昼間で空いているだろう、天井の高い施設で贅沢を味わえたらいいとJR青森駅前からバスに乗った。開館前に青森県立美術館前バス停に着き、時間つぶしにぐるりを一周した。


棟方志功への印象が、『二菩薩釈迦十大弟子』に「えらくお坊様がひしゃげて収まっておられる」と思われた、ぐらいしかなく、なんだか身につまされるという実感はなかった。新潟県中越地方の方言でいうところの「せぼんこ」である。むしろこういうものを見ても何も得るところがない自分の腐った右脳をひと冬雪の上で転がしておきたくなる。ほとんど人は誰もいなかったのだけれども、大きなブルトンの模型の前に男と女が屯しており、女がブルトン見るなと憤りを覚えた。正確に言えば、男は女をブルトンの前に連れてくるなということだ。ブルトンは四次元の世界に人間を引きずり込む能力を持っている怪獣だ。ブルトンの前で手を握るな。ブルトンが怒れば、今のお前は今の僕だってこともありうるのだ。


日が経ち、高円寺の古本屋で志功60歳頃の自伝『板極道』を買って読んだ。という記憶を最後に棟方志功という人物が頭に浮かぶことはなかったのだけれども、通勤途中地下鉄御堂筋線天王寺駅内ホームの広告で毎日刷り込まれていたあべのハルカス美術館で開催中2017/1/15(土)までという文言と辨天様が脳裏をよぎり、「本日までということは、観に行っておかなかれば今後損をするかもしれない」という貧乏根性に突き動かされ家を出た。寒波の日だった。


メスカマキリが交尾した後、枯れ果てたオスの躯を頭から食いちぎるであるとか、深海に棲んでいるアンコウが自らの何百倍という縮尺の、大いなる女体の一部と成って化石となるべくして生きているとか、「組み伏せることの能わないもの」として女性を捉えるようになったのは、大学卒業以後我が身に降り掛かった、ナタで葦を払われるがごとくの即死失恋に端を発するのか、こんな矮小な経験に重ね合わせるのが無礼か、兎にも角にも、僕は先の貧乏根性、合わせて棟方志功の「女性礼賛」に現状の打開策を求むべく入場料を支払う。


棟方志功は生来眼を病んでおり、板に鼻のくっつきそうな近さで刀を振るっていたのであるけれども、「今立ち向かっている対象」に対しての己の呼吸さえ板に跳ね返えされる距離と、扱う題材としての「仏性」「ねぷた」「宇宙」「祭」「神々から人へ」「人から神々へ」といった、魚眼で捉えたかのような視野の広さ。つまり、「視る」ことと、「表される」ことになんらの連関性はつかないということである。『板極道』では、"目が弱いわたくしは、モデルの身体の線も見えてこないし、モデルも生涯使わないで行こう。こころの中に美が祭られているのだ。それを描くのだ。"という。ここにいない自分を彫るということだ。しかし何度振り返っても自分はここにおり、「利己の残像」がある。


『辨財天妃の柵』の前にベンチがあったので、座って暫く作品を眺めた。女の前に居ると頭がぼーっとしてくる。ふと思う、わからないものをわからないと、責任を持ってそのまま書いている人間はなかなか居ないのではないだろうか。ようやっとルーベンスの絵の前にたどり着いたネロが、「案外こんなもんかね」と直帰するのだってありうると思う。これでいこう、と立ち上がると、ブルトンの前で拳を握っていた自分と空間ごと入れ替わった。バスは一体何時に出るのだ。
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posted by しきぬ ふみょへ at 01:52| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月13日

桑田佳祐と「落ち込む」

2014年の暮れ、紅白を家族で見ていた。
サザンオールスターズが何年ぶりかで出ていた。どこかの会場からの中継でいきなりハイビジョン映像に切り替わり、あの「一線を置いている」タイプの大御所が満を持しての出演となると決まって別会場から高画質で現れるのがあまり好きではなくて、いつだったか中島みゆきが黒部ダムから地上の星を歌った時も「会場に来なさいよ、あなたも大人なのだから」と思った記憶があるけれどもともかくそれはそれとして、桑田佳祐さんがその時一番の新曲だった『ピースとハイライト』をがなっていた。


昭和30年代後半生まれの父親が、歌詞に文句をつけている。いまさら楽観的に「音楽の力で平和を」だなんて、そんなふうには笑ってられんのだと。もはや戦後ではないのだと。家の中で唯一喫煙を許されているスペースである2Fのトイレの床に『マンガ嫌韓流』が投げられていた。インターネットで右翼をやっているかどうかは聞いたことが無いがサザンの結成当時から平行線で人生をやってきた男がテレビに石を投げている。WOWOWで中継された同ライブにおいての、紫綬褒章を顔の横に掲げるパフォーマンスが槍玉に上げられて、後日謝罪の文章を打っていたことを知る。何だかひどく落ち込む。


ニッポンで芸能とポリティカルな行動って心底相性悪いので止めておくのが懸命でしたね、とか、謝るのなんてダサい、"ロッカー"なら反骨精神を一貫して持ちなさい、とか、2年も経って散々言われ尽くしている部分は蒸し返さない。落ち込むのは、これを契機に「桑田佳祐って何?」と一回息をついて見つめ直した時に、この人に対して「情緒」以外で好きな部分が自分の中に無かったのではないかということだった。紫綬褒章にしろ、チョビ髭にしろ、サザンオールスターズ | SUPER SUMMER LIVE 2013 「灼熱のマンピー!! G☆スポット解禁!!」にしろ、どうも「調子に乗っていますよ、弁えていますよ、おじさんだというのにね、笑ってくださいね」と自分で見えている範疇を尚飛び越えてやらかしているんじゃないかこの人は、という気がしてしまう。「ヱビス。ちょっとぜいたくなビールです」というキャッチから漂うロマンスグレーにも似たユーモアである。サザンの醸す「情緒」は素直に格好いいと感ずるのに、ライブで両脇に女のくびれを抱えた桑田佳祐を見て、「おじさんのC調」をやられると、怒る、とか、嫌だなぁ、とも少し違う、「落ち込む」のである。


僕が好きな、「父親のカーステレオ」で流れていたあのサザンがどうしてもある。エロからノスタルジーから、「なんでも出来ますよ」の十把一絡げ、ごった煮感がファンを引きつける所以なのだろうけれども、その「エロ」および「笑い」という要素は、これはどうしたって、どうあがいたって世代ズレが生じる。しょうもないことをあえてやっているんですよ、の自戒以上に下品さが先立ってしまう。受け手であるこちらとしても、「おじさんのポンコツさ加減」をストレートに腹を抱えて笑う心構えはあるのに、それでも尚。だ。僕は鎌倉から湘南に向かう江ノ電で、当時付き合っていた彼女とイヤホン片耳ずつで希望の轍を聴く、という大地を揺るがすが如くのベタをかましたことがある。BGMとしての、舞台効果としてのサザンに絶大なる信頼を置いていたわけである。その憧憬にあるサザンが好きなのに。浜田省吾も佐野元春も、イズムがいききっているおかしさもあるけれど、最後にはカッコよさが勝るから僕はこちらのほうに魅力を感ずる。


2016年のソロ新曲『ヨシ子さん』を聴いた。曲調や音楽的な斬新さは僕にはわからないけれども、「EDMたあ何だよ、親友(Dear Friend)?"イザ"いう時に勃たないやつかい?」という部分に、遠い目をしてしまう。自分が若い時に思い描いていたおじさん、老い、をあえて演じているんですよ、というエレジーで勝負されるのがこの憂い・落ち込みの原因なのか。"あえて"という精神の運び方は日常において自らを苛烈に至らしめる上で大事な態度とは思うけれど、それを伏せずに作品として世に出してしまうのは受け手のがっかりに繋がってくると思う。この辺りで桑田佳祐と長渕剛を2人同時に相手取るような爆弾魔のような人が出てきて、風穴を空けるのか吹っ飛んで死ぬかするところが見たい。
posted by しきぬ ふみょへ at 00:02| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

自律直進



朝、出勤時、麻里に社員通用口で偶々出くわした。階段を並んで上がりながら、「今晩か明日、ご飯いきませんか?」と誘われる。先週から今週頭にかけての出来事・椿事があって、よもや先方さんからアプローチをかけて頂けるとは思わなかった。金、土、どっちだろう。しかし今から一拍置くとどうせまた要らぬ小手先を練って下手をこき崖から落ちるのが関の山なので、一も二もなく今晩ご飯にしようという返事をした。


告白と言えば聞こえがいいが吐瀉に近く、食道近辺で本音が決壊した。アルコールの濁流に身を任せてしまっていた、欄干にしがみつきながら叫んでいた。などとという心情や「私」のなかで観測された内的の信号などは無理やりに受け取らされた当事者たる相手からすれば知ったことではなく、ただただ土間土間で鍛高譚の水割りを頼み続けるだけの会社の先輩が「メートルを上げている」に過ぎなかったのだろう、と思っていた。


仕事を終え、晩に合流する。相手に気を遣わせまい、と無理におどけている自分がおぞましく感じられる。そもそも貴様が余計な勘違いをしていなかったならば、麻里の生活を煩わせずに済んだのだ。そのくらいの責任を負え。あんまりふざけるな。背筋を伸ばせ。


梅田第一ビルB2Fのワインの安い居酒屋で、目の前に座っている女性が一体何を考えているのだろうということを理解したかった。カルパッチョ盛り合わせ980円のスズキやサワラに「脂が乗っていて美味しい」という感情を相通じて抱けるのだから、本当にこの人が未知なる「何らか」ではないし、そういうように人間を捉えることが非礼だ。


理解するように「努める」という心構え自体が既に、相手の顔面をじかに懐中電灯で照らすかのような厚かましさを内包しているし、かといって謙譲、もう少し行き過ぎると「崇拝」のような、絶対的な存在のまえにひれ伏すのもおかしい。もしくは、覚悟がない。「フェミニズム礼拝」をやれるのは棟方志功のように純然と芸術に向かえる人間だけであって、ほんの一縷でも「交際をしたい、キッスをしたい、セックスをしたい、Cまで行きたい」と勃起の針が振れてしまっている自分の汚穢がほとほと胸焼けがするのだが、かと言って振られたとなると「貴方と一緒にいるとこんなに楽しいといってた"くせに"」と相手に責任をなすりつけ卑下にもっていく自分が存在しているのも事実で、結局はエゴありき、己可愛さの為にやっている嫌らしさを捨てきれない。


然しながら、最後の一滴までエゴの澱をこそげとって相手に身を捧げきるなんて絶対的献身が果たして可能なのか、という疑問がある。「どうせ自分が気持ちよくなりたいだけだろう」という指摘をされて思うところのない人間がどれだけ存在するのか。例えば「向かいに座っている人を笑わせる」という行為は一見なんの否もなく損もないように思われ、僕自身どこかで「献身」をしている気にもなっていた。付随して「目の前の人間を笑わせたい」「ウケたい」「気持ちが快くなりたい」という自分自身へ返ってくる快さも目的のひとつなのは間違いない。この「快さ」をつまりエゴとして弾劾するのであれば、報われる日なぞ一生巡ってこないのじゃないだろうかという怖さがある。さだまさしは『道化師のソネット』で「笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために」と歌っていた。「僕のために」も含まれている。畢竟ピエロだって救われたいという欲を捨てされていないのではないか。坂口安吾は『ピエロ伝道者』で「竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない」と書いたが、そこまで気高くはなられない。


「誠実という態度」を担保にしてしまっている。つまり、倫理や規範におもねる自身の身に不幸や、あるいはしくじりが生じた際に「誠実という振る舞いをしていたのだから、私に否はない」という逃げ道のための「誠実」をしていた。「偽善」と言い換えられるかもしれない。世の中に責任を押し付けるなということだ。僕が不倫や浮気をしたことはないのは、いざ相手に不貞行為を働かれた場合に民事で勝とうとしているだけ、被害者であろうとしているだけなのではないか。


麻里は珍しくアルコールを頼んだ。お酒には弱いのだけれども味は好きらしく、たまにひと口ぐらい自分の酒をあげることもあったが、まるまる一杯を飲みきることはなかった。話は弾んだ。終電も近くなり家に帰ろうとJR大阪駅中央口まで送ると、円柱に凭れて瞼を重そうにしている、このまま電車に乗せるのも危ない。機転の効かざること、小回りの効かざること山の如しで知られている僕がしばらく両肩を揺さぶるでもなく揺さぶらないでもなくしていると終電が無くなった。心の中の金田一がフケを撒き散らしながら頭を掻きむしり掻きむしり、ようやく導き出した答えとして手を引き梅田茶屋町のシダックスに入った。受付で蝶ネクタイの男から札を受取り、番号の部屋を開けてみると前の客が注文した料理や飲み物がテーブルの上から片付けられていなかった。一旦麻里を待機させてロビーに戻り蝶ネクタイの男にそのことを告げると陳謝され、すぐに代わりの部屋に通されたのだけれどもワンランクいいお値段のするVIPルームだった。ソファが張っている。詫びのVIPルームで僕は麻里をソファに寝かし、向かいに坐して腕を組んでいた。何だこの時間は。


始発までは5時間ほどもある。まんじりとしてればよいのか。先週の今日、で反省をしていた僕はペースを抑えていたのでほぼ酔ってはいなかった。小一時間か四半世紀ほど経ったころに麻里は目を覚ました。付き合わせてしまってごめんなさい、と謝られる。全然大丈夫だよ、こちらこそ無理させて申し訳ない、と答えたが、それどころではなく、もうこれは「GO」をしてもいいのか、いや「GO」をしてうまく行ったためしが無いじゃないか、しかし「GO」をせず、間抜けにカラオケで場を持たせて朝まで過ごすのも嫌だ。先週の「自分の気持ちのあえて逆をやる」なんて呆けた真似を二度と繰り返したくない。素直にやるんだ素直に、と部屋のドアを開け、ドリンクバーで2人分のウーロン茶を取りに行き戻りながら僕は麻里の隣りに座った。


そして先程の大阪駅中央口での半端な風林火山ではなく、抱きしめねばと抱きしめた。しきぬさん酔ってませんか?と諭されている。冗談ですよね?冗談であってくださいね、とでもいうように。ここで嘘をついてはならないと、「自分自身を騙す自分自身」を殺してやろうと僕は麻里にキスをしようとした。麻里は顔を背けた。計3機、墜落した。
思い起こせば去年のクリスマスになんばパークス裏の高速バス乗り場で当時の彼女に背けられ、2ヶ月前には昔好意を抱いていた女性と再会し、その晩に京都の個室居酒屋で背けられた。高円寺の、5000円を支払ってお茶を運んでくれる女性と仲良くしてもいいお店でしか、この1年でキスをすることが出来なかった。資本を媒介しないキスはこんなにも遠いものだっただろうか?今年Twitterで「性の喜びおじさん」とキャプションをつけられ、女性と交われない不平を電車内でわめきちらす中年男性の映像が拡散されたけれども、全く笑えなかった。僕はわりと家であのような感じだからだ。


するとまた、左に曲がっても右に曲がってもドブに落ちる錯覚に襲われたのだが、まっすぐに走れば大丈夫なのだ。もしまっすぐ走ってその先もドブだとしても、前のめりに死ねるのには違いないと背筋をただし、先週、宇治で突然自分の意をぶっつけた否を謝り、もう一度あらためて告白をした。答えは今じゃなくてもいいから、すっかり気持ちを受け取ってもらおうと思った。麻里も了承してくれた。午前5時のフリータイム終了の内線で店を出て、駅で別れた。


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クリスマスの日曜に遊んだ。大阪市立科学館で「宮沢賢治の科学」特別展を見、淀屋橋駅近くで予約していた店に向かうまで歩くと、そのあたりの催しについては全く予備知識がなかったのだけれども、偶々中央公会堂の横を通るルートで人もごったがえしてきた。プロジェクションマッピングをやっているらしい。せっかくだからと見に行った。昭和30年生まれということもあり、プロジェクションマッピングというものを実際に見るのは初めてだった。建物に大阪の町並み、歩みが歴史とともに順繰りになって目まぐるしく投影されている。10分ほどの上映が終わり、順路に戻る人の波に飲まれぬようという口実を見つけ、「ココだ!」と僕は麻里の手を握った。しばらく歩いて人混みもある程度落ち着くと、「もうはぐれる心配も無いから、手を離しても大丈夫ですよ」と言われた。だから手を離した。恋愛関係に唯心論を持ち込んで無意味にダメージを負うのをいつ止められるのか。


ご飯を食べ、2日前にロクシタンで購入したハンドクリームをプレゼントで贈った。店を出て駅まで向かう。御堂筋のイルミネーションは青色だった。宮沢賢治が『春と修羅』の序文で「因果交流電燈の ひとつの青い照明」と書いていたけれども、ありとあらゆる事象は因果じみた電気回路で繋がっていて、何かの拍子に青色に光る。きちんと理論にした人間が「青色発光LED」を発見した。「有機交流電燈」と「有機EL」という言葉が何の科学的連環もわからないくせに頭の中で水平に浮かんでいた。


イルミネーションを見に行くカップルの波を見終えた我々が逆流していると、「いろいろ考えたんですけど」と麻里が切り出した。このトーンはいつも僕が爆発する前に流れるイントロだ。少し腰を落として話を聞く。「同じフロアで働いている人と交際関係になったとして、もし普段ケンカをしたとしたら仕事に影響が出てしまう。切り分けは出来ない」「ずっと好きでいたい。一緒にいるのは楽しい。わがままを言ってごめんなさい。」という答えだった。


「まとも」な理由と思う。本心はお前となんか付き合ってたまるかと思ってるけど気を遣ったのだろうよ、という指摘をしてくる人があるかもしれないし今まで僕がそういう立場だった。けれどもそういうひねた考えは毛頭なかった。「まとも」という壁を破る破壊力を持っておらず、なまじ「誠実」という偽善に縛られている自分は、それでも君のことが好きなのだという理由一本で突破する腕力がないまでだ。それは、そうだろうと思った。さっきのハンドクリームだって、「普段来客用の茶碗を洗い、手荒れに困っているのが可哀想だから」というもっともな理由を掲げながら、どうしたって気に入られたい、好かれたい、喜ばれるんじゃないかというエゴだって確かに存在してしまっているのである。「本当に心の底から手荒れ、治れ!!」という思い一本なら、いい皮膚科を紹介するのが正しいだろう。麻里の幸せを第一義に掲げるのならば自分は戸籍ごと抹消されてなかったことになるのが良いかもしれないが、そんなはずあってたまるかという僅かな反骨に寄りかかっている。


明けて月曜日、仕事が終わって少し話した。「あの時手を離しても大丈夫とか言うんじゃあないよ、思い切ったんだぞ」「いやめっちゃ失敗したなって思ったんですよ私」と、振られた自分をピエロにしたのであるが、ここからさて来年に向けて打開する余地があるのであろうか。背中に光の差す日が訪れるのだろうか、前のめりに2016年を締めくくることにする。
posted by しきぬ ふみょへ at 20:03| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月27日

京都府・宇治

いきさつ


2016/10/11のツイッター
2016/10/28のツイッター



2016/11/26(土)、会社の関根麻里似の女性(以下、麻里)と京都府宇治でデートをした。早め早めに動いたほうが得策だという俺の提案のもとに京阪電鉄中書島駅に11:00集合、11:20頃宇治駅到着。最初の目的地である抹茶、ほうじ茶ベースの菓子類が充実した人気のカフェ・テリアに先着2組の後ろにつきさほど並ばずに入店。俺はほうじ茶ゼリーと抹茶チーズケーキ、麻里は抹茶パフェを選択した。昼食を甘味で済ますのは、日本男児たる、健康優良児たる自分の本懐ではなかったけれども、「これで昼ご飯大丈夫ですか?」という麻里からの気遣いにはノーモーションでOKをした。ほうじ茶ゼリーに「優しい甘さ」、抹茶チーズケーキに「思ったよりもチーズが濃くて、後から抹茶が来る」とコメント。一口もらった抹茶パフェには「あんこが美味しい、こんなに小豆がしっかりしているつぶあんも珍しい」といういかにもな反応を示し上々の仕上がり。12時過ぎから店内も混み始め、先手をうって行動しておいてよかったねと己の株を上げる工作をする。


平等院に向かう。宇治が初めてではない麻里の案内でおすすめの茶菓子店、お土産屋などをジグザグに巡る。そもそもが「先導」が苦手なので、勝手知ったる女性のエスコートに任せられるのは気が楽だ。職場の先輩であるという立場もあって、普段目上の人間が休日に立場が逆転するという「りぼんコミックス」「マーガレットコミックス」などで予習しておいた女性優位のデートが出来ており、彼女になんらプレッシャーもなく一日が過ごせそうだ。


平等院の紅葉具合はきれいだった。美しさ、情緒わかってまっせ面をかましつつ、赤、黄色、緑の葉っぱと青空がグラデーションになっていて映えるね、などと中身のないセリフを吐きながら、デジタル一眼で紅葉を撮影する麻里の後ろ斜め45度で所在なくぶらぶらする。いきなりカメラを向けられて、写されたくないから、パンフレットで隠すなどの行動を取る。また、自撮りの角度から鳳凰堂をバックに2人で撮影。うまくいっている。十円玉の表面越しの写真も撮った。「絶対やりますよねそれ笑」とも言われたが、しょうがないじゃないかミーハーだから、と煮え切らない返し、減点1。ミュージアムでは、最近たまたま勉強していた付け焼き刃の仏教知識をさも前々から染み付いているかのごとくトークに織り交ぜる。案内文をいちいち丁寧に読み、さも学識豊か、知識欲旺盛のような振る舞い。得意中の得意だ。ミュージアムの売店で、阿弥陀様が雲に乗って今世に来迎されている様子のピンバッジを購入。300円。300円で得られる最大の有り難さじゃないかこれ、などとコメント。


平等院表参道ではない、商店街の方にある上林春松でお抹茶を飲む。2階が喫茶スペースだったのだけれども、埋まっているので申し訳ありません、からのすみません、席空いてましたという"儲けた感"で本日の追い風を感じる。歩き疲れたから女性はそろそろ足を休めたいだろうという気遣いも伝わっただろうか。上出来だ。


そして麻里は学生時代に茶道部・兼書道部で、自分でお茶を点てるという習慣が今なおもってある。尊敬するに値する、殊勝で恥じらいもあり、俺のようなせむしに接点など本来はあるべきではない人物なのであるが、何の因果か同じ会社に入ってしまったが運の尽きでこうして糸を垂らされているわけである。可哀想に。気の毒に。


失敗した。ここで「普段会社では付けていない、紫系統のマスカラを付けてはいませんか?」と指摘してしまった。それは正解は正解だったのであるが、何をお前みたいなものが「フォーマル」と「カジュアル」の差異に気づいて浮かれてやがるのだと。異性に好印象を持たれるような人間はつまり打算無く指摘できる自然さ、一挙手一投足のこなれかたが重要なのであって、鬼の首を取ったかのように「会社でしていないマスカラをつけていますやんか!」と息を荒げてしまう己が愚かで仕方がなく、テレビか雑誌か、メディアから与えられた「女の変化を指摘せよ」というミッションにペケをつけて実績を解除したことに浮かれていちいち喜んでいる自分がほとほと嫌になる。


宇治上神社に向かい、16:00頃着。たまたま後にするタイミングで16:30に門を閉めるとわかり、ここでも運良く回れている感の演出の足しになり追い風の錯覚をする。宇治川沿いを歩く。「寒い」「手が冷える」という発言に乗じて「自分がエナジーが漲っている」というユニークを織り交ぜつつ朱色に塗られた橋をどさくさに手を握って渡った。もうあとは"流す"だけで麻里を付き合える、と、バックストレートを日の丸を背中に覆いながら小走りした。決めたも同然と思った。


夜予約していた「創作小料理屋」に入る。麻里はお酒を飲まないので、一方的に楽しい気分になってしまうが、この「酒の勢い」という波に乗れているふりを悟られたくないので慎重に振る舞う。オーダーから時間を取らないであろう牛すじの煮込み、本日のおすすめからブロッコリーの天ぷら、そして「サラダが食べたい」というリクエストから、お品書きの「菜」のページから「茶そばサラダ」を頼んだ。宇治という土地柄もあり「茶」の文字さえ入っていればお気に召すだろうと、また午前から甘味しか摂っていないので至極腹が空いており、本来ヘルシーたるべき、アルカリであるべきサラダにも炭水化物を織り交ぜようとしてしまった。今思うに反省ポイントの1つだ。


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本日のデートは、1ヶ月後の12/24にご飯に誘いそこで告白するための布石だった。1週間前に会話の流れでクリスマスに空いているかどうかを確認したところスケジュールは特に入っていないという事前情報も得ており、そこで誘ってしまっても良かったのだがあくまで本日、宇治からの助走の先にあるクリスマス・イブを駆け抜けてやりたかったので言葉を飲み込み、掘りごたつのようになっているカウンター席の左側に座っている麻里を口説きにかかった。


まさか、1週間でスケジュールは埋まっていた。友だちと日帰りで旅行に行くらしい。新喜劇の内場勝則ばりに「イーッ!!??」と叫びながら、カウンターにベリーロールで飛び込んでキープしてあるボトルを全部ぶち撒けてしまった。つるの曲がったメガネを拾い、前歯がなくなってしまったので「ガッ、ガガッ」しか喋れない。「しきぬさんこそクリスマス誰かと遊びたいって言うてはったじゃないですか、もっと早く言ってくれたらよかったのに」と言われたが、なんで情緒やお約束やしきたりがわからないんだ。散々アイコンタクトを、スルーパス出すよと合図を送っていたのにまったく伝わっていない。チームから孤立していたドイツワールドカップ時の中田英寿と同じ心境になってしまった。


どうせ裏目るなら、自分が絶対に失敗すると思った行動を取れば案外うまくいくんじゃないか、という謎の理論を構築し始め、そこに縋るより道は残されていなかった。少し早くに店を出て京阪に乗り、彼女の最寄り駅まで鼻水を垂らしながらのこのこ付いていき2軒めに入る。どうせ振られるならクリスマスでも今でも変わらないだろうと「クリスマスに本当は言おうと思っていたのですが、恋愛感情がありますので交際をしていただけませんか」という旨の意味がこもっている文言を声帯を振動させて口蓋から発した。麻里は明らかにビビっている。酔った勢いで、がいちばん誠実でないのでよしたほうがいい、ということぐらいは分かっている、今のタイミングが最悪であることも分かっている。クリスマスはワイン一杯ぐらいで留めておこうと肝に銘じていた。だが、もうストラテジーが全て裏目るのならもうままよ、ええいと逆方向に突っ走ったらそれはそれで案の定ドブ一直線だった。東に走ろうが西に走ろうがドブに落ちる。もしかして地球って丸いんじゃないか?たぶん皆は気づいていないかもしれないが…


「自分はしきぬさんにとって、何ていうか"妹的な存在"なのかと思ってました」


女のことを"妹的な存在"で見るようなおぞましい男として思われている。男性としてではなく俺は「お兄ちゃん」だったらしい。女性を「対象」としてではなく"妹"として捉えているような気持ちの悪い、性根の腐った人間のうちの1人に入れられた。あくまで貴方のことをいち異性として純粋に好もしく思っております、と伝えることも気持ちが悪いし、性の匂いを消しても気持ちが悪く思われる。繰り返すが地球は丸い。どうしろというのだろう。「前に温泉に誘っていただいたじゃないですか、あれ、そういうことだったんですね」と言われた。おもむろに自分の目玉をくりぬいてぜんざいにぶち込んでやろうかと思った。


翌日LINEで身辺整理、終活に入らさせてもらったところによると「もう少し考えさせてください」というお言葉だった。今ダメなら明日も年をまたいでもダメだろう。休みの日や昼休みやアフター・ファイブに飯を奢ったり美味しい店を紹介したりされたりするような異性を好きにならずにおられるような人間なんか存在するわけがないだろう。剣桃太郎かそいつは。なめとんけ、だ。何が(以下、麻里)だ。


女に殺された翌日の食事はいつも午後4時前に近所の大阪王将で済ませている。遠くに足を伸ばす体力がないからだ。有線で星野源の「恋」が流れていた。
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posted by しきぬ ふみょへ at 18:40| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月03日

「PPAP」と生活と闘い

忘年会で「PPAP」をやらされそうになっている。2016/11/2(水)の午後3時頃、「しきぬ君に話がある」と内線をかけてきた1個上の先輩に呼び出され、普段俺がその場所で昼ご飯を食べ続けていることにより「しきぬくんが普段、昼ご飯を食べている場所」と呼ばれるようになったロッカールーム兼雑紙等を放り投げておくスペースで会合があった。


先輩は経理部なのだが、経理部長がどうやら若手同士(俺を含む4人)で組んで今流行の「PPAP」をやったら面白いんじゃないか?という思いつきによるお達しがあったらしく、伝令として渋々の申し送りをしに来たとのこと。先輩の立場上、こちらが一方的に不満を押し付けたところで板挟みにしてしまうから、表情筋で圧倒的に抗議しつつ、言葉のうえではできるだけやんわりと、なんとか収める方向に持っていけないかということ、最悪何らかの一芸を披露したとて「PPAP」だけはご勘弁願いたい、4人でピコ太郎を演る意味があるのか、1分足らずの寸芸のためにわざわざ自費で衣装をあつらえ、一応のリハーサルをやり、時間を裂き、なおかつ酒の入った場で誰もろくすっぽ注目していない舞台で駆り出される必要があるのか、冷静に考えて欲しい、とお伝えください、ほな、また、と切り上げた。


先輩の立場が一番面倒くさい。部署も違うし、越権のハラスメントを伝える飛脚をやらされるなんて、心が朽ち果ててしまう。だけれどもここは闘わなくてはならない。人間の尊厳に関わる問題だから。本当に「PPAP」をやらされる可能性が万に一つでもあるならば、徹底的に抗う覚悟である。直(じか)に経理部長とデュエルをかます構えがある。


「PPAP」そのものに嫌悪を抱いているわけではなくて、ピコ太郎も古坂大魔王も花開いて頑張っていてくれたらいいのであって、そこに一切のポジもネガもない。ただ、今流行をしているモノ、コトを「とりあえずやっといたらおもろいんちゃうのん」だけで上からグリグリ押し付けられることへ、若者として、ペーペーとして従い、これも社会で生きていく上の通過儀礼であると割り切って無表情で業務命令をこなすことが果たして是であるかという問題だ。


会社の飲み会で経理部長と話したことがあるのだが、かつては役者を目指し俳優養成の専門学校に通っており、健康不良が理由で夢を頓挫し、まっとうのサラリーマンとして生きていく道を歩んで今に至ると、若手を集めて気持ちのよい表情で喋っていた。まともに働くことを良しとせず、表現で食っていこうという時代があった人間が、社会に巻き込まれて立身出世し、階級が目下の人間に忘年会で「PPAP」をやれ、と覆いかぶされるようになってしまうのだ。


社会人、としての位が上がっていく上で、どこかで"センス"は死んでしまうのだ。あるいは、センスを殺さないとやっていけない社会なのかもわからない。夢を放擲せざるを得ないほどの病気のあとで、痛みを共有できずむしろ「押し付ける」側に回る。死ぬか生きるかなんかわからないんだから、己の思うように生きたれ、地獄に道連れじゃい、からの開き直りかもしれないけれども。とにもかくにも「PPAP」を目下の人間に無理やりやらせるという行為は精神が死んでいる。やめてくれ。ゾンビに肩を組まれたら振り払わないとこちらまでゾンビになってしまう。勘弁をしてほしい。


加えて、「PPAP」を、会社で気になっている関根麻里似の新人の前では絶対にやりたくない。クリスマスにご飯に誘おうかと逡巡しているんだよ。絶対「PPAPやらされた奴」と2016/12/24(土)という3連休の中日に飯食いたくないだろ。貴重な大卒1年目のクリスマスを。人間の尊厳と己のペニスの為に俺はジジイと闘わなくてはならない。という話。続報をします。
posted by しきぬ ふみょへ at 22:37| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月31日

フォルティシモ無意味論

おまえの涙も
俺を止められない
いまさら失う
ものなど何もない

言葉にならない
胸の熱いたぎり
拳を固めろ
叩きのめされても

激しくたかぶる
夢を眠らせるな
あふれる思いを
あきらめはしない

愛がすべてさ
今こそ誓うよ
愛をこめて
強く強く




大友康平さん率いるHOUND DOG(ハウンド・ドッグ)が1985年に発表した楽曲「ff(フォルティシモ)」。
1番の歌詞を抜粋し、吟味し、咀嚼してみたい。
1985年度年間56位(ザ・ベストテン調べ)である当楽曲が当時、日本で56番目に国民の琴線を震わせた根拠・いわれは果たしてどこにあるのだろうか。


おまえの涙も
俺を止められない
いまさら失う
ものなど何もない



作中の俺・大友康平(以下、こうへい)は「おまえ」に涙を流させてしまった。原因はわからない。けれども、俺の夢、目標を最優先事項に据えているので、今さらどうこうと咎められようがこのまま突き進むという決意表明。「いまさら失うものなど何もない」とこうへいは言う。「おまえ」を失うことを厭わないようだ。おまえの涙以上に崇高で価値を感ずるsomethingをこうへいは追い求めているようだ。果たして一体なんなのだろう。はっきりしない。最後まで。


言葉にならない
胸の熱いたぎり
拳を固めろ
叩きのめされても


言葉として表現できないほどにパトスを感じている。その対象が不明瞭だけれども、リリースされた年、こうへいは29歳。今更言葉にならない怒りを表明するにはいささかおじさん過ぎはしないか。言葉にならないことと、「言葉に出来ない」のは別だ。「言葉にしようとしたか?」「サボってない?」ということだ。ここで飛び火させるのもどうかと思うが、怒髪天の「おじさん頑張ってるんだぞロック」も馴染めない。俺もおじさんに片足突っ込んでいるけれども、果たして四十を迎えて「おじさん頑張ってるんだぞロック」を聴きながら中ジョッキを煽って月曜もお仕事頑張るぞ!と活力にするものだろうか?苦手だ。目を逸らしてしまう。


1985年。ブルーハーツが『1985』で”全ての大人に感謝します"と宣戦布告した年。尾崎豊が卒業の答辞を読み、BOOWYが『BOOWY』を発表し、北アメリカ大陸でウケていたWe are the worldが敗戦国ジャパンにも鳴り響いた。うんざりするほどメッセージが世にあふれかえっていた。さなか、このff(フォルティシモ)が期せずして一石を投じたのだ。先に結論付けてしまうけれども、この曲は「マジで何も言っていない」。


「叩きのめされても」と一口にいうけれど、叩きのめされたにしては、映像で見ている限りマイクスタンドをショルダーに担いでマッチョイズムをむき出ししている。のめされているか?のめされた男性に果たしてここまで勝ち誇った表情でとっぽいパフォーマンスが出来るものなのか。

激しくたかぶる
夢を眠らせるな
あふれる思いを
あきらめはしない

愛がすべてさ
今こそ誓うよ
愛をこめて
強く強く


叩きのめされたはずの、世の中への不平を抱いている、抑圧された人間が「強く"come on"強く」と歌詞に載っていない"come on"をはずみで口ずさむなんてありえない。そして具体的に教えてほしい。夢とは。思いとは。


言ったもの勝ち、言えばそれで完了して責任が手から離れた、となしてしまう勘違いは流石に2016年も終わりに差し掛かっているのだからそろそろ咎めたい。残るんだぞ。言葉は。「激しくたかぶる夢」「あふれる思い」と、口に出すだけならば誰にだってモンキーにだって出来る。間寛平も「誰がモンキーやねん」「ワシは止まると死ぬんじゃ」と杖を振り回した。寛平が振り回す杖のほうがこうへいのマイクスタンドよりも「近寄った際のヤバさ」にあふれてよっぽど様になっている。"声の出る人"ことファンキーモンキーベイビーズのファンキー加藤さんは公衆に向けて声を発したり、CDに焼いたりするとなぜかお金をくれる人たちがいるらしく、そのおかげで生活しているが、彼も決して意味を伝えているわけではない。亀田大穀がリング上で熱唱したのもさもありなん、だ。意味がない。


急に「愛がすべてさ」「今こそ誓うよ」と表明されたところで、「と申しますと?」となってしまう。この詞には意味および脈絡がない。言うだけならば誰にでもできることを歌うのをやめてほしい。歌ってもいいけど、家でやってほしい。


と、30年以上前のこうへいに言いがかりをつけている奴の方が頭どうかしている気もするが、こうへい→加藤の系譜として、ffのような「何も言っていない歌」の流れが出来ていることも確かで、「誰かが強く言う」をしなければ。どこかで食い止めないといけない。何だこのこみあげる使命感は。


ナンセンスと「意味がない」はどうやら違う。たとえばイマクニ?さんの「ポケモン言えるかな?」の詞は当時151匹しか発見されていなかったポケモンの名前を羅列しただけだけれども、小学生だったころは歌えない奴はクラスのつまはじきだったし、CDを買ってもらうまでは歌詞カードを友達にコピーしてもらって授業中机の下で読んでいた。ナンセンスかもしれないが、子どもたちには"意味"をもたらしていた。意味を付随させるのは受け手たる我々の仕事だ。「意味がない」とは、聞かされたところで得られる情報、知識、感慨、情、などが欠落しているもののことだ。「毒にもクスリにもならない」という言い回しがあるけれど、毒でもクスリでもないものは毒より毒だ。


現在、自身以外の全メンバーが脱退し、1人で「ハウンド・ドッグ」をやっているこうへい。「いまさら失うものは何もない」じゃない。まだ、ある。「ハウンド・ドッグ」だ。売りましょう。断捨離。削ぎ落していきましょう。意味のない歌を唄うのであれば、限りなく自己を無くし、「空(くう)」の域にまで達したこうへいの歌が聴きたい。


※こんな「意味のない」歌がありますよというご報告をTwitter「n-jomooo」までお待ちしております。
posted by しきぬ ふみょへ at 21:57| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月16日

女に金玉を握られている

■10/15、最近話題に上げることの多い『会社の関根麻里』と遊びに行った。中崎町、という、東京に住んでいる人間に説明する場合は「下北みたいな場所」といえば集まる層や店構えなんか想像がつきやすいかもしれない。町並みこそ違うけれども「古民家を改装」したようなカフェやハンドメイドの雑貨屋なんかが並んでいる。猫も杓子も最近古民家を改装しすぎじゃないか?俺も古民家を改装して何か始めたい。桃鉄をこたつで出来る店をフリープレイ1,000円からで開きます。totoBIGが当たった暁には。よろしくお願いします。


■雑貨屋でも服屋でも百貨店の化粧品売り場でもなんでも、女の付き添いで野郎が普段はまあ敷居をまたぐことのないような店に入ってこれがいいんじゃない?あれはどう?などと場をつなぐためだけに適当なアイテムを手にとって見せて「それも可愛いですね!」なんてやり取りをしている時に、己がまぬけでまぬけでどうしようもなくなり店から走り去りたくなる。可愛いとか感じるんですよ。ステキやん、みたいなものは持ち合わせているんですよ。それでも、この店にそぐわない、そぐってないんだろうな、とムズムズしてしまって背中がイーとなる。おしゃれ伊達メガネコーナーの回転スタンドから、レンズフレームがハート型になっている銀縁を選んで「これかけてみてくださいよ笑」あるいは「これかけてみてよ笑」的な平和一辺倒の疎通をやっている時に、ワイプでもう1人の俺が「うわ!女に気に入られようという試み!」と手を叩いてソファから転げ落ちている。


■宝塚の誰それさんが、とか、芦屋のなんとかさんが作ったんですという注釈のプレートがあるような雑貨屋で、関根麻里はホオズキをあしらったイヤリングを買うか買うまいかと逡巡していた。1,900円。欲しいものを買うんだったら即決せい、というような値段設定で、横で眺めながらどうするんだ、と待っていたんだけれども結局購入せず、店を出た。俺がもし「おう、買(こ)うたろけ?」と歯茎と下心を剥き出しで気を利かせようとしようものならそんなものはキャバクラ嬢と同伴中の禿頭と変わらない俗野郎になってしまうので黙って眺めていた。付き合っていたらこの時間さえも愛おしく覚えられるのかもわからないが、ただただ関根麻里の付き添いである以上は、「なに?この時間?」と懐疑をやってしまわざるを得なかった。5,6件似たような古民家を改装した雑貨屋を巡っている。全然いいんす。全然いいんすけどね。何がいいんだかわかんねーと叫ぶ口の臭いジジイにだけはなりたくないので、「嫌」とか「女ってやつは理解できんのやぜ」とナタを振り回しているわけではない。後ろを付いてってショーケースの前で白目を向いている自分が愚かだという話。


■夜は東梅田で、美味しいのにあんまり流行っていない居酒屋があって、こういう店を抑えておけば好印象だろう、という和メインのところに、前日にきちんと予約をしており、のれんをくぐった。四方竹の天ぷらっていう、大分だかで今しか穫れないから食っていってくださいよ、という大将のレコメンドがあってそれがサックサクでサックサクでたいそう旨く、カープがCS勝ちましたね、広島の酒サービスしまっせなどと賀茂金秀を飲んだ。関根麻里はアルコールが飲まれないので、俺ばかりが今回に限らず毎回酔っ払うのだけれどもずるいと思う。うめーうめーと啜っていたら、「しきぬさん、美味しそうに飲んでるから気になっちゃって。ちょっと貰ってもいいですか?」なんて枡から2なめくらいされた。


■こんなんされたら「アラ、いいですね〜〜」と勘違いをするに決まっているだろうよ。しかしこういう魔性の振る舞いを自然と、オーガニックにやってしまうのがオンナという生き物なのだと、いくら肝に銘じていたとしても当座では酔っ払っているので判断するのにえらく苦慮する。2件目の土間土間で、「すいませんがお付き合いの旨、ご了承いただいて宜しいでしょうか?」と喉まで出かかったが、職場の斜め前の席で働いている新入社員の人生を俺のようなせむし男が左右するような真似はおこがましいにもほどがあり、何もなくその場を解散した。


■寒くなってきたから温泉にでも行きたいねえ、という会話のバースを翌日思い出し、そしたら今度城崎温泉にでも日帰りで行ってみようか?大阪駅から片道特急で2時間半だから朝早くなっちゃうけども、とジャブを打ってみたら、「じゃあ会社の人も誘ってみます〜?(*^o^*)」というレスポンスだった。関根麻里にとって俺が、「休日ひまひま都合つきおじさん」という扱いだったとして、どうせ空いているだろうから1人じゃ行きづらいカフェーや雑貨屋に付き合わせるのに具合が良いとという理由で遊んでいるのだとしたら、「2人きりで遠出なんて勘違いをするんじゃないぞ、会社の人という防護膜を、ディフェンスを張るけれどもそれでもいいなら誘われるんでも無いではないが、私に行為を持っているのであればそこまで広い心を携えているわけじゃないだろう、所詮」という穿った、穿りに穿った見方も出来なくはない。一緒に過ごしていて関根麻里が斯様にも悪魔的な考えをしているとしたら恐ろしいにも程があるが、俺に好意を、ラブ・サイケデリコを抱いてくれているのだとしたらバリケードなんか張らないだろう。というか何故俺だけが悶々としなければならないんだ。不公平だ。


■女性から振られたことは多くあるけれども、こちらから関係を断った経験はない。いつも「金玉」を女性に預けている。いつでも気に食わなければちぎりとって殺してくれと。何らかの決定的な粗相の際にまるでびわの身をもぎりとるが如く俺の金玉を持っていかれて犬猫に与えられている。生かすも殺すも、命の生殺与奪の権利を握られていて、なんでこっちばかりがいつも考えて考えて裏目に出るような行動をして笑われなくてはならないんだ、というコンプレックスが過剰にある。金玉を握られたくない。ナチュラルに手と手を取り合い、わたせせいぞうのような恋愛を目指している。170cmないのに。頭をかきむしるのを止めたい。


【コラ!のコーナー】


■『小説BOC』という中央公論から出ている文芸誌で、「アーノルズはせがわ」というtwitterで24万人のフォロワーをひっさげているインターネットの人気ものが「読まずに描く名作マンガ」というコーナーを承っていて、第1回は谷崎潤一郎の『細雪』、第2回は川端康成の『伊豆の踊子』を、「作品を読んでいない立場から、内容を類推しておもしろおかしくウケるように仕立て上げ、1ページ漫画にしました」という連載を受け持っている。


■アーノルズはせがわ、という人を批判する上で、「いや、つまんね〜〜」という評価軸に置く時に、面白いかつまらないかはそれはそれで人それぞれだろうが、ウケていればジャスティスだ、と言われてしまえば「ぐぅ…」となってしまうから大手を振って釘を刺しづらいんだけれども、新書を読む時に一番好きなのが中公新書だった。だから小説BOCの出版社が「つまらないけれども名前だけなぜか売れている人」を客寄せのパンダ方式で組み込んでいるんだ、と思うとショックだった。しかも、「読まずに描く」って、インスタントに寄り添っていますよね。文芸誌を買うような人間が一番忌み嫌うものだろ。なんで寄り添うんだよそっちに。出版社の公式広報アカウントがつまらないと落ち込む(平凡社ライブラリーのアカウントが「ゲイ短編小説集」をさも腐女子と呼ばれる層にほおずりするようなツイッターをしていた時にたまらなく嫌だった)。


■『細雪』は上中下とそれこそ中公文庫で別れているから読むのに時間もかかるし覚悟がいる。ばかみたいに「読んでないけど語ってみたった笑」ユーモアが成り立つのはまあそれとして、伊豆の踊子は全然長くないし、さっさと読んだらお終いだろ、「小難しく、大昔文章を書いている人を戯曲化したった笑」的な笑いでお金をせしめている連中が存在していることが腑に落ちない。それは文芸誌で決してやってはいけない。やってほしくない。


■岩波文庫の青でも緑でも、「評価が定まった」作品しか文庫化されない。だから一介の愚ザラリーマン(千原兄弟の「矢ザラリーマン」に影響を受けている)がどうこういう筋合いは無いけれども、今ウケている、ひたすらつまらないアーノルズはせがわの1ページ漫画は彼が死んだあとでボロクソ言われるとしても、存命中ちやほやされればそれでOKだから悔しくてたまらない。お金ももらえているからね。


■「アーノルズはせがわ」がウケて経済が産まれている現状。


■このまま関根麻里とうまく行かなかったとしたならば、クリスマスイブ、飛田新地で25,000円なりでエッチをしたろうかと考えている。今年の12月24日は三連休の中日だ。GOGO!!か?糞がよ。
posted by しきぬ ふみょへ at 23:14| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月13日

宗教と自動車と人気もの

某人気ベータツイッタラーの日常用アカウント("ネタツイ用"ではつぶやけないこぼれ話のための)において、去る8月4日に以下のような発言があった。


"車を運転する人が歩きスマホをバチバチに叩いているのを見ると「この人の中では歩きスマホはNGで自分の移動時間を短縮するためだけに歩行者を轢き殺すことのできる道具を使うことはOKなのか……」と頭がクラクラするんですけど、この話はもう宗教に近いのかもしれませんね。”


日常用のアカウントといえどフォロワー数は流石の2800人、当投稿のリツイート数は200回を超えている。俺のタイムラインにもこのつぶやきが回ってきた。なるほど少し過激な内容でウケているのだろうな、と流しかけたのだけれども、引っかかった。これは一体どこが「宗教」なんだろうと。


「歩きながらスマートフォンを操作することはNG」であることと、「自分の移動時間を短縮するために自動車=歩行者を轢き殺せる乗り物を運転することがOKになる」が結びつき、しかもそれが「宗教に近い」という。申し訳ないけれども一見にはさっぱりわけがわからなかった。某ベータツイッタラーさんに意を問うリプライを送ってみたけれども当人からの返事が無かった(どうせ無視されるんならと悪のりをして「BROTHER時代のたけしが一番格好よくないか」、と問うてみたけれどもなかったことになった。これだけに返事来たら面白かったのに)。なので、某ベータツイッタラーさんの中で発言がリツイートされて意図せず膨らんでいくのが許容されるのであるならば、ブログで引用するのも大して変わらないだろう、と誠に勝手ながら当発言の脈絡について考える。


まず、この場合の「宗教」の意味合いはなんだろうか。おそらくは宗教、という言葉に対してのマイナスイメージ(カルト、洗脳、妄執、水中クンバカなど)に端を発しているんじゃないか。つまり某ベータツイッタラーさんの中に軸としてある『自動車運転絶対最悪教』の戒律に「自動車の運転は人間を殺す可能性がある→人間を殺しうる存在は悪だ→すなわち自動車は悪である」とあって、とすると、{「頭がクラクラする」=自動車という兵器を操っている人間が、「歩きスマホ」という不注意甚だしい行為にケチをつけていることに混乱している。} すなわち、いつでも人を殺せることにある状況にある(命を手玉に取れる)のにも関わらず、"「死」に意を向けていない連中に怒りを覚えている奴ら"という存在の矛盾、に疑問を感じずには居られないのである、と解釈した。


そのような"極論"で物事を捉えてしまう自分は『自動車運転絶対最悪教』の信徒で、"極論"といえ宗教、なるほど「宗教」なのかもしれませんねと。というように、極論と宗教がイコールなのではないだろうか。


(「物流」は誰が支えてるんだ、人を殺せるトラックの運ちゃんじゃないのか。という反論をしている方も居たが黙殺されていた。今は「"宗教"かもしれませんね」とのことなので、残念だが的外れとしてふいにされたのかもしれない。プレイステーションの「交通整理シミュレーションゲーム・ナビット」を極めてプレイをVHSで収録して着払いで送れば反応があるかもしれない)


俺も一応免許は持っているけれども、自動車の運転はなるべくやりたくない。が、労働で「運転自信ないんで…エヘヘ…」を無理やりこじ開けられてハンドルを握らされることもある。


基本的にはなるべくして「人を殺す」「己が死ぬ」リスクを少しでも回避したい。メチャクチャ生きたいし殺したくないから。嫌で嫌で仕方なくやっているのに、ちょっと地下駐車場で駐車にミスりリアバンパーを擦って始末書を書かされた。俺は失敗しまっせ、と散々フリをして案の定やらかしたのに真面目に怒られていることに理不尽を覚えて『自動車運転悪教』に入信はしている。しかしここで某ベータツイッタラーさんと違うのは、『自動車運転絶対最悪教』と宗派が微妙に別れているということだ。俺は自動車の運転が上手い人、なりわいとしている方々を尊敬している。


例えば自分の父親の車に乗って家族で旅行に連れて行ってもらったことも沢山有るけれど、父親が「移動時間を短縮するためならば歩行者を轢き殺してもよい」とというドグマに則りホンダ・ステップワゴンを運転していたとは思えない。というか、いざ出発の間際に「父さんはな、人を轢き殺すリスクよりも移動時間の短縮を選んだ。さあ車に乗れ。」と宣言されたら怖すぎて振り切り、家でスーパーファミコンをするほうを選ぶと思う。


『自動車運転絶対最悪教』は完全なる「極論」です。でも俺は"あえての極論"というものが面白くて、きちんとわかりきって右に左に針が振れている人にはそのままやっちまえ、と背中を押したくなるが、やっぱりご意見として(ネタ用と日常用でわざわざアカウントを使い分けしているのもあるし)世に発しているのであれば、ある程度は事情を説明できる地盤が固まっていてほしい。「ギャグ」なら、「ギャグでした〜っと!」と片足を上げてダブルピースしてもらえれば「な〜んだ〜〜」で(あくまで俺の中では。世間様は黙っておかないかもしれない)収まるのだけれども、じゃないのなら宗教、なんてデリケートでありながら壮大で、人類が生まれてからずっとあるのに、ずっとあるのにも関わらず未だかつて明確に定義づけられていない言葉を、ぞんざいに取り扱うのはよしたほうがいいと思う。ましてや「轢き殺す」なんて扇情的、アジ的な言葉が乗っかるのであればなおさら。


「反応の取捨選択」が怖い。何かの拍子に自分の声が届く範囲が広くなったとして、90%賛成、10%反対という結果が出た時に「10%」の声を無いことにしてしまえる。人間なんて己に都合がよければいいのでそりゃ90の波に乗ってしまえればあとはGOGOになる。10の反対というさざなみを「うるせえな」で抑えつけられる。「タバコを吸っている人は、早死にすると覚悟しているのだから今すぐさま殺しても構わない」と叫んだって、90賛成していればその人の中では正義になってしまう。ツイッターのフォロワー、なんて「フォローをしてくれる人」なんだから基本味方で応援してくれて、好き放題言えがちだけど、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)でアーカイブとして残るんだぞおい、と殊勝に、弁えなくてはならないと思っている。とはいいつつ、俺がブログを書いても、2000人弱の「フォロワー」の支えをかいくぐって「計5いいね」だったりする。俺がアフィリエイトで覚せい剤売っててもバレないと思う。
posted by しきぬ ふみょへ at 23:45| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月02日

失意そしてカラオケそして失意

■斜め前の席で働いている新人の女の子から「休みの日に"お茶"しませんか?」とLINEが来た。オンナ側から休みの日にコマを埋められるなんてマジかよ、とついつい浮かれて0つ返事でOKをした。京都のカフェをめぐりたいというので、そこ知らぬふりをしながら、前の彼女が行きたがっていたが結局行けなかった『嵯峨野湯』という、銭湯をリニューアルした嵯峨嵐山駅徒歩30秒のステキカフェを、「さも私が発見しました」というていで提案した。


■嵯峨野湯で俺がカレーとサラダ、女の子は季節限定で巨峰とキウイが散りばまってチアシードが小脇のポットに携わっているパンケーキを注文した。チアシードってなんですか。ない食べ物を提供しないで欲しい。15穀米。全穀物が入ったライスカレー、カフェーサイズでガバガバ片付けられるのだけれども、パンケーキが片付くスピードに合わせてライスの岸壁を削り削り微調整した。銭湯を改装、なんてあら、いいですね、とお風呂場のタイルとか脱衣所の鏡なんかがそのまま残っていてレトロおしゃれ、が過剰に炸裂していた。ここまでは試合運びは上出来と思う。近辺の古本屋にも寄って適当に岩波文庫を買って、文化的素養のアピールも忘れない。


■妙に、「最近ハマっていることはなんですか?」「服どこで買うんですか?」「メガネいつからかけてるんですか?」とパーソナルのやつを訊かれる。もしやさては俺に興味があるのか?いけまっせか?かましまっせなのか?と全能感が漲ってきたがそうではなく、俺が話題を振られない限り一切喋らず(本当は、喋ろうと思えば無限に喋られるのだけれども、中身をうすーくうすーくクレープの皮のごとくのばしてなぜているだけで、シャバシャバで中身の無さに自分で自分にふとうんざりしてトラックに身を投げてしまうのでやらない)、場がもたないことに気を遣っての配慮だった。ディズニーショップとか、オンナのオシャレのお店とかが視界に入るとその娘が「入っていいですか?」とお伺いをしてくる。ちなみにこの娘は関根麻里に似ていてご両親に大切に育てられた善の化身です。無論従う。この"オンナに振り回されている俺"、という構図の「父性」という上っ面で塗り固めたゴケミドロを早いところキムワイプでくるんで捨ててしまわねばならない。あくまで経験を是とするならば、これ即ち幸せにはつながらない感情だ。


■夜飯食べて、酒を飲んで、2軒目どうしようかで三条の水回りを歩いていた。「カラオケ、何歌いはるんですか?」と尋ねられたので、これはカラオケに入りたいという合図、暗黙のやつと合点し、じゃあ、カラオケいこうか、と主導権をひっさげた。有事の場合も考慮し、セブンで1万円おろした。「えっ、わたしうまくないんで」も謙遜、またまたまた、と勘違いし、ジャンカラの受付が案外並んでいるところで諦めて引き返せばよかった。飲み放題で90分3,000円弱のプラン「しかありません」と、そんなわけないのに、もうそれしかないのでさっさとてめえら宜しくお願いしますというぐらいの圧力でジャンボカラオケ広場の店員がそう申してくるので、「絶対単品のプランあるだろ」ともめようとしかけて半歩足が前に出たが、関根麻里の前でバトルをやりたくないし時間ももったいなかったので飲み込む。アルコールのボトルが一本付いてきますというサービスに憂慮無く鏡月を注文、ひとりで空けた。


■謙遜ではなく真剣に歌はそこまでというかカラオケ自体好きというわけでもなかったようで(下手でもなんでも持ち前の"父性"で熱せばなんでも食べられてしまうのだけれども)、つじあやのの『風になる』しか歌ってくれなかった。しきぬさんの歌ってるところがみたいです〜、一緒に歌いたいです〜、とスピッツのチェリーを2人で唱和した。もう行ってしまってもいいやつだろもはや、やんぬるかな、よっぴいてひやうど放つ、とばかりに閃光の如く距離をにじり詰めたらその分、にじり引かれた。なるほど。


■話はがらっと変わって申し訳ないけれども、学生のときに好きだった女の人と先々週、久々に2人で半日遊んだ。まあこれまた夜カラオケに行って、その人も異性関係でへまをこきがちで、「失恋ソング縛りにしよう。しようずw」となり『サボテンの花』『木綿のハンカチーフ』『あの素晴らしい愛をもう一度』『大きな玉ねぎの下で』などが飛び交った。その人がトイレに行っている間に真島昌利の『空席』を歌った。「アイスクリームは溶けたけれど 謎はついに解けなかった」の時に部屋に戻ってこられて「アイスクリームは溶けたけれど、謎はついに解けなかったんだね」といじられた。悔しいので真島昌利の空席についてなにか文章もいつか書いて屈辱を克服しなければいけないのだけれども、置いておいて、カラオケ屋飲み放題のウーロン茶が99%のウーロンハイを己のために2杯ずつ注文し、時間が来て個室の土間土間に移った。


■その人が「なんだか甘えたい、最近甘えたくて仕方がない」などと抜かしやがり、俺を掘りごたつの隣席に招きカバンからブランケットを取り出し被せてきた。おもむろに。なんだこれ、なめてんのか。だっふんだだろこれ、と勇み、軍艦マーチ、ひらけチューリップ、すすめパイレーツとばかりに懐に潜り込もうとしたらこれまたディフェンスをされた。カーテンが閉まった。要はキッスをしようとしたらキッスはあかんぜよとのことだった。ふうむ、と髪の毛の匂いだけを散々鼻腔に刷り込ませ、カードでおごった。何故ならば髪の毛の匂いを嗅がせて頂いたからだ。


■関根麻里の話に戻ります。解散してLINEで「最後のほうなんか発言がちぐはぐだったですけども大丈夫ですか?」と届いた。渾身のにじり寄りは「ちぐはぐなおじさん」どまりで済んで(済んだと思いたくて)、酔っ払ってこの程度の体たらくで住めばよしなしごとなので、素知らぬ顔をして月曜からまた勤労をすればいい。でもずっと「俺はなんなのでしょうか??」などとぶつぶつ呟いていた気もする。怖いですね。


■京阪で淀屋橋までたどり着くと御堂筋線が終了をしており、三井住友ビルのシャッター前でしばらくビバークをした。おまわりさんにもお声をかけていただいたが、「自分の意志なんで大丈夫す、自分の意志なんで!」と表明し事なきを得た。朝まで粘ろうかと思ったが小雨も振ってきて流石に冷えてきて、あと切なくなってきて立ち上がって歩き出した。地図アプリで家を調べると南へ向かって14kmとの表示、一瞬だな、と歩を進めたが新今宮あたりで心折れ、タクシーを拾ってようやく帰った。6,000円だった。有事の際の1万円がここで役に立った。常にうまくいくな。人生は。


■ミラン・クンデラという作家が好きで、『笑いと忘却の書』では「笑い」には「天使の笑い」と「悪魔の笑い」と2種類あり、牧歌的なおもしろがはびこったら終わりだから俺はそれに立ちはだかる、と標榜していて、げに全く大賛成で格好良くて、デビル・ギャグを認められない連中の墓にクソぶっかけて終いよ、と考えているのだが(中島みゆきちゃんの「君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる」まさしの「せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師になれるよ」に通ずるものがあると思っている)、この人の作品で腑に落ちていないのは登場人物軽々しくセックスしすぎという部分。たぶんそんなにセックスはできない。そんなにセックスできないということに決まっている。日本では。外国は知らないけど。行ったことないから。セックスしても本書くのか。書く人もいるか。


■DAMチャンネルで朝井リョウの『何者』の劇場版予告編がやっていた。「就職活動に無事成功し、彼らは"何者"かになれるのか?!」とのこと。じゃかあしすぎる。就職活動をこなした果てに俺は何者かになっているか?「俺は朝井リョウ、ライバルなんだよ」と関根麻里に言ったら聞いてなかった。


■10月にコミティアがまたあるらしい。やりすぎだろ。先日頒布された『別冊ZOO』という、「動物」をテーマにインターネットのひょうきんものがこぞって寄稿した同人誌のサークルに呼ばれたくて仕方がない。動物も大好きだし、ひょうきんだから。でも数字を持っている人しかお声がかからないので、インターネット六等星の俺なんか丁稚もいいとこ、ビクトリーインターネットロードが果てしなすぎて参ってしまう。加えて昔、ZOOメンバーのひとりでスズコスケさんというインターネットひょうきんビクトリーに「いけすかないので死んでください」という旨で"凸"をしてしまい討ち死にをしたので、己でまた一縷の未来を打ち消してしまったので難しいが、まだ諦めてはいない。動物も大好きだし、ひょうきんだから。ハムスター飼ってました。
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posted by しきぬ ふみょへ at 15:59| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

関係ない話

■ゴミのような話でいささか恐縮ですが、酔っ払って人様の肉声、レスポンスを受けたくなり、連絡先の割れているガバガバの女性にLINEやSkypeを介して文言を送ることがある。送られた方はいい迷惑で、断るも断らないもなにもくそも、前提として俺に声をかけられたところで意味がない。LANの管を這いつくばる息の酒臭いジジイに運悪く絡まれただけ、振り払えば、あしらえばそれでお終い。


■だれからも反応がなくさくっと諦めた日も、あるいは跳ね返りがあるまで粘るようなパターンも、そのぶんの持久力に費やしたアルコールが進んでしまっている。翌朝こめかみを中指の第2関節でえぐる。お前には意味が無いぞ。下らないぞ。気づけよと。意味をほじくり出そうとしても意味が、味噌が出てこない。


■こういった振る舞いを、ほかの誰か、ジジイ諸君も同様にしているのであれば多少気が休まるが、ただただ俺ばかりが単独で縦横無尽にオンラインを駆け回っているのではないか。逆がない。逆のパターンがない。しきぬさん、喋りましょうよ。話聞いてくださいよ。が一切ない。「そういうものなのはそういうもの」で諦めるしかないのか。四畳半の中央に座布団を敷いて1人鎮座している。襦袢の裾からマジックアームを伸ばし往来の人間の首根っこをひっつかんで無理やり敷居の内側へ引きずり込む。もしもしと。ご機嫌はと。今日も今日とて。


■こんなもん、「構ってくれ!」「かまちょ!!」と捉えかねられない。決してそうだ。決してそうなんだよな結局。何も起こらないことへの倦み。前蹴り。


■「一体俺だけが、世の中と関係ないのであるか?」果たしてそうか?飛躍がうるさい。


■坂口安吾は「学問とは、限界の発見だ」と言った。、ウィトゲンシュタインは「世界は、私の手前でぼやける」と言った。カントの純理を読もうとしたら、ゴリゴリの筋肉翻訳で歯ごたえがありすぎて上巻で頓挫をしてしまったけれども、「思考の限界」、人間の考え得るボーダーラインを探ろうとしているらしい。ウィトゲンシュタインの「操ることば」の境界線と似ているようで、違う。勉強します。


■「私の手前で世界がぼやける」、どうしても、己とお前は関係ないのではないか?がつきまとう。吉野源三郎先生の『君たちはどう生きるか』では、あなたとあなたは社会的に関係、連環があり、そのまた別のあなたとあなたが干渉していて、ひとは1人で生きているわけではないのだ、窓に伝わるバラバラの水滴が重さで垂れるとともにくっついていって、体積を増すのと同じように。と至極まっとうを説いた。気付いていない人間が案外いる。


■気付いていない人間。そういうやつはバカだから声だけでかい。勘違いをしたまま死ぬのか?幸せかもわからないが、気の毒に。スコアは2点。ちょうど2点。


■久生十蘭『内地へよろしく』、カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』は、戦争で人が爆裂に、続々に死んでいく最中、達観なのか、"俺"と"死んでいくお前"はつまるところ、関係ないのではないか?という、第3者視点の極北から書かれていておもしろい。久生十蘭が書いた「私」の終盤唐突の突囲表演であるとか、『スローターハウス5』で人間が消えるたびに反復される「そういうものだ。」はやっぱり、どうしたって自分、おのずは「関係がない」という目線。書いている人間のエゴかもわからないが。えご。えごといえば佐渡ヶ島の郷土料理、海藻を立方体に押して固めたゼラチン、酢味噌に合う。九州の北では「おきゅうと」と言うらしい。


■ある程度かわいい女、ちょろくないか?


■ブスの女、辛くないか?応援をするべきでないか?


■戦争、結構嫌だな


■明日、働きたくない。区切りをつけて、出社する。上記、以上は関係ない。なにやらかんやら、貴方とは関係ない。
posted by しきぬ ふみょへ at 01:01| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月16日

2015年8月15日

2015年8月15日の午前11時ごろ信越線の長岡駅で待ち合わせた。駅中のへぎそば屋で冷やそばをすすった。当時のらへん、俺は「女性から可愛いと思われたい」とカエルにまつわるグッズを集めていたので、彼女が、就活先の近くにあったららぽーとか何かに入っている雑貨屋で買ったというカエルがプレスリーの恰好をして人差し指を天に突き立てているふざけたフィギュアをくれた。そば食ってる時に人にものを渡すんじゃないよ、いや会ってすぐ渡しておかないと忘れちゃうかもしれないから、ガハハ。っつって。ガハハ。っついました。

長岡駅発のバスに乗って、爺さんちの最寄りの停留所である出雲崎・良寛堂前まで1時間ぐらい。快晴。爺さんが「車で迎えに行ってやろうか」と気を遣ってくれたのだけれどもやもめの86才、家に招かれるだけでも無理を言っているのにこれ以上面倒を見てもらうわけにもいかないのでバスから降りて15分ぐらい歩く。日差しがかなりキツいだろうから帽子をかぶってきてくれ、と事前に頼んで正解だった。と当時は思っていた。15分も歩かすな女に。

着いた。孫が若い女を家に連れてきた、といきおいいさんでお茶と、良寛さまが焼印してある煎餅をずずいと出し、出雲崎の歴史、北前船、このへんは幕府直轄の天領だった、良寛さまが、日蓮上人がとやにわに講釈がはじまる。彼女はふんふん聞いていた。「出雲崎町船まつり 汐風ドリー夢カーニバル」のパンフレットをめくっている。花火があるから連れてきた。防波堤から打ち上がる。規模は大したことはないが、夜の海面に映る花火は風情があってかなりいいんです。そんなん見せたろけ、喜んでもらったろけ、と爺さんの話も半分に夜のことばかり考えていた。

夕まぐれのころに車でやってきた両親が合流した。爺さんと同じく、息子の連れてきた若い女なんかに会うなんてしゃちほこばった行事が初めてだったもので、そそくさと上がりこむと座布団もしかずに畳の上に正座した。居合わせている人間みながどうしていいものやらわからないシチュエーションで本来俺がまず仕切らねばならぬのに硬直し、彼女の紹介すら忘れていた。早い夕飯が始まり、爺さんが予約してくれていた、法事の席で食べるような仕出しのオードブル、海老のから揚げ、焼き鳥、きくらげの中華サラダなんかが入った円形の盆とおにぎりとビールを囲む。

彼女の友達が、地銀や信託関係を狙っているので何かアドバイスしてほしい、と銀行員の父親に話題を振った。父親も膝をさするばかりで当を得たアドバイスができない。彼女のコップが空いたそばからビールを注ぐ。そんなに飲ませなさんなやと母親が制す。ノンアル買ってくりゃよかった、ノンアル買ってくりゃよかった、ばかり言っていた。このあたりのテンパり方は血統だとしかいいようがない。「何か趣味はあるんですか?」に「趣味…?ラーメン屋巡り…?」と、ハッタリでもいいからもうちょっと上品な回答をしてくれ。

飯を食べ終え、2人で汐風ドリー夢カーニバルを覗きに行った。「毎年」演歌のジェロが来ている。「海雪」は歌い終わった後で、新曲「ぽろぽろ」の途中だった。ジェロのファンクラブ会員と思わしき妙齢の女性たちが多い。「jero」の「 j 」の上についている丸ポチがトレードマークのハットになっている。晩に泊まったホテルのロビーでも出くわして無意識にスッと身を隠してしまった。なんだか怖かったので。

コンサートが終わり、爺さんの家に戻りしばらく休憩する。今日のために SUPER SPORTS XEBIO でひっつかんできた投げ売りのビーサンと、阪急梅田のマザーズガーデンで買ったしろたんのレジャーシートを用意した。女が好んでいるという理由でそのキャラクターのレジャーシートを買うようなメス野郎です俺は。死んでいないだけましだ。彼女も100均で買ったビーサンを持ってきていた。

爺さんの家から海までほんの100mもなく、サンダルをつっかけた勢いで海に足首まで入った。足についた砂を流す水場が見当たらなかったので、自販機で500mlのいろはすを買って少しずつお互いの足にかけた。

「夕凪の橋」という出雲崎町観光課の方々が会議を重ねて命名したんだろう、日本海に向かって真っ直ぐ伸びるただロマンチックなだけで成立している橋があり、近くの道の駅で売っている錠前を欄干に施錠すると恋人同士一生うまいこと行き続けますよ、出雲崎町が保証致します。と具合の良いシステムになっている。そのシステムに倣った男女が結んでいった南京錠のジャラジャラを2人で眺めていたら、いよいよ花火がもうすぐ始まるんでガラの悪い連中も増えてきた。居づらくなったので防波堤まで移動し、シートを敷いて一発目が打ち上がるのを待つ。

「夜空を彩る大輪の花。豪華ヴェスビアス大スターマイン。準備はよろしいでしょうか?」遠くのテントからアナウンスが聞こえる。尺玉のスケールは、長岡花火とか有名どこと比べたら大したことはなくて、一尺玉=10号が一番でかい。真下で眺めるとそれでもだいぶ迫力がある。10号はやっぱり腹に響くね、などと愚にもつかないコメントを差し挟む。のっけから終わりまで飽きもせず、 花火大会を見届けるのは初めてだった。横でシートを広げていた家族の中の男の子が、われわれを指差して「あ、男と女じゃん!!」と言い得て妙の寸鉄を突き刺した。「未就学児ならではのあどけない目線でお惚気をくさされる」天使のユーモアのど真ん中。わたくし紆余と曲折ございましたが、このままようやっと軌道に乗って、人生ゲームで8,9,10をコンスタントに出し続け、ゴールして大団円、ぐらいの道筋を頭の中でなぞっていた。

クライマックスのナイアガラの花火は、子どもの頃と変わらず、あらかた煙幕に包まれて様子がわからない。ぽつぽつ、人が散る。爺さん家まで戻ると、タクシーを用意してくれていた。長岡駅最寄りのホテル「法華クラブ」に宿をとっている。彼女の見ていない隙を見計らい、「お前、絶対逃すなよ」のタクシー代一万円を母親から握らされた。当たり前だろ。そんなわけあるか。一族の威信を背に受け、40分ほど揺られて法華クラブにチェックインした。
俺がキャリーバッグに持参してきた、スーパーファミコン本体。彼女はいたスト2のソフトを持ってきていた。スーファミやろうぜ、と約束していた。こんなもの楽しいに決まっている。

ゲームの最中、証券取引所の妙にベースラインのはっきりしたBGMを聴きながら、酔っ払ってベッドの上でふざけてリズムに乗って体を揺らしていたら、コントローラーを持つ手から本体に衝撃が伝わってしまったのかバグって止まってしまった。謝罪。モニター横にとりあえず置いた、近くのコンビニで買った飲みさしのクリアアサヒを、空けなきゃ、と流し込んでいると、2015年8月15日の記憶が遠のいていった。
posted by しきぬ ふみょへ at 00:10| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月11日

スパワールド世界の大温泉周辺の話

このところ「スパワールド世界の大温泉」にはまっている。スパワールド世界の大温泉というのは、成金の夢が具現化されたスーパー銭湯の上位互換で、月によりけりで値段は変わるのだけれども千円ちょいで大浴場に入られて、体力あればプールもあるし、タオル貸してくれるし、追加で払えばプールサイドでも風呂あがりでも飯食えて酒飲めてゲーセンで遊べて、行ってはいないけど岩盤浴もあるし、泊まれるし、ジムもあるし髪の毛切れるし、24時間やってる。そのまま「生活」が収まっている。早く教えてくれよ。とここしばらく足繁く通っている。

サウナも何パターンかある。塩サウナは体がヒリヒリして痛い。鮭じみてくるので嫌だ。スチームサウナは「生ぬるい湿気がむんむんしてる中ですき好んでジジイと相席する奴があるかバカ」と滅入るので5分と落ち着いてられず、結局明快なただ暑いだけのサウナに入る。弱・強とある。強でなるべく粘る。備え付けのテレビで地球で唯一のスポーツジャーナリストでおなじみ二宮清純がカープ優勝の原因を分析していた。皆とっくに知っていた。カープといえば、高校時代の友人が今年の頭に病気をして死んでしまったのだけどそいつがカープファンで、随分タイミング悪いな可哀想に、と思い出した。シュールストロムっていう助っ人外人が居て、選手名鑑で顔写真の輪郭が完全に正方形だったのでそいつの家でウケてた記憶が蘇った。シュールストロム、駐米スカウトかなんかやってたけど今どうしてるんだろうか。

炭酸風呂という細かい泡が沸いている風呂があって、36度そこそこなのでそうそうのぼせない。しばらく浸かっていると微炭酸が陰毛に付着してみるみるシュワシュワになり、「俺は水草。俺はアクアリウム」とただただ何も考えず揺らめいていられる。禅宗の坊さんなんかは坐禅組むより炭酸風呂に使ってたほうがよっぽど効率よく雑念が飛んで行くので来たほうがいい。酸素風呂、水素風呂もあるんだけれども、酸素は密閉空間の洗濯槽でジジイが固まっているので割って入るのも気が引け、水素のほうは3つしかスペースがないので空きが中々回ってこない。ジジイのローテに交じりたくないのでいまだ未体験。というか、そんなにジジイが嫌ならスーパー銭湯なんかに来るんじゃないよ。


20時頃施設から出て、動物園前商店街に、目星をつけていた美味しそうなモツ鍋の店があったので行ってみたらもう終了していた。案外新世界といい西成の商店街といい、日曜だからかも知れないけど終わるのが早い。しょうがないので新世界の居酒屋に入って、ホッピーを注文したら外身の小瓶だけ渡された。

ホッピーというのは、焼酎を割る前提の、ビールの風味がついた炭酸水のようなもので、それだけ単体を渡されてもどうしようもない。大阪ってそうなの?と、「すいません、中身もください」とホールのおじさんに頼んでもピンときてなさそうな様子で、のれんをくぐってきた新規の客に「いらっしゃい!!」と声を張り上げ無理やり場面を切り替えられた。えっ?俺がおかしいのか?生まれが東の方面だから?「すいません、焼酎で割りたいので、焼酎ください」とお願いしてようやく運ばれてきた。文化圏のすれ違いか、ホールの親父がもしかすると高校生だったのか。

マカロニサラダとどて焼きとホッピー2杯で1,780円、高い。下町風情を醸し出しつつも、観光客向けの商売だから案外ふっかけてくるので気をつけてください。別にもう酒もよかったので、「女性のおっぱい、知りた〜い」と飛田の方に足が伸びた。
蒼井そらさんや、俺がかつてパワープレイをしていた桜井あゆさんなども飛田の出身らしい。「女性のおっぱい、かなりあるな〜」と区画を蛇行しながら、敷居の奥でアヒル座りしている女性のおっぱいを見るだけ。で歩く。2万円払えば20分相手をしていただける。バリバリ綺麗な女性と死ぬまでに添い遂げられもしないだろうけれども2万か〜、2万か、と踏ん切りつかず大阪で3年目のシーズンに入ったが、どこかにまた飛ばされるような発令があれば、思い出代打でお世話になるだろう。

新世界の交番でジプシーのおじいさんが土下座をして何ごとか若手の警官に立ち膝で懇願していた。おまわりさんもおじいさんも、いろいろあって大変と思う。笹野高史とかあのへんと同い年ぐらいだろうな、偏屈なジジイの役やらせるんなら笹野高史なんかより今おまわりさんに頭下げてるジプシーのおじいさんにやらせてあげてほしい。真に迫っているのは果たしてどちらかと言えば、答えは明快、なので間違ってはないと思う。
posted by しきぬ ふみょへ at 23:39| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする