2016年12月13日

朝井リョウ『何者』

何者 (新潮文庫) -
何者 (新潮文庫) -


朝井リョウの『何者』を読んだ。

大学生がたくさん出てくるのに、セックスのシーンがなかった。確かに俺にも大学生活でセックスのシーンはなかったが、他の大学生にはセックスのシーンの1つや2つあると思っていた。演劇サークルで脚本を書いている主人公、バンドをやっている主人公の友人。とその元彼女、元彼女の留学仲間、同棲相手がアパートの一室で就活対策をする。真面目にやるわけ無いと思う。セックスがないと嘘だ。小説なのだから嘘なのだけれども。

作者=朝井リョウの実経験に視座した目線で描いているのであるならば
「セックスはあって当たり前」
「当たり前なのだからいちいち描写するまでもない。読者でおのおの補うべき」

と、あぶれつちまってるろくでもない学生連中の声なんか耳を貸すまでもないのか。

作者は(インターネットで流布されている情報によると)「サラリーマンをやってみたかったから」という理由で東宝に就職せられたのだから、「就職活動」という壁にぶつかっている人間の剥がしやすい表層を問題意識として切り取り、成し得た者目線で「就活あるある早く言いたい」をやっているだけなんじゃないか。ともあれ、この『何者』を書く材料として、就職活動を一通りこなした上で「勝者」の立場から物が言えるのだから、その競争で敗者となってしまった側からの異論・反論・嘆きを全て腕(かいな)で塞ぎ込んでしまえる。


一歩引いた目線から物事を観てしまう主人公が、「馬鹿になれている」人間にどこか羨ましさを覚えつつもやはり入り込めないもどかしさ、踏み切れない煮え切れない。就活という"通過儀礼"になんらかの意味を見出そうとしても能わず、達観したような素振りだけは一丁前になった。
SNSでの「皮」と目の前に居る実際の友人連中とのギャップを鼻で笑い、「弁えている俺だけは特別なんだ」と自分に言い聞かせる。


そんな腹のうちが、カンボジアまで海外ボランティアに行き難民支援、学部やゼミを刷った名刺を配ってインターンやOB訪問に愚直に励んでいる女にバレてしまう。「ツイッターの裏アカウント」が見つかったからだ。途中途中、「この主人公のことはどうしても好きになれんな」と思いながら読んでいた。「そこで人の言葉借りちゃダメだろ」とか、「案外先輩も大したこと言ってないのに感銘を受けるなよ」など。@NANIMONO で周りを馬鹿にしまくっていたつぶやきが10ページに渡りひたすら暴露されるシーンは最初「ダサすぎる、恰好が悪すぎる」と引き笑いをしながらページをめくっていたが、「こんなにボコボコにしたるなよ」となんだか引くのが笑いに勝って切なくなってしまった。大層な問題では、ない。「鍵のかかっていない裏アカウント」で好き放題発言している事実が露呈されるというのは「夜中に外でちんちん出して楽しんでたら、まさか本当にちんちん見られて大変なことになった」というのと同じで、露出趣味でスリルを味わっていた人間がおまわりさんに見つかったというのと大差ない。


"「そうやってずっと逃げてれば?カッコ悪い自分と距離を置いた場所で、いつまでも観察者でいれば?いつまでもその痛々しいアカウント名通り【何者】かになった振りでもして、誰かのことを笑ってなよ。就活三年目になっても、四年目になっても、ずっと"


自尊心に粗塩を、しかも番手の大きいサンドペーパーで擦り付けられた主人公は、まるで憑き物でも取れたかのようになり朗らかに集団面接に挑む。いまは「自分の言葉で」しゃべられている。己が【何者】なのか、なんて思い煩わされていたのが遠い昔のようだ。受かるか落ちるか。それよりもきっと僕は「大丈夫」だろう。とのことだった。エピローグでの自己PRでも、考えがまとまっていない主人公を「ダサい」と捉えられうる書き方をしているようで、面白かった。


”プロフ欄”でスラッシュでぶつ切りに区切られた単語単語、要素要素で自分を取り繕って着飾って【何者】かになったつもりでいる連中はダサい、痛い、愚にもつかないという視点においての「下に見る」という行為。定義付けしたがりの、名前をつけたがりの、人間を何らかの枠に当てはめがちのこのご時世がくだらないのは同意なんだけれども、この小説が扱っているテーマたる「紋切り型で定義付けを強いられる現代社会」という主軸自体がせせこましく、しかしこういった時代に生まれてきてしまっていることすらの嘆きだったとしたら、平成世代の旗手たる朝井リョウ先生には更なる大上段で時代に斬りかかっていって欲しい。問題のスケールをもっともっと拡充できないものだろうか。
posted by しきぬ ふみょへ at 00:39| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月20日

正宗白鳥『何処へ』等



"忙しい人は仕事に心を奪われて時の立つを忘れ、歓楽に耽れる人も月日の無い世界に遊ぶのであるが、此頃の健次は絶えず刻々の時と戦っている。酒を飲むのも、散歩をするのも、気焔を吐くのも、或いは午睡をするのも、只持ち扱ってる時間を費すの為のみで、外に何の意味もない。そして一月二月を取り留めもなく過ごしては、後から振り返って、下らなく費した歳月の早く流るるに驚く。"


全集は出ているけれども没後間もなくして名前を取り沙汰されるようなこともなく、講談社文芸文庫の『白鳥評論』『白鳥随筆』ぐらいしか新刊で置いていなくて、そもそも文芸文庫が街に繰り出さないと手に入らず値も張るから中々文章が読める機会を作るのに気合がいる。


50年以上に及んだ文筆生活で『何処へ』を発表したのが明治41年白鳥当時29歳、主人公の健次は中学校教師を辞し雑誌記者で愚にもつかない、心にもない社会論評で糊口をしのいでいる実家住まいの27歳。


何も起こらない。「起こりそう」までも行かないし、教訓めいたことも言わない。人生所詮こんなものという割り切りでもない。苛烈に生きたいが生きられない。知っているから。酒を飲めば酔う、放蕩すれば後悔する、その辺に綺麗な女なんかいない。こうなってくるともう阿片か戦争しかない。


阿片か戦争か、バーニング、スピード、あるいは水谷修ぐらい恥を知らずに夜道をほっつき回れたら、と、洒落ではなく真剣に考えることがある。近頃お酒の量も減ってきているのだけれどもそれは、「腹の立つ出来事があって酒を飲んで酔っ払って楽しい気分になり忘れる」までワンセットとして扱われ、そこに肉体も精神もすっかり組み込まれてしまっていることがもどかしく、翌朝しんどいしお金を払わないとお酒は買われないし、このパッケージに費す何某を既に「知ってる」から飽きてしまってきている。警察に捕まるのがいやなのでやりませんが、迷惑をかける身内も居なくなって無事年金生活に突入せられたら、ラスタまるだし、カンナビスまるだしのTシャツを着て煙を吐き出しながら富良野かどこかで土をいじって5年ぐらい余生をやろうかとも存外まじめに視野に入れている。


「世界はこのままでいいんじゃないか」と白鳥は死の年の講演で述べたらしい。クリスチャンでありながら神の存在を疑い、心酔した内村鑑三とも決別し、どこまでも「世界はこのままでいいのか?」と考え続けた人間が、奥さんに先立たれ肉親は去り、安らかな死に顔を見届け、「つまるところ、信じる者は救われる」のだという境地に至るまでにどれほどの月日と精神を削ったか。


死の床で神父の手を握りながら「アーメン」と唱えた。散文主義、シニシズムの権化とも言われた白鳥が「ああ、老いとともに結局信心に着地してしまったのだな」と叩かれたのは、藤村、泡鳴、花袋といった赤裸々告白文学と一線を保ち続けていたのに土壇場で信心を吐露してしまったからだ。白鳥も老いるのだと。


"いっそのこと、四方から自分を憎んで攻めて来れば、少しは張り合いが出来て面白いが、撫でられて甜められて、そして生命のない生涯それが何になろう。「迫害される者は幸いなり」。ていう此奴は当たってる言葉だ。苦しめられようと泣かされようと、傷を受けて倒れようと、生命に満ちた生涯。自分はそれが欲しいのだ。
健次は立ち上がるのも物憂そうに、こう考えてる中に、酒が醒めて夜風が冷たくなった。彼れは主義に酔えず読書に酔えず、酒に酔えず、女に酔えず、己れの才智にも酔えぬ身を、独りで哀れに感じた。自分で自分の身が不憫になって睫毛に一点の涙を湛えた。"


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『身の程なんて一生知るな』というナイキのキャッチコピーがあるけれども、俺は身の程というものを判り尽くして、弁えて、輪郭をキッチリさせておいてから"あえて"それを破る(あるいは拡げる)ことの方に価値があると考えている。自分のことを把握していない人間にことが成し遂げられるとは思えず、馬鹿には出来ないことをしでかさなければ人生ではない。
なんで俺はナイキのキャッチコピーにいちいち文句をつけているのだろうか?これがジジイになるということなのか?


怒りもしないとやることもない。「迫害される者は幸いなり」はキリストの言葉だ。しかしこれは頭に「義のために」という枕がある。わめきながら、義なのか自利なのか境目がわからない時がある。

最近は「のぶみ」という絵本作家の『ママがおばけになっちゃった』が叩かれている。母親が交通事故で死ぬという描写が幼児にトラウマを植え付けかねないと。死を軽々しく扱うなと。俺はのぶみという人は、このツイートを読んだ時に「死んでしまっており、この世には居ない人なのだ」と決めてしまったので、当件で裏付けが取れて溜飲が下がった。死んでいるから生命観が希薄なのは当然のことだ。この世から「羊の皮を被った」悪は消え去る運命にあるのだ、という近頃の考えが確信に変わりつつあり、とするといち中肉中背たる自分が声を荒らげる理由も見つからず、このまま四畳半で畳の染みになるまでどろどろに溶けるのを待たねばならぬのか、という茫とした恐怖を感じている。
posted by しきぬ ふみょへ at 11:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月09日

梅崎春生『幻化』




九州に向かう飛行機の中で偶然知り合った映画会社の営業の丹尾(にお)という男と、阿蘇山で賭けをする。「丹尾が火口を一周して元の場所へ帰ってくるかどうか」つまり、飛び込まずに無事に戻ってきたら貴方の勝ちですよ。と。ハサミで万札を真っ二つに断って、半分をしまった。2つに繋ぎ合わせなければもう使い物にならない。
主人公は精神病院を脱走している。戦争が終わってから、「自分が自分でないような感覚」に苛まれるようになった。「悲哀」に心は動くのに、「笑い」には一切鈍くなった。夜中に玄関のブザーが鳴って、ドアを開けても誰もいない。壁にはアリが這っている。それを医者に説明することをしたくない。そんなことを言うやつはまともではない、という認識はまだ残っている。


ほうぼうを回る。戦時中に奄美出身の兵長が酔っ払って調子こいて、海に関してはマジで自信があるから泳ごうぜ、とざぶざぶ入っていって心臓麻痺で死んだ岬。その時は気づかなかったけれども、彼は自殺するつもりじゃなかったのか?暗号兵(作者の梅崎春生も枕崎で従軍していたこともある)という立場、戦局の実況がいちいち聞こえてくる。彼の一家のある辺りが焼き払われたとか、守りがどんどん手薄になる様子も一番最初に知る。明確に自死の意思があったかどうかは定かでないが、死ぬギリギリの縁まで行ってみようかな、と覗きに行って、踏み外して死んだのかもしれない。


砂浜で貧血を起こし、木陰でしばらく眠る。精神病院で入院していた時に同室だった「チンドン屋を見ると"頭がばかになってしまう"」おじいさんがいて、同室の連中で共謀してチンドン屋のマネをしたらおじいさんどんなになるだろう、とスレスレのギャグをやった。そのことをふと思い出し、砂浜でひとりチンドン屋をやった。つい面白くなってきた。誰も見ていないと思った。そうしていたら、浜辺で魚をすくっている少年に視線をくれられているのに気がついた。"おじさんは気違いじゃないんだ。安心しなさい。"


少年の父親はタクシー運転手をやっていた。無下にもできず、馴染みの按摩が働いている旅館まで連れて行かれ、泊まっていきな、ということになった。按摩を呼んだ。老人が来た。もごもご背中を押しこくられていたら、ずしっと圧がかかった。さては、と様子をうかがうと背中に両足で乗られていた。は?なんでじいさんによりじいさんの足で踏まれなくちゃならないんだ?元を正せば少年と仲良くなったのも、魚獲りとチンドン屋が一瞬交錯してその場でバイバイ、が綺麗だったんじゃないのか。大人に余計なおせっかいをするな。なめんなよ。腹が立ってきた。"不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着替えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。「おれは憐れまれたくないんだ」怒りのあまり、布団の襟にかみつきながら思った。「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」"


死ぬことと生きていることの境界線は一歩跨げば超えられてしまう。誰かに引っ張ってもらわないとぐらっと崩れてしまうこともある。兵長も無理やりあの時咎めていたら生き永らえていたかもしれないが、「そうやって死ぬこともあるだろう人間なんて」とつい他人事のようになり、見過ごしてしまった。


映画会社の営業は事故で妻子をなくしてから、常にポケットにスキットルを忍ばせて酒びたりになった。彼も「自分が自分でなくなってしまった」人間だった。自殺の賭けをしましょうよ、一周して戻ってきたらお金あげます。主人公は観光地用の望遠鏡に小銭を入れて様子を追いかけた。「あいつは俺なのか?俺はあいつか?」と境目がぼやけて、ふらふら火口に吸い寄せられそうになる男に視線を注力してしまう。


"しっかり歩け!元気出して歩け!"もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなっていくようだ。そしてふらふらと歩き出す―"


梅崎春生は『幻化』の前編を発表した一ヶ月後に肝硬変で死んだ(後編は死後に発表された)。「しっかり歩け!元気出して歩け!」と彼方の自分の肩を揺さぶった。人間の命を係累しておく何か、へ意識が傾き、探りだしたら瀬戸際と思う。どこまで行ったら自分は死ぬのか?とおぼろげの中を歩いていってがくんと道を踏み外してぽっくり逝ってしまうこともある。肝臓が固まったのも酒のやり過ぎが原因だった。ここからは過度でここまではセーフだ、という線の上を歩いているとふと、死んでしまう。作者自身、鹿児島県坊津基地で特攻隊を見届けていた側だったから、なんで俺は生きていて、彼らは死んでいくのだろう、というラインが茫としてしまった。『幻化』という表題がそのものずばりと思う。では、何処へ?という。
posted by しきぬ ふみょへ at 11:50| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月03日

尾崎翠『第七官界彷徨』



「点描ということは吾々散文作家が、今までの自然主義時代の一から十までくどくど説明するというような手法ですが、ああいうものに吾々は飽き飽きしたのです。…(中略)…とにかく自然主義的な、ものの考え方とか手法、あれで日本の文学というものが非常に腐ったと思います。平板です。もうすこし新鮮な立体的な文章を欲しいのです。」
「心境文学、触覚文学というものを書きたい」


昔、一度目に読んだときはなんだかもやめいて筋があるようでないようで、何が書かれているのだかむず痒い感覚しかわかず、さてどうしようかと、評判だけで入ってしまい尾崎翠の「第七官」を理解しようとする端緒を引っ張り寄せられる感受性もはなから持ち合わせていなかった。というか、未だにわからないのだけれども、群ようこの『尾崎翠』で引用されている座談会での上記の発言を読んだら、ようやく「第七官界彷徨」の糸口を手繰り寄せられるのかもしれない気がどことなく沸いてきた。


「夢はつまり、思い出の後先」とサングラスをかけて大麻をやっていたおじさんが歌っていたが、鋭敏に、鮮烈に心のひだにトゲが刺さった出来事を膨らませて形にする。「第七官」「恋愛」「慕情」の中に潜まった「もやもや」は万人がそれを受け止めきれる感性を持ち合わせているわけではない。もやもや病で徳永英明は苦しんだ。もう「もやもや病で一時期お休みをもらっていた」、って一生ネタの十字架を背負っていくのは気の毒だ。あと、お金を持っているのだから歯を直した方がいい。


俺みたいな者が死ぬるまでわからない核、コアの部分があって、それを主軸に扱われたら如何ともし難いと諦めていたのだけれども、「心境文学、触覚文学を書きたい」にハッとした。この人は、「指紋で触れて心の中で感ずられた」出来事を理屈を超越して成形しようとしていたんじゃないか。尾崎翠が主人公=小野町子の分身として、精神科医の長男、苔の研究をしている次男とそれぞれの兄弟および、音大浪人中の従兄弟と4人暮らしで進むんだけれども、「心境」を表す上で、@精神科医の常にサイエンティフィックに理詰め理詰めで、あまり感情を表沙汰にしない長男、A「苔」、「蘚」のうずうずというかもぞもぞというか、肥やしを鍋で煮やしてバイオ、ナマモノ的に有機的に女の心情を解きほぐす次男、B音大志望でとにかく理屈はのけといて肉体的にアプローチをかけてくる、エネルゲンを活力源にする従兄弟、という三者三様との生活。というか、三人共血縁関係なのに「肉薄」が薄紙一枚なので、恋愛感情を近親に抱いてしまうインモラルは一旦外に捨て置くべきと思う。なんだかそういったものさえくだらなく感じる。


おもしろいのが、尾崎翠は「まるで設計図を引くかのように」この話を書いたとのことで、絵コンテを別に用意し、登場人物の配置や舞台設定とかインテリアを前もって緻密に設定していたらしい。「心境文学」を標榜するうえにおいてさえ、心のうちを書きなぐるのではなく、あくまで、自分の中では説得力を持たせたうえで言い訳しない。あまり世間を喜ばせようというサービス精神があったわけでなく(同時代の林芙美子が意気揚々と「放浪記」を発表するのを傍目に眺めながら、かえって内々へと向かっていった)、あくまで己が納得することが最前提の文章を書いた。つまり、尾崎翠の体内に流れる「第七官」に輪郭を与えたゼラチン質、じゅん菜。


蘚苔の研究をしている次男の部屋に茹でたかち栗を運ぶ場面の文章

"うで栗の中身がすこしばかり二助の歯からこぼれ、そしてノートの上に散ったのである。私は思わず頸(くび)をのばしてノートの上をみつめた。そして私は知った。蘚の花粉とうで栗の粉とは、これはまったく同じ色をしている!そして形さえもおんなじだ!そして私は、一つの漠然とした。偉(おお)きい知識をえたような気もちであった。ー私のさがしている私の詩の境地は、このような、こまかい粉の世界でなかったのか。"


フォーカスの絞り値を上げて限りまで寄って寄った「栗の破片」と「蘚のなごり」に共通点を見出す。「こまかい粉の世界」、吹けば跳ぶような、とは、「村田だ。ガムくれ。」でおなじみの村田英雄も歌っていた。ページをめくった風圧でいなくなってしまうようなトンボの羽の網目をなぞるような書き方だ。結局尾崎翠は「わからない」ままであって欲しいし、誰かが「わかる!」と言い出したのなら、特に野郎であるならば懐疑的、舐めんなよ、と頬を平手打ちしてしまうと思う。尾崎翠は有声映画=トーキーが気に召さず、「こっちのの想像で補うから邪魔するな」と張り倒す。どこまでも心境が張り詰めすぎて、頭痛薬中毒になり文壇から姿を消してしまった。もったいないけれども、ここまでの繊細をやり続けることもそうそう出来ないと思う。押し入れには衝動買いしたフルーツバスケット全巻が3年近く眠っている。いい加減に読まないと、Lカゼイシロタ株を体に入れ続けないとすぐ腸に毒が貯まるので、「第七官」の要素もどんどん取り入れ、ゼッタイキレイになってやると思いました。
posted by しきぬ ふみょへ at 21:57| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月03日

中島らも『今夜、すべてのバーで』



昔、インターネットの女の人に「なんかおすすめの本ありますか?」と訊かれた。コイツといえばこれぐらいしか話題も持ってねえだろうから社交辞令で餌をばら撒いておいたら勝手にパクパクやってるだろう、とうらぶれた観光地にいる群れたきったねー鯉のような扱いです。その女の人は恋愛をやっていて、「あなたには絶対行かない、あなただけには絶対行かないから勘違いだけはしないでほしい」と念入りにバリケードを張られたうえで日々のやり場のない思いを一方的にぶつけられていた。別に俺じゃなくても誰であってもよくて、いちサンドバッグとしていつでもぶん殴れる存在で都合がいいだけだったのは百も承知だったが、女の人の肉の声が聞ける機会もそうそうなかったのでしばしばお話に付き合っていた。

中島らもの『恋は底ぢから』が良いですよ、と返した。恋愛をやっている女の人に勧められうる本、という属性の作品をほぼ通っていなかったからぬか床に肩まで突っ込んでかき回してかき回して、やっとこさ手に触れた一冊だった。バシャバシャ水面をのたうち、この作品がいかにしてステキか、と胸びれをボロボロにしながら伝えんとしたと思う。甲斐がむなしい。一生読みもしないだろう。今その人は無事に恋愛をやりつづけそろそろ2年になる。応援しとりますよ。

中島らもを初めて認識したのは爆笑問題が日テレで夜中に眞鍋かをりとやっていた「爆笑問題のススメ」だったと思う。あんまり話もかみ合っていなかった。もごもごと口の中で、のどちんこが喉で詰まっているようで何言ってるかわからなかった。
「いいんだぜ」歌っていた。ああ、こういうんでもいいのか。ぐらいだった。「俺も許されていいんだ!」みたいな感慨はなく、☓☓☓でも☓☓☓でもないな。危ねー。ぐらいだった。

大学に入ってから、BOOKOFFぐらいしか行く場所がなかったのでよく105円のコーナーで赤茶けた中島らもの本を読むようになった。エッセイは読みやすかったけれども使い回しばかりだった。いいのか?いいのか。

小説『今夜、すべてのバーで』はアル中の闘病記で中島らも自身の体験に即して書かれている。「何かを埋めるために、酒を飲む」をするようになったら、危険信号だという。飲み会だ付き合いだと、酒がついてまわるような場所で入ってしまうアルコールと、「やることねーので酒でも飲みますか」の、ただ粘膜を蝕んで時間を吹っ飛ばすだけのアルコールは違う。主人公は仕事を辞めてから物書きとして独立して、タイムカードを切らなくなってから四六時中真っ昼間でも飲むようになり、書けもしないミステリーの原稿を頼まれ、焦燥にガソリンをぶっかけるが如く飲みまくりぶっ倒れて入院した。

眠られないから、とか、アイデアを捻出しなければならない、とか、手段としてのアルコールというのは危ない。気付けとして、万能薬として、エリクサーとして酒に手が出るようになる恐ろしさ。
俺もけっこう、飲む。というよりかは飲んでしまう。誰が読んでいるのだかわからないようなブログだけども、何か思いつかねーかな、と飲みながら書いてたら存外へべになってしまい、朝目覚めたら星野源がドラマで新垣結衣の相手役を務めることになったニュースに対するそねみ・そねみ・そねみが延々続いていて、 まったく記憶になくてゾッとしてしまい必死に火にくべた。「兇行」なんて、戦中の新聞か?というぐらい物騒で油っこくていかつい表現で塗り固めていたのでよく燃えた。

破滅していく自分をどうしても客観的に見てしまうのは中島らもの性分で、「知・プライド・ロマン」の壁に最後の最後のブラックアウトまで寄りかかっている。どこまでも第三者だから、真っ白いうんこがぷかぷか浮いていたとか、小便がコカコーラの色味だったとか、深刻な病状、肝臓が終わっていく過程もドライに書いている。

霊安室に隠れて消毒用アルコールを薄めて飲んでいる同類から「飲みたいんだろ?」と盃を向けられても、 あさましいな、こいつ。一緒にせんといてくれ。と、きっぱりとではないが有耶無耶にして拒否する。とかなんとかやりつつ、なんとはなしにふらっと病院を抜けて、商店街のそば屋でビールと日本酒を注文してしまう。しかも、「無意識に」「流れでふと、つい」とくだらない理由で。滑稽ではあるけれど、彼を笑ってやることは決して救いにはならない。でも、酒を飲んでしまうサイドの自分としては、心情がわかってしまう。飲まない人も各々の依存しがちなものに置き換えて読めばわかると思う。

個人事務所で雇っている、旧友の妹だけが容赦なく叱る。その女性のおかげで最終的には立ち直ったていで物語は終わるが、自分の意識、人生を矯正するために往復ビンタしてくれるような女性なんかそうそう都合よく存在しない。これはフィクションです。

この作品のラストは、退院した病院の正面にあるバーでミルクを飲みながら、その女性にステキな台詞を吐き、どつかれてイスから転げ落ちて終わる。その場だけに立ち会ったのであれば、つまり「フィクション」ではなく実際にその現場に立ち会ったとしたら「ちゃん、ちゃん」「トホホ」「お酒なんかもう、コリゴリでやんす〜!」だが、これは「お話」なのでスローモーションで頭を打つ直前、歯の抜けるぐらいに気取ってキザな独白が挿し挟まる。久々に読み返したが、ここは妙に鮮明に覚えていた。

らも、モテたんだろうな。カウンターに座ってた時の横顔格好良くて、博識だしウケるし。"今夜、紫煙にけむるすべてのバーで。"か。今からタバコ始めようかな。
posted by しきぬ ふみょへ at 20:40| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月23日

萩本欽一『欽ちゃんの、ボクはボケない大学生。』



5/27の記事で、「タレントの萩本欽一さんのことを、今後は"欽一"と呼んでいきませんか」と書いた。自分より目上の存在がこの世に残っていない、登り詰めてしまった、仕上がりきってしまった人間をあえて下の名前で呼び捨てにすることが面白いし本人のためにもなるだろう。なぜならば「老い」を食い止める手段は「刺激」しかないから。このまま欽ちゃんとして終わるのではなく、ここでぐるっと元に戻って「欽一」になればまたはじめからやり直せる。強くてニューゲーム、というシステムを現実生活に取り入れるようなものだ。大仁田厚も高校入り直したじゃないですか昔。あんなのも楽しくて仕方がないだろうな。だってまだまだバリバリ現役で体力有り余ってて経験積んでる状態で高校生活できるんだから。政治家になってからだってマンションにキャバ嬢とかAV女優呼んでガハハをしていたらしいから、この当時なんか絶対もっとヒドいことやってるって。絶対もっとヒドいことやってるって絶対。絶対もっとヒドいことやってますよ。


欽一は2015年春、73歳で駒沢大学仏教学部に合格した。事務所の後輩、お笑いコンビキャイ〜ンのひろゆきから筆箱を貰った。入学式の学長の話、ブラスバンドの演奏、校歌斉唱をじっと黙って聞く欽一。コメディアンとして舞台に立ち続けていた側だったのに客の立場で座っていることがどうも慣れず、小声でツッコミを入れたら周りがクスクス笑った。嬉しかった。いいぞ欽一。でもうるさいぞ欽一。


『女の子たちに誘われて、初めて学食に行ったよ』という章があった。誰にも会いたくなくて絶対に学食を利用せずにちょっと離れた流行ってなくてうまくないラーメン屋で学割ラーメン500円ばっかり食ってた俺とえらい違いだ。店長が携帯をかまっている中、手の甲に五芒星のタトゥーが入った中国人女性のバイトが湯切りしていた。大学時代なんか何も思い出すことなんかない。畜生、欽一がよ。


介護士になりたい、という女の子の話を聞いて"最高の仕事だね。センセーイって小さな子供たちが笑顔で寄ってくるような顔を君はしている。きっと誰かのお世話をする仕事はぴったりだよ"と返すと、介護士になりたいという夢を肯定してくれる大人は今まであったことがなかった、と女の子がポロポロ泣きはじめた。確かに今の御時世夢を語れば否定され是正され、もっとこうしろ、儲けろ、あるいは安定を、と捻じ曲げられてまっすぐ歩くのがやたらに難しくなっている。


いや、違う。そんないい話とか教訓を聞きたいんじゃないんだよ欽一。やっぱり"教え"とか"萩本欽一かく語りき"の方向に話が進んで、いちおじいちゃんが大学生活を送っているだけで面白いのに、やっぱり何かを伝えよう、世に残そうという姿勢でいるので、下積み時代やバラエティ黎明期のエピソードが「キャンパスライフをエンジョイする欽一の面白さ」を食ってしまっており、そこが残念だった。残念というか、欽一の哲学の中にはもちろん自分と結びつくものもあって、こうして刺激をあえて浴びに行って日常を飽きないようにするという姿勢は共感するし、逆に欽一よ、そこは違うんじゃないかというのもある。「負けると分かっている勝負はするな」と標榜しているけれど、そうは行っても凡人には負けに行かなきゃならない日だってある。どのように負けたか、というあたりなんとか落とし前をつけたい。勝ち続けることは不可能です。


「欽ちゃんファミリー」は、欽一視点で芸事への対応力が「0点」と評された人々を称する言葉らしい。勤は何やってるんだかお客さんに全然伝わってなかったし、一機は上がり症で震えていた。見栄張は(見栄張は見栄張としか呼べないのでつまらない)物事を知らなすぎた。だけれどもそれぞれに適切なアドバイスを与えて世にでるきっかけを作った。弱点を強みと思いなさい、目線をずらせと。言っていることは正しい。正しいけど、そんな話が聞きたいんじゃない。『帰りに転んで頭を打っちゃった』の章が一番笑った。あと、勝てる勝負しかしたくないので、自信のないドイツ語のテストは受けませんでした、っていうエピソードも、悠々自適に自分のペースで大学通える身分なんて、こちらからしたらうらやましいし本人もそれを自覚しているけれども、欽一言うところの目線をずらせば「ド老害」と称することも出来てしまう。


やっぱり「笑わせ」たい人で「笑われ」たくはないんだな、と思った。笑われるのを芸とはしていない。18歳からストリップ劇場の前座に上がり、根っからのショーマンシップがあって、自分の書いた節通りに運んでウケたいと。素人ならではのハプニングをテレビに取り入れたのは欽一とされているけれど、あくまで「ハプニングが起こること」も織り込み済みじゃないと気がすまない。だから自分が大学生である事実そのものをギャグと捉える俯瞰は難しい。そんなことまで裏切ってギャグとして駒大通ってたら超人も超人ですよ。超人であって欲しいけれども。金曜日にコマを入れているらしい。今年もそうなのかな?誰か玉川キャンパス行きません?マジで。
posted by しきぬ ふみょへ at 10:07| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月03日

坂口安吾『堕落論』




NHKの『100分de名著』で取り扱う7月度のテーマが坂口安吾の堕落論らしく観たいな、となったのに、独身寮のタコ部屋はなぜかNHK教育の電波が入らない。だから定時で終われてダッシュで家についても天才てれびくんが映らないから、最新のチャイドル情報を入手することが出来ない。チャイドルってとっくに言わなくなりましたね。誰が言ってたんでしょうか。吉野紗香さんのTwitterを見てみたら、ショートカットになっててうっかり出馬して落選してから姿一切見なくなったふうの外見になっておりショックでした。岡部まりさんは元気にしているでしょうか。岡部まりさん、探偵ナイトスクープの秘書やってた時の、けっこうな年を召されているのに若干下世話な依頼ハガキを少し照れながら読み上げるみたいなくだりが妙に嫌でした。しかもあれだけ芸人が揃った現場で誰も「いやまあまあのババアやないかい」と茶々入れてないのも不自然だった。ジャイアントスイングしろ石田靖。


お国のために死ぬのが美徳でブシドー、ヤマトダマシイだったはずなのに、いざ爆弾が落ちてきたら、いや生きたいわ!となり、結局残った人間も、帰ってきた兵隊も闇市で酒飲んでるし、夫が帰ってこなかった女ももう誰かとセックスをしている。六十、七十の将軍たちも責任とってハラキリなんかしていない。東条英機に至っては自決をミスっている。でも、「そういうもの」だから、お前らとっとと気づけ。という。武士道、マルクス主義、門閥、貞操、全部爆弾で焼き払われてしまう、あってないようなものにしがみつくな。自分の頭で考えて、自分の頭で武士道を思いつきなさい。しがみつくことを止める、崖から落ちろ、それが「堕落」だ。


だいたい坂口安吾はまず、キレる。ふすまをバーン!!と蹴って部屋にいきなり入ってきて包丁を畳に刺してから喋り始める。爆裂お父さんだ(もう2回ジャイアントスイングする人出てきた)。そして、俯いて真面目にギャグを言う。笑っていいのだか悪いのだかわからないすれすれの温度だから、今もう完全に死んでいて、残った文章を読んでいる立場だから安全なだけで、目の前で吹き出したらぶった斬られている。常時怒り状態、覇王丸、大斬り。ヨンチャンペ斬りです。


六十歳よりも二十歳の女がいい、と。なぜなら若くて可愛いから。だけれども、老いて死んでしまうから惹かれる。ハイロウズの『不死身の花』で、「愛されないのは枯れないから」とありましたが、絶対老けないババアは単なるホラーで、美しくもなんともないんです。堕落の例としてこういう下世話やあけっぴろげに女の話をするのも、笑かそうとしてるんじゃないか。


爆撃を食らったばかりの罹災者の行列の中で、十五、六、七、八の女だけが、ギャルだけが何が楽しいんだかゲラゲラ笑っていた。あの娘らは不安とか無いのか?"私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみだった"と。ここでまた、安吾の「女は意味がわからない」が出てくる。こういうところから『夜長姫と耳男』とか『桜の森の満開の下』に出てくる狂った血みどろの女に繋がってくると思う。そして、爆撃前に電灯が一切消えた街を歩いてる時、"私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。"非常事態にふらふらほっつき回っている最中は何も考えないでよかった。常に考え、うなされている状態からようやく開放された。その一瞬だけ。ギャルだった。


『続堕落論』に進むと、今度は農村社会と天皇に額づく連中をなで斬りに攻撃する。まずムラ社会は、せこい。なんやかんや上から制度を押し付けられても、どうせわかりゃしないだろう、って誤魔化すし、排他的だしそのくせ農民精神などというものを掲げ、田植機で往復すれば済むところを腰をひん曲げて一本一本稲を植えなきゃいけないと爺さんが言う。耐えてるばかり、ノスタルジーに縛られてるばかりでお前ら一歩も進んでないだろうがと。「しきぬ ふみょへさんは坂口安吾が好きなくせにムラ社会的な考え方にハマってますね」と批判された。もうずっとムカついてるのでまた言う。でも仰るとおりで、例えば労働中、全部とっととLEDに総取り換えしてしまえよ、とハシゴ担いで蛍光灯の交換してる度に心で毒づいているところもあるが、ちょっと頑張ってる姿見せれてお礼言われたりするから嬉しいしそれもそれという。せこいですね。つるセコです。


"たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!" 戦争辞めたくて仕方なかったくせに悔しそうにふるまいやがってふざけんなよと。それにしても「嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!」はすごい。これは推測でしかないけれども、闇市のカストリ、三級酒、Z級の何かをかっくらった勢いで書いてるんじゃないか。いくら無頼と行ったって、時の日の本そのものに真っ向から正気でタックルできるか。アルコール無しで。


と、こう実理にかなっていないもの、ウソをついているもの、あるいはウソをついている己に気が付かないふりをしているせせこましい連中を片っ端から乱取りしていった。『堕落論』の4年前に書かれた『日本文化私観』という文章があります。ブルーノ・タウトというドイツの大学教授が日本文化、桂離宮、伊勢神宮について「外」から見た印象を眼識した『日本文化私観』という本にぶつけた、というか題目完コピでぶつけにいった文章です。冒頭で、"タウトによれば日本における最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生まれ"と安吾が書いている。4才まで新潟市内でそこから移って18まで新潟県上越市で過ごした自分としては、日本における最も俗悪な都市、と外国人に評され、思うところがある。時代は移ろったと言えど、反論は全く無い。あそこが最も俗悪であるならば日本中どこ行っても素敵で優雅だろ。ちょっと何か田んぼの間にでかい建物の工事が始まったら間違いなくパチンコ屋です。昔に日テレのスーパーテレビというドキュメント番組で、日本有数のパチンコ激戦区、と地元が特集されていた。悲しかった。ただマジで娯楽がないので、じいさんばあさんや地元に残った連中にとっては「必要」です。


タウトが日本を"発見"する前に俺は日本人なのだから、神社仏閣や枯山水が美しいかどうかはさておき今現状、不勉強ながら、日本の風景のどこにグッと来るかを考え始める。実理にかなっていないものは、安吾の基準から外されてしまう。着物だって日本人よりタッパのある外人が着たほうが似合うだろうがと。日本人はただ洋服に出会うのが遅かっただけ。京都に引っ越して、祇園の舞妓さんもうるせえばかりで何とも感じない、何とも感じなかったが、その格好の連中がダンスホールで踊っているのを見たら、洋服と比較されて場を圧倒していた。こっちのほうが良かった。


週末に通っていたなんば千日前のジュンク堂がこの3月につぶれた。その空きビルにドン・キホーテが入るらしい。店舗の周りがかなりめまいのする環境で、まずなんばグランド花月のど真ん前にある。茂造じいさん、すち子の着ぐるみと記念撮影をしている観光客、わなか、天竜ラーメン、似顔絵屋、ワッハ上方の若手ライブに出待ちしてる結構どころかメチャクチャ可愛い女の子たちの固まり、とか一切のうるさいガチャガチャしたところからシャットアウトされているので、なんでしょっちゅうあそこに通っていたかと言えば逃げ込まないと死んでしまうから。


よりによってドンキかい、ジュンク堂跡地にドンキかい。「ボリューム満点」で「激安」の「ジャングル」!?。もういいだろ。というか宗右衛門町にもあるだろうがよ。しかしながら必要性という面で言えば大陸からやってきた人らが電化製品だの薬だのガラガラ引きながら買っていくのだろうし、行ったら妙にハリボー買ってしまうので本読む代わりにハリボー食って帰りたくなるかもしれないが、一抹に寂しい。要るのはドン・キホーテで要らないのはジュンク堂ということになってしまった。ますます行くところがない。


小菅刑務所やドライアイス工場など、余計な飾りっけを一切省いた、「必要性」だけで構築されている建築物を安吾は美しいと言う。必要がなければ法隆寺も駐車場にしろと。ウソや瞞着を許せない、許せなさすぎた。小林秀雄にも「武器を取れ」と胸ぐらをつかみに行ったし、宮本武蔵にまで「死ぬまで戦場に立てよ」と噛み付いた。そして自身は酒とクスリのやり過ぎで死んでしまった。東京に降り注いだ爆弾はかいくぐったのに、よもや己が爆発して死んだ。


ごまかさないで生きろと。俺はこれを信じているので大丈夫だ、を見つけろ、それは「堕落」と言いながら厳しすぎる道だ。志村けんのだいじょうぶだぁ の志村けんは優香を失い、だいじょうぶでは無くなってしまった。100分de名著の堕落論の回、朗読は志村から優香を奪った青木崇高です。ひどい。今フジの深夜でやっているコント番組は「志村の時間」らしい。志村の時間。もうあまり長くない。そして我々の時間も。みんなでピンクフロイドのタイム聴きましょう。こんなことをしている場合じゃなくて生きねば……
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2016年06月08日

国木田独歩『武蔵野』の感想



この武蔵野という話は今でいう井の頭線沿い、埼京線の渋谷から北、あと多摩川に近い青梅とか立川、つまり東京のはずれらへんから埼玉の南あたりまでの原風景を本当にただひたすら文章のうまい兄ちゃんが詩的に、精緻に淡々と、笑うところもなくつらつら書き連ねている。ただ淀みなく、風景描写に終始しているだけの話が130年読まれるものだろうか。埼京線沿いなんか2016年現在日本で一番汚いのに。池袋以北は心を持っている人間は住んではいけない。


独歩は冒頭"武蔵野の美今も昔に劣らずの一言である。(中略)自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美と言った、美といわんよりむしろ詩趣といいたい、その方が適切と思われる。"という。
ここまではっきりと武蔵野は美しいんじゃい!!とテーブルを叩いて始まる歯切れのよさもさることながら、
「美といわんよりむしろ詩趣といいたい」
詩の趣、ただ美しいと圧倒されるだけならば値する景勝は日本にたくさんあるけれども、詩として表現したい、俺が感じ取ったやつ、おのれが今目の当たりにしている武蔵野の光景は「形」として表現されるべきである、だからこれは書かれなくてはならない作品だ、という説得力を持った、すごく清々しくて気持ちがいい入りだと思う。


だから、独歩が切り取った詩としての武蔵野に興奮出来るかどうか、これは想像力、感受性の勝負になる。この辺に一瞬でも住んだことがあればむしろイメージの障害になるかもしれない。だって今と違うから。東京に住んでたことはあるけれども、朝方太陽が昇ってきたころの風景に「美しい…」と実際に感じたことはない。始発出るぐらいに路上でおじさんが寝ているのを「嫌ですね〜〜」と大股で跨いだことはある。思いや情感を馳せられなかったとしてもじゃあつまらない、わからないって切り捨てていいものかっていうとそんなことはもちろんなく、この作品を楽しむ余地は十分ある。独歩はこの短編の中で「武蔵野」という土地の「選択肢の豊富さ」を何度か語っている。


独歩は生まれは千葉県の銚子、5歳から16歳まで役人だった親の都合で中国地方を転々としたのちに反対を差し置いて学校を辞めて上京した。田舎から出てきた。田舎に居たくなくて、親元を出てきた。絶対興奮する。"自分は武蔵野を縦横に通じている路(みち)は、どれを選んでいっても自分を失望ささないことを久しく経験して知っているから。" どこに足を向けても美しい自然が待っている、ということなのだけれども、だいぶ東京が楽しくてしょうがなかったんじゃないか。今でいう渋谷のNHKホールのあたりに住んでいたらしい。2016年現在日本で一番楽しいとこです。


"同じ路を引き返して帰るは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困る事もあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある"。自分も田舎ものですので、東京に出てきて適当にぷらぷらしてるだけで満ち足りたような何かがあった。沈む太陽は独歩の田舎の海辺だってよっぽど綺麗だっただろうけれども、武蔵野ならではの「詩趣」を表さねば、と弾む心象が駆り出されるべくして結晶化された作品で、「筆者の技巧」または「資料価値」だけで語り継がれただけだろうと切り捨ててはならない、と思う。恐れ多くも思う。
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2016年04月23日

ルソー『人間不平等起源論』



1775年 仏


我々は不平等なんじゃないか?じゃなくて不平等なのは当たり前で、じゃあその不平等なのは何時から、何がどういうわけで今に至るんだよ、おかしいだろ、とルソーがフランス革命の24年前に発表した論文で、アカデミーの懸賞論文に投稿して、落選した。その時大賞になったのは『不平等は自然法によって是認される』という、時の審査員が求めていた結論をもったいぶって繰り上げた結論で、いわば今の絶対王政に疑問を持つな、おしまい!という着地をした文章が評価された。だから「人間不平等起源論」のような、お前たちそこからどけや、という権力者への明確な批判をしてしまった以上賞レースで勝てるわけがないんですけど、今、天牛堺書店の250円均一古本市を経て自分の手元に届いたのはこっちなので読んでみた。

一切まったくの自然状態、サルから猿人へと進化していく過程がある。言語も方法も世に根付く前の時代があって、そこから「いろいろありました、さて!」ヒトとの間にコミュニケーションが生まれましたよ、という。「さて!」のパンと手を打つ、柏手からの切り替えが、舞台の転換として思い切りがあって、この人はメチャクチャ頭がよくて読ませるなと思った。自分のしゃべりたいことをしゃべる上でいきなりキモの部分から切り出してしまっても、聞いている側に単なる声のでかいジジイと無視されるだけで終わる。ルソーの言葉に「注意を払おうとしない読者にわからせる方法を、わたしは知らないのだ」というのがあるけれど、撒き餌をバラ蒔いてからグッと引き寄せるやり方が怖いぐらいうまい。

「パン!」という柏手から、最小限の組織「家族」が成立し、血のつながりができたという場面転換がある。「家族」と「家族」同士で結びつき、一個のコミュニティという単位ができます。単位が膨れ上がるにつれて、あいつらなんか儲けてないか?あいつら働いてなくないか?どうも気に食わねえなあいつら、っていう"意見"が湧いてくる。社会の萌芽。だけれども、ルソーにとって一番「均衡が取れた状態」というのは、たとえばそういう不平不満が沸いて、攻撃を仕掛けられたとしても、「お前が殴ってきたら、俺もお前を殴るけどね」というお互いの力関係に均衡がとれていて、やられたらそのぶん攻撃できる、犯したら犯し返されるという因果の調律がピンと張っている様が人類にとっての青春時代、黄金時代だ、と言っている。

けれども、やっぱりパワーで抑えつけられるのは、ぶん殴られるのは、怖いですよ。種として均一なように、グッピーがわらわら同じ水槽にいたらおなじく青ーい、きれいーなグッピーと思うけれど、いざ自分がグッピーだったら、しなやかに泳ぐ奴と自分で比較してしまう。小1の自分でさえ足が速いやつに対して劣等感を抱いていた。政府や組織が存在していない原初状態だったとしても、どこかのあいつ、と自分を比較してしまう。だから、殴ってきたら殴るけどね、の関係性が成り立つのは、ありえたとしても本当にほんの一瞬のタームでしかない。それに、ぶん殴ってこいよ、という許容が、今だってそうなのに当時の王政サイド、貴族の連中にできるはずがなかった。

だけれども、ルソーが「ここがベスト」と指を差した一瞬に立ち返ろう、立ち返らねばという気概で動けたとすれば、バカのトップのペニスがいかに大きくても、そこにひれ伏す必要なんかない。打たれた分だけ打ち返せばいいのだから。"ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会〔国家〕の真の創立者であった。"  騙して得取れ、声のでかいペテンに、手遅れになる前に杭を打っておかなくては。おめでたい奴に「よっ、おめでたいですね!」と指摘できたら、あるいは、お前らちょっと一瞬考えてみてほしい、と。風通しが、換気がよくなって声が通るようになればいいだろうなと思う。なかなかうまくいかない。ペニスの大きさでひれ伏すのだけは嫌だよ。そうなった終わりだから特に自分は。
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2016年04月10日

ナサニエル・ホーソーン『緋文字』と不倫に関してのブログ



1850年 米

緋文字の「A」はAdultery(姦通)の頭文字Aを表しているらしいけれども作品中そうですという種明かしをしているわけじゃない。Angel(天使)かもしれないしAble(可能性)とも受け取れる、そうやって正解を散らして、読者諸君に委ねてくる。緋文字、という作品は序章の「税関」で、ナサニエル・ホーソーンさんが実際に役所づとめだった時期にたまたま発見した(というていの)一片のドキュメントを押しなべていって語られる話であり、ドラマを吹き込んだ著者の想像力が必ずしもイコールで答えとは限らない、ことは本人も気づいていたので緋文字「A」をいかように捉えるかというワキの甘さはあえて残しておいた部分で、さあみんなで考えよう、と香取慎吾が昔いいともでアルタの100人から徐々に質問にYESと答えた人間の総数を減らしていくデスゲームを任されていたけれども、もしも、匿名性が護られているはずの「YES」のフォーカスがだんだん絞られていって特定された瞬間に照準が合い、撃ちぬかれてしまったとしたらそんなリスクなんか背負いたくない。絶対にバレないというレンガの向こうに立っているから石をぶつけられる。


旦那がいるのにもかかわらず、その旦那は船旅に出たっきり帰ってこない。死んでしまったんだろうという信憑性のない情報を掴まされたまま、町のエリート牧師に犯されて子どもをこしらえてしまった女、女を犯してしまい子どもまでこしらえさせてしまったけれども、「罪」と認識しているために苦しみ続けている牧師、そして実は死んでなかった旦那、産まれちゃった娘。


魔女狩りもガンガンやっていたし、清教徒が支配していて、不義を犯すことがそのまま死刑とされる社会で、酌量の余地ありとそれなら「A」の文字が刺繍された服を一生着ていなさいという判決が果たしてどっちが残酷なんだろうか、小さい娘がその「A」って何なのお母さん、と尋ねるのをはぐらかしつづけるのにも限界があるし開き直れるたぐいのものでもないし。一回きりのワンミスの反省が話の最後まで続く。母親に輪をかけて凹みまくるのが相手の牧師で、彼はその一回きりの、どうしてものついついのセックスだけをひたすら悩み続ける。街の連中は彼の説教を聞きに教会に来るし、あんなヤリマン殺してしまいましょうよ、にも歯切れの悪い受け答えしかできない。


"死んでしまった"はずの夫は嫁より相当年上でジジイで、頭のキレまくる医者でもあり、しかも不具者で、やっとのことでヨーロッパから海を渡って嫁の居るニューイングランドにたどり着き最初に目撃した光景が、嫁と身に覚えのない赤ん坊が公衆の面前で晒しあげられているまさにその瞬間だった。この元夫は復讐の塊になります。大事にしてやってた嫁に対してもそうだし、気づくんですよ。「あ、どうやら牧師の野郎が嫁とヤってますよこれ」っていう、でも直接問い詰めることはせずに牧師からゲロさせようとする狡猾さ。それが最も苦しいから。でも、こいつも悲しい奴で、不具持ちだから「ごく普通の幸せ」というものへのあこがれが強く、どうしても欲しくてたまらなかった。"なるほど年はとり、陰気で、不具だったけれども、それでも、どこにでも転がっていて、だれもが拾いあげている素朴な幸せを、わたしも拾いあげることができると思ったのだ。"


不貞を犯したら罰せられる文化や倫理観、人妻とセックスしたらいけないことはお釈迦様もキリストも仰っているけれども人間の動物の部分、前歯の部分が抑えられなくなってしまったとする。そんなことは是か非か問うまでもなく絶対的に非で、性欲の正当化じゃなくて、完全に非であると、悪うございましたと認め、命を棄てることまで考慮に入れている者を果たして許せるかどうか。然るべき処置とは一体何なんだろうか、誰もが「そこまでしなくても…」と一歩引いてしまうラインで土下座しないと許してくれないんだろうか。峯岸みなみが丸坊主になっても叩かれたのはもともとがそこまで可愛くなかったからだろうか。というかそもそも、不貞というのは不思議な罰で、当人間同士でしか不都合が生じないのに周囲は石を投げたがる(マリオカート64のドンキージャングルパークでコースアウトした時のあれです)。逡巡したら俺も私もどこかで知らない人間とセックスしたいという感情があるけれども、それを塞がなければ社会がメチャクチャになってしまうよね、と宗教では不貞を禁じた。それを赦すか赦さないかでまた揉める。個人の斟酌を争いの種火にするべきじゃないと思う。


この『緋文字』で、お前の考える最悪の罰が実行されないかぎり満足しない説が固まるシーンがあります。晒し台に向かう夫人をはためで見物している、ひときわブスの女が言い放つセリフ。"あのごたいそうに縫いつけた赤い字のかわりに、わたしのリューマチ用の湿布のきれはしをつけてやりゃ、そのほうがよっぽどお似合いってことさ!" 黄ばんでそうだからマジでやめてほしい。

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2016年03月13日

サン=テグジュペリ『夜間飛行』感想



1931年 仏


飛行機に乗ってる奴と、地上で飛行機の運行を管理してる奴とのプロフェッショナルの話です。じっさいに飛行機乗ってる奴が、地上に居る奴に命を握られている。リヴィエールという主人公(航空郵便会社支配人、50代のえらい人)が、日々の商売が淡々とうまくいければそれでいい、お前は飛行機に乗れ、と冷酷に命令を下すことができ、飛行機乗ってる奴を従わせられる。互いがこいつプロだな、と認め合ってるから。航空郵便、というビジネスがまだ安定しだす前、そもそもが夜中に飛行機飛ばすのが、暗いし怖いからやばいとされていた頃に、リヴィエールは"せっかく、汽車や汽船に対して、昼間勝ち優(まさ)った速度を、夜間に失うということは、実に航空会社にとっては死活の重大問題だ"と、世間の罵詈や雑言は承知のうえで、あくまでビジネスチャンスであり、この事業は広い目で見れば人類の進歩に繋がるのだ、と今日もパイロットを見送る。郵便物は届けまくっても無くならない。理念が穏便に成されるためには、飛行機乗ってる奴の「恐怖心」を殺さないといけない、俺は上空で山がうねっているように錯覚しました、とか、マジで木々が俺に向かって吠えたんすよ、とか、お前しか知らないだろ、記録に記せないんなら虚偽として扱う、ちゃんと仕事しろやと。本人に言う。


作者のサン=テグジュペリは実際に飛行機乗ってる側の人間ですので、本当はこんな駒扱いされたらキレてもいいしその権利がある。しかしながら、リヴィエールという地上で管理する組織側の人間にまったく悪態をついていない。気高い精神を兼ね備えた者のみにしかわからない苦悩にクローズアップして作品の主題に据えられるってどういうこと?と。爆撃して殺戮してさよならオチ(どくろ雲オチ)で書いたって説得力はありますよ。でも、反体制の文章にしなかったのは、飛行機というマシンを操れるという条件が魔法並みに限られていた1930年代、いまだってパイロットの免許取るのなんかむずいですけども、プロペラを駆動させる快感を味わった、「限られた俺」たる矜持が、管理体制すら跳ね飛ばすほどにバキバキに勃起していたんじゃないでしょうか。


飛行機乗ってる奴がどういう状況で何を感じているのか、アンデス山脈のギザギザすれすれをすり抜け、嵐と雲の中で信じられるのは自分自身の操縦桿をつかむ握力だけだ、って男の子なら興奮しますよ。しかも実際にやったことある奴が書いてるんだから絶対そうですよ。「猛スピードで」「見下ろす」ことの優越感(気持ちよさ)もちゃんと書いていて、"あの農夫たちは、自分たちのランプは、その貧しいテーブルを照らすだけだと思っている。だが、彼らから八十キロメートルも隔たった所で、人は早くもこの灯火の呼びかけを心に感受しているのである。" 「生活」を追い越していく爽快 と、無事に職務を終えて地上で一安心 と、「明日も飛べよ」と通達が"来る"憂鬱=リヴィエールが「明日も飛べよ」と通達を"出す"憂鬱と、そのルーチンを丁寧に均等にならべていて、明日読んだら感想が変わるような小説です。


"「部下の者を愛したまえ、ただ彼らにそれと知らさずに愛したまえ」"というリヴィエールの哲学を実行に移せるのは相当に難しい。というか今の御時世、古典じゃないと受け入れられないかもしれない。雇われている側の人間は、何を気取ってんだよ、そこまでマジじゃないから、と横っ面を引っ叩いて棒に荷物くくりつけて退職しかねない。けれども、愛してまっせ、わかってくれまっしゃろ、というベタベタしたザラメ溶かしたのじゃなくて、互いにプロ同士で腕ぶつけ合うの憧れますね。なんのプロでもねえけど。
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2016年03月04日

坂口安吾『桜の森の満開の下』


1947年 日本


何故「満開の桜の森の下」ではいけなかったのか、日本語の耳馴染みの他に、「満開」の時期が怖いから、「満開の下」に坐すと男は自我が吹き飛んで居なくなってしまうから、その一瞬を切り取ろうとする意味合いで持ってこんなタイトルをつけたんじゃないかなという、女がわーわー言い出したらマジでやばいねっていう気持ちで読んでください。


山賊がメチャクチャ綺麗な女の連れの男を刀でぶっ殺して、今日からお前は俺の女だと指をさす。女ははいと応える。女を背負って山に持ち帰る。なぜならば恋をしてしまったという。道中の山々、自然やらが美しいので、こんなステキな山を独り占めできるんだぜ俺は、と鼻高々でおぶった女をぐるりと一周させる。女は、岩だらけでなんにもおもんねーし、いいからとっとと走って家まで連れてけとごねる。山道をバカ疲れながらやっとこ家に帰る。男は女のことが好きなので体がバラバラになっても平気だぜと強がる。いままでに連れて帰った嫁どもがなにごとかと震えている。今惚れた、連れてきた女が「首をはねろ」と頼んだので、言うとおりに、いちばんブスだけを残して刀で斬った。一通りスコアを稼いだあと、疲れに疲れ果てた状態で惚れた女が目に入る。"目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。けれども男は不安でした。どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分からぬのです。"そして"桜の森の満開の下です。あの下を通るのに似ていました。"女に抱いた感情が、童貞なので(ギャグでなく、女を手に入れようとはしても、犯そうという描写がまったく出てこない) 桜の森の満開の下 に喩えた。何が何だかわからないものを何が何だかわからないものに喩えた。


このピンクな気持ちを克服するために、"今年はひとつ、あの花ざかりの林のまんなかで、ジッと動かずに、いや、思いきって地べたに坐ってやろう"と決意する、ただ、女にバレないように。
生きていくために必要な栄養やビタミンやミネラルなどを動物を殺した命、肉でバンバン与えまくり、ほっつき回っている都会から山にとぼとぼ旅してる連中をバンバン殺し、身ぐるみを剥がし、きれいなアクセサリーをほれ、と渡す。女はまだ足りない、私は都会に帰りたい、クサいとわめく。
”この生活、この幸福に足りないものがあるという事実に就て思い当るものはない"

男は弱いやつを殺す殺す、こんだけ殺して俺が死なないのなら、己の「強さ」が女の「美しさ」に匹敵するんじゃないか?と。勘違いで、しきぬ ふみょへはアイドルのことをもっともらしく語って「ハリボテの知」で一生懸命努力するアイドルと並走した気になっている野郎が大嫌いなんですけど、さておき、女がそれだけお前が強いなら、ワタシを京都まで連れて行っておくれ、と頼む。男は承知するも、都に出るまでには桜をくぐらないといけない。さっきの決意がいざ目の前に振りかかるとたじろぐ。しかし、このおぼろげなきっかけを、女に打ち明ける。俺は変わるんだぜ、という男が絶対に女にバラしてはならないやつです。

"「桜の花が咲くのだよ」
「桜の花が約束したのかえ」
「桜の花が咲くから、それを見てから出掛けなければならないのだよ」
「どういうわけで」
「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」
「だから、なぜ行って見なければならないのよ」
「花が咲くからだよ」
「花が咲くから、なぜさ」
「花の下は冷めたい風がはりつめているからだよ」
「花の下にかえ」
「花の下に涯(はて)がないからだよ」
「花の下がかえ」
男は分らなくなってクシャクシャしました。"


男は、マジでこれが理由とかで無しにやりたいのだ、という理屈を、は?なんで?と女からあらためて問いたださされると、たしかに果たして何故だ?と首をひねって会話が途絶えて気まずくなって女にバカにされてしまう。"刀で斬っても斬れないよう"な女の苦笑いを前にして完全に無力になる。これまでそこらへんのNPCなら、兵卒ならかたっぱしからぶっ殺してたのに、好きな女の苦笑いなんていう物理的になんの抵抗にもならないものの前になすすべがない。男は女に否定されて、結局決意が砕かれ、咲いている桜の下を目をつぶってダッシュでくぐり抜ける。女とブスの下女と一緒に、都に住むことにした。


女は、生首を使ってごっこ遊びがしたいので、あらゆる役職の人間の生首を持ってきてちょうだいと男に丸投げする。坊主の首を絶対に悪役にする。坊主なんてこの世で一番つまらないので、女はそのへんの性悪さにはかなり敏感である。それでも、男がいくら生首を貢いでやっても、愛情を注いでやっても、飽きる。"その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。彼の頭は割れそうになりました。それは考えの疲れでなしに、考えの苦しさのためでした。"これだけ日々一生懸命に首をはねていても、女は次、よっしゃ次と言うばかり、思い切ってこんなに苦しいのなら、よっぽど女の首こそはねてやろうとクソがよ、を刀を握るも、それが出来ない。別れを切り出す。

が、女は、男のノスタルジーをくすぐる=初めて山を登った時の、男が有頂天だったころの記憶を呼び戻させることで簡単に心の陰茎を握ることが出来ることを知ってしまっている、つまり、どうして俺の気持ちがわかったんだ、さては俺に惚れてるな、の曲解の曲の部分、カーブをいともたやすくグイグイ曲げやがる。女は、山に帰ってもいいと言う。

ガハハ、初めて出会った頃のことを思い出しちゃったよ、と男は女を抱きしめた、したらなぜか、女が紫色の気持ち悪いババアになった。は?と首を思い切り男の力で絞め、女の生命活動を終わらせる。その背中に桜の花びらが落ちてきた。男は冒頭で塊で持っていた気力がゼロになり、桜の森の満開の下で膝ついて力無くへなへなと跪く。ということはここで、俺が桜の森の満開の下で坐して満開に立ち向かってやる、という、女がこれまで自分の所有物だった頃に抱いていた、「俺、実はこれをやってみたいんだ」という願望に決着がつく。


ここでざっくばらんにざっくばらんに書いたことはスカスカだし、ともかくも、俺は女の人が読んだ時に何を思うのか気になりまくるので、Twitterアカウント「njomooo」にリプライでのご意見をお待ちしております。
posted by しきぬ ふみょへ at 01:31| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月29日

梶井基次郎『檸檬』




1924年 日本


この作品が名作として読まれているのは、モテそう感も然ることながら、「こんなこと考えてその辺うろついている男がいたんですよ」というたんなるいち個人の思考の推移を、そいつの鼻呼吸の音が聞こえるくらいの距離までクローズアップして書いてることが単純におもしろいからだと思う。病弱で金のない男がレモンを買って本屋において帰ってくる、それだけの筋なのに、「病弱で/金のない男が/レモンを買って/本屋において/帰ってくる」という最小単位の文節、文節へ意味をもたせていて、そうであるなら無限に小説書けちゃうよおい、この世の人間全員小説なのかよ。ちょろいだろ。


なんかうまくいかねえな馬鹿野郎、という気分で好きなものが売っているお店に行っても、間隙が満たされるのではなくなんかしっくりこねえな、って帰ってきてしまうことがある。二日酔いででかめの本屋に行く、主人公は丸善に通うのが平生の趣味ですが、なんか「情報、こんなにもあるのかよ」ってオーバーフローしてしまう。心がアーっとなるというか。"書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取の亡霊のように私には見えるのだった。"


道中でふと目に止まって八百屋で買ったレモン爆弾を丸善の本棚に置いて、大量の情報が木っ端微塵に吹き飛んだらかなり笑ける。この話は、実はギャグの小説だと思ってます。ここからはなんとなく今日考えたことで、二日酔いで出社して、路上でウエってなったんですけど、その時ノドが酸ですっぱかったんですよ。で、レモンのフレーバーが、最初のゲボはレモンのフレーバーがしたっていう、で、『檸檬』も、梶井基次郎が体調悪くなって丸善で吐いちゃったから思いついたんじゃないですかね。違います。
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2016年02月26日

サマセット・モーム『月と六ペンス』



1919年 (英)


作家である主人公(一人称の僕=モーム本人)の目線で、ロンドン出身の「チャールズ・ストリックランド」の生涯をルポルタージュするていで書かれた話。ストリックランドという人物はゴーギャンを下敷きにしているが隅から隅まで人生を完コピしたわけでなく、1903年に死んでおり、没後、徐々に当時ウケかけていた孤高の人の生涯になぞらえた創作物です。

証券マンで、安定した収入を得、家庭を抱え、"幸"を体現する存在だった、"幸"ことストリックランドは、齢40を過ぎてからいきなり妻、子どもを捨てて、単身、パリに渡りました。もちろん家族・親族はそのあまりにも唐突で非常識な行為に対し、「絶対女に決まってる。今すぐに土下座したら許すから帰って来い」というメッセージを託そうと、物書き志望で、そんな前途のある若者を囲うのが好きだったストリックランド嫁のご指名で主人公がパリに飛びました。これはネタになるかもしれないという好奇心もあり、たどり着き、見つけだした目的のおじさんが、バーで語ったいきさつは、"「じゃあ、一体何のために奥さんを捨てたのです?」「絵が描きたいからだ」"と。


体裁や、モラルやタブーなどを一切かなぐり捨てて、「絵が描きてえ」一本で世俗をうっちゃってただキャンバスに向かい続ける40のジジイ。ただ、決して魅力的に、素晴らしいじゃないかと全面肯定姿勢で評していない。むしろ、徹底的に皮肉に書いている。主人公も創作で食っていこうとしてるように、人間の内面への邪推に余念がないので、ずっとイヤなヤツのまま、イヤなヤツの内面を分析している。


食うもの食わずに己の創作欲にしか一切興味のないストリックランドを、ダーク・ストリーヴという、通俗的であり、かつて過ごしたイタリアで見かけた微笑ましい光景、小さい幸せ見つけた!なぞをちまちま題材にして、とりあえずの評判を獲得して日銭を稼いでいる男が面倒を見る。ダーク・ストリーヴさんは、自分の作品を俯瞰で見る目線は持っていないのに、他人の創作物のどの部分をどのように評価すべきかという審美眼だけは備えている不器用なハゲで小太りのおじさん。

そのおじさんが溺愛しており、本人もその愛に応えているはずだった、料理好きで容姿端麗なダーク・ストリーヴ嫁が、夫のアトリエで作業しているぐずぐずなろくでなしのストリックランドに惚れてしまう。己が向かっている”絵”にしか一切の興味を示さない、「は?惚れるなら勝手に惚れとけば?でも性欲がやべぇときは抱くけどね」、という立ち位置のストリックランドへの恋が芽生えてしまい、恋が報われないと知るや、自殺する。


モームは、ストリックランドの嫁、ダーク・ストリーヴの嫁という、"幸"に向かって走るレール上の2人の女を奈落に突き落とす。


モームはゲイだったらしいが、とことん女に失望し尽くしていたが故に、じゃあ女なんてくだらねえから男に惚れよう、とならざるを得なかったとしたら?作中、女ってバカ過ぎるだろという苛烈な攻撃がちょくちょく出てくる。うむ、確かにそうだねと納得せざるを得ない勢いで書いてて無理矢理腑に落ちんかい、と鬼気迫るものを感じた。


"「女っていう奴は、何て馬鹿なんだ!愛だと。ふん。いつだって愛なんかぬかす。男が女を棄てるのは他の女への愛のため以外にないというのにだ」"


舞台はおおまかに辿ると、「ロンドン」→「パリ」、そしてストリックランド=ゴーギャンが晩年を暮らした「タヒチ」と移ります。段階ごとにストリックランドの生活が、唯物ではなく、おそらく求めていた環境に移っていく。半端ない色彩で満ち溢れたタヒチで、ご縁があり現地で嫁を娶り、しかし、ハンセン病に感染し、いよいよ周囲から肉体的にも差別される中、ボロ小屋の天井や壁に描き上げた最期の絵。現地の嫁、そこでこしらえたてめえのガキをこさえた嫁にすら、"あの女は俺をほっといてくれる。飯を作り、赤ん坊の世話をする。俺の命じた通りにする。俺が女に望むすべてを与えてくれるのだ"とのたまった人間の絵は、顔面の原型が病気でグズグズになってもなお、己に惚れていた現地の嫁が守った言伝てにより、火がつけられ、燃やされてしまいました。死体はヤシの木の下に埋められた。


語り部である私=モームは、タヒチに旅立つ以前で終わっときゃ前途が多望たる話で終わらせられたし(この引き際をあえて逃した理由に関しては作中で語られている)、なまじ引き伸ばしたとしても、ストリックランドの何もかも全部が詰まった小屋が燃え尽きて灰になったタイミングで終わっときゃスッと引けるのに、後日談まで用意してて、うわっ、性格悪っ、ていう気持ちで終わる小説でした。性格悪い人はぜひ読んでみてください。
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2016年02月03日

鈴木大拙『日本的霊性』



「霊性」という言葉がなんであるか、wikipediaを引くと、スピリチュアル、スーパーナチュラル、御霊信仰、などいかつかったり怪しかったり、多少なりともイッてしまっている人間が好んで使うような表現が目につく。明確に定義づけられているわけでなく、その場その場で恣意的に使われているもののようである。『日本的霊性』からの引用によっても、"「相い罵ることは你(なんじ)に饒(ゆる)すに觜(くちばし)を接(つ)げ、相い唾(つばき)することは你に饒す水を撥(そそ)げ」で、これより外に仕方あるまい"とのことで、「仕方あるまい」じゃないよ、と頭叩きたくなってしまう。


ただともかく、想像するスピリチュアル的なものと隣り合わせになっているのが「死」であり、このことは、いくら脳が死ぬだの、あるいは心停止だの、ともかく理屈でどれだけ定義しようが怖いものは怖い。解決しようのない得も言われぬ不安に対して与えられた名前が「霊性」と呼べる、という話が岩波文庫版の解説ですごくわかりやすかった。


この『日本的霊性』では、そうした霊性のおこりが、いつどのように誰の手によってこの日本に芽が生まれたか、ということを考察している。言ったように、「死」への恐怖が霊性だとするならば、この本では、鎌倉時代、法然〜親鸞の時代におこり、世に広まっていった「南無阿弥陀仏」という果てしなく流行りまくったフレーズがあって、それを唱えることで、浄土というこの世の苦しみ、不安から解き放たれた場所に辿り着き、現世はクリアーだという思想すなわち浄土真宗が日本に根付いたところから始まったのではないか、と提唱しています。


鎌倉時代が始まるまで、400年もの間貴族がワイワイしていました。短歌がメッチャ流行るとか、枕草子、源氏物語、今の世の中まで残ってるものはたくさんあるんですけど、フラれて悲しい、川はせせらぐ、花は散る、と言ったような、表現技法は洗練されていくけれども、上流階級同士で、これええやんけ自分やるやんけ、と共感できる媒体に過ぎなかった。すなわち、具体的生活に即していないと感じることのない「死ぬ、ということへの恐怖」なぞは生まれるわけはないと。


"平安時代の多くの「物語」または「歌集」中に見られる如き憂愁・無常・物のあわれなどというものは、いずれも淡いものである。人間の魂の奥から出るような叫びは、どこにも聞えぬ。"

日本的霊性は、

@国に初めて「死」への不安が蔓延する原因となった、元寇という外国からデカい奴らがやってきた、という時期
A流刑にあった親鸞の(念仏さえ唱えれば全員救われます、という考え方が糾弾されたことによる、諸説あり)、越後のど田舎で、畑作=労働を通じて醸成された価値観の普及

それらが重なったうえに芽生えていった。
そもそも、どうして「他力本願(自分の力ではなく、阿弥陀様の大悲により浄土へ行ける)」という考えが生まれたのかといえば、先述の通り人間は生死に対する不安から逃れることはどうしたって難しい、道徳を積めば積むほど「俺のほうが正しいんじゃ、お前は悪なんじゃ」という沼にはまりやすい、どうしようもないんだから南無阿弥陀仏を唱えて阿弥陀様に助けていただきましょう、という発想ありきであり、それを深く理解し、世に説くためにはどうしても爪を黒くして働く必要があった。己のスケールの小ささ=自力の限界を把握している者でなければダメでした。

"一人は米を食べる人、いま一人は米を作る人、食べる人は抽象的になり易く、作る人はいつも具体の事実に即して生きる。霊性は具体の事実にその糧を求めるのである。"


この本ではけっこう他宗教…神道やカトリックであったり、平安文化なんかを批判的に書いており、筆致が断定断定のぶん鵜呑みにしてしまうとこわい部分もあると思いますが、ここだけ忘れないようにしたいので引っ張っておきます。


"自省してみずから苦しむ型の人は、この苦しみから逃れんため、自分の意志を最小限度に弱めんとする。その一方法として、自分よりも非常に強いものを求めて、それへすべてを投げかける。それで自分の行為に対する責任は一切そのものに帰するのである。自分の行為は自分の意志から出るのではなくて、他力の"はたらき"であるとすれば、どんなことがあろうとそれは自分の責任にはならぬ。死んでも生きても、人を殺しても自分を殺しても、善悪ともに他力である。いかにもさっぱりして、気は誠に楽になる。"


カトリックの教団的な考えを批判するものですが、他力本願が絶対的随順になってしまっては、根本の人間としての軸さえ失ってしまう。倫理的な責任感まで委ねてしまったら豚なので、豚にならないためには、自分で背負える範囲のものは自分で背負っていく覚悟が必要なのではないか。終わりです!!!


追伸.この記事はorui君のこの記事を読んだまま反応してなかったので、同じ題材で感想を書こうと思って読んでる途中で違う本だと気づきました。死ぬまでに"確認"が出来るようになりたいですね
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2015年09月09日

織田作之助『夫婦善哉』



『夫婦善哉』は、織田作之助が1940年に発表した大阪を舞台にした小説です。人が良くて馬鹿なのでムダに大ぶりなタネを提供してしまうが故に極貧である天ぷら屋を営む両親に育てられ、境遇が嫌でしょうがなく、家を出て、北新地で芸者として食っていくことを決心した主人公・蝶子と、化粧品問屋の長男であり若旦那・柳吉が何のプランもなく東に向かって駆け落ちした先で関東大震災に見舞われて大阪にとんぼ返りする顛末から始まる。


柳吉という男は甲斐性なし、という言葉がまんま当てはまるかなり終わっている男で、
曲がりなりにも芸者である蝶子を口説くにも値の張る店には連れて行かずに


”「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもん何処イ行ったかて食べられへんぜ」"


と、どもりながら大阪の裏路地でしか食われないような土手煮だのまむし焼きだのを振る舞う。汚ったない店だけど確かにここでしか味わえなくて、美味しいものを知ってる。一等の客を相手にする局面もあっただろうけれど、スキだらけで口下手な若旦那に手を引かれ、こきたない店でなんだかまるめこまれて一緒になってしまう。ろくに働かず、嫁さんを働きに出している間日がな自分の納得の行く味噌汁を作る為に鰹節を挽いている。近所の人間は亭主にそんなことやらすなよ、と白い目で蝶子を見る。

柳吉は年下の蝶子のことをいつしか"おばはん"と呼ぶようになります。甘酸っぱさもへったくれもないようなあだ名ですが、その呼び方を拒否するような素振りはいっさい描写されていない。それ呼ばれる方キツいだろ、と読んでるこっちは思うけどそこを省いて蝶子がすんなり受け入れているので、「我々がわざわざ突っ込まなくてもいい段階のコミュニケーションが成り立っている」んじゃないだろうか。


旦那は勘当されているので実家に無心ができない。芸者の稼ぎや衆院の人間から工面した金で、剃刀屋、おでん屋、すいか屋なんかと次々に鞍替えしながら商売で身を立てようとしても、旦那が急に浄瑠璃の稽古にハマりだしたり、売上に手を出して北新地で飲んで帰ってきてあぶくになる。
せっかく商売が軌道に乗っても、タイミング悪く腎臓を患って倒れてしまい、湯治という名目で白浜の温泉に逗留するんですが全然帰ってこない。は??と様子を見に宿に赴いてみると、腎臓やってるはずなのに酒を飲みながら芸者をはべらせて遊んでいる。金は実家の妹にせびっていたらしい。


”蝶子は逆上した。部屋のガラス部屋に蓋を投げた。芸者たちはこそこそと逃げ帰った。が、間もなく蝶子は先刻の芸者たちを名指しで呼んだ。自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチつけたくないと。そんな思いやりとも虚栄心とも分らぬ心が辛うじて出た。自分への残酷めいた快感もあった。"


「自分への残酷めいた快感」こそ、旦那に対しての着地点の見えない献身的姿勢を取り続けられるバイタリティの根源だったのだろうと思う、旦那のケツを叩く感触に生きがいを見出していた。本当に全然関係ないけど、今、倉田真由美のwikipedia見てたら"大学4年の就職活動で山一證券の最終面接まで残ったが、面接官からこの会社を選んだ理由を聞かれた倉田は「歯医者が近いので」と思ったことをそのまま口に出して面接官の不興を買い、最終面接で落とされた。”って文章があってゲロ吐きそうになってしまった。


また美味いもんを食わせてやる、と柳吉に連れられてぜんざいを食べに行き、"蝶子はめっきり肥えて、そこの座布団が尻にかくされるくらいであった"と。散々も散々迷惑かけまくられ、ストレスも貯めこんだけれど、連れ添って美味しいものを口にする場は共有し続けていられた。結局かなり羨ましい。2人でガリガリ君買って食いながら帰りたい。駅とコンビニが近い場所に引っ越します。
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posted by しきぬ ふみょへ at 00:21| ラスベガス ☀| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月04日

中島敦『悟浄出世』『悟浄歎異』




"考える事"と"動く事"


沙悟浄目線で進んでいく西遊記の話。
河の底で「俺ってなんなんだよ」「駄目だ〜〜〜〜」等と日々嘆き、急に立ったと思ったら座ったりして、周囲の妖怪から白い目で見られていた悟浄。妖怪世界は「自分がやりたいこと」を発達させ過ぎたが故の、ちんちんだけ異様にデカイ奴とか、脳みそだけ宙に浮いてる奴とか、"自分の世界観が絶対である、固執している"連中だらけで、他人の意見を訊いて果たして、と思えるようなのが居ない。その中で悟浄は少し違う、「俺の悩みに答えはあるのか?頭のいいやつに尋ねてみようか」と旅に出る。


悟浄は、「俺は駄目だ〜〜〜〜」と思いつつも、「考えている俺」自身にはとてもプライドがあり、どいつもこいつも、案外大したこと言ってねえぞ、とすぐに聡明な妖怪たちの元を去ってしまう。


"もはや誰にも道を聞くまいぞと、かれは思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな」と悟浄は独言を云いながら帰途についた。「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってしないんだってことは、お互いに解りきってるんだから』という約束の下にみんな生きているらしいぞ。こういう約束が既に在るのだとすれば、それを今更、解らない解らないと云って騒ぎ立てる俺は、何という気の利かない困りものだろう。全く。"


ただ、長い年月旅を続け、いろんなキモい妖怪の元を尋ねる内に、どうやら、「解かろうとするは大事でない」が道理なのでは?という端緒を掴む。旅の疲れでぶっ倒れて、「お前は"考えて"いるだけで実行に基づいていない。体を動かさんかい。」というお釈迦様からのお告げを賜り、という巡り巡って悟浄は三蔵法師御一行様に合流する。


御一行の中で特に、自分と全く正反対、考えなしに動きまくるのに一切のムダがなく、結果を出しまくる孫悟空の存在、悟浄は感銘を受けまくる。星の名前は知らないのに、単純な星の動きからで方角、時刻、季節を探り当てる悟空と、名前だけ知っててどれがどれだか全く判別できてない悟浄。動画勢。


"悟空の闊達無碍(かったつむげ)の働きを見ながら俺はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熱して来て、おのずと外に現れる行為の謂(いい)だ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。"


一旦考えてしまう時点で、絶対に自分が悟空にはなれない、追いつけない。判っているのに体が動かない、天才の業を見て、「こいつぁすげえ」と感じること"しか"出来ない。むしろ、そこで満足しているだけで、一歩踏み出してしまえば己の「大したことなさ、凡である事」を痛感してしまうかもしれない。』悟浄も、"俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていてあまりボロを出さないようにしていたからだ。"と述べています。そして物語は、三蔵法師御一行があばら屋で一夜を過ごし、いざ、というところで幕を閉じてしまう。


この作品は、中島敦が『わが西遊記』と銘打って当初は連作を予定していたらしく、悟浄がこれからどう皮が剥けていくのか?という部分について濁したまま以降の作品は遺されていません。行動すなわち是か非か、"判ってるはずなのに"からどう動くのか、中島敦という作家は早死で33才でこの世を去ってしまいましたが、バリバリ爪痕を遺している。悟空たる人間の1人であると思う。考えるだけ考えて、ハゲ散らかす前に動こう。ハゲは終わっているから。ハゲは妖怪だから。
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posted by しきぬ ふみょへ at 00:54| ラスベガス ☀| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月21日

夏目漱石『それから』

読んだ本で感想文を書こう、文章を書く練習をしよう、と思ってたのに全然書けない書けない。年末にWii Uを買ってからというもの、スマッシュブラザーズを延々とやってしまう日が増えた。スマッシュブラザーズを延々とやってしまって後悔する、という行為を小学生から繰り返し繰り返し、四半世紀が経とうとしている。羽生 結弦くんは金メダルを獲りました。

学生の時はそれなりに本を読めていて、朝マックが始まる時間にマクドナルドに2時間立てこもり、尻の肉に感覚がなくなってきた頃モスに引っ越し、2時間立てこもるという脳と尻しかシナプスで繋いでいない生活を続けていた。その間ただひたすらに活字に目を通すか窓越しに碇ゲンドウのような佇まいで格好をつけて外を眺めていた。200円しか払ってないのに。

働き出してからは「読もう!」と本に向かってもしばらくしないうちに気を失ってて、電気つけっぱなしで出勤時間を迎え、うつ伏せのままベルトコンベアで会社まで行って帰ってきて続きを読もうとしても前の内容を覚えてない。虫に近づきつつある。なんとかしたいのでとりあえずWii Uを窓から捨てて、キーボードに向かっている。

夏目漱石の『それから』を読みました。学生時代も読んでて、三十路でニートの主人公が、オンナと駆け落ちしようとしたけど金がなく。親にせびったらぶっ飛ばされたので職探しに行く、という話です。
酒の席、古くからの友人で、とっくに働いている男に向かって主人公は言います。


「僕の知ったものに、丸で音楽のらないものがある。学校の教師をして、一軒じゃないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読したよみをするのと、教場へて器械的にかしているより外に全くがない。たまの日曜日は骨休めとか号して一日ぐうぐう寝ている。だから何所どこに音楽会があろうと、どんな名人が外国からうとに行く機会がない。つまりがくという一種の美しい世界には丸で足を踏み込まないで死んでしまわなくっちゃならない。僕から云わせると、是程憐れな無経験はないと思う。麺麭パンに関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考えてるらしいが、僕の住んでいる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ」


これを聞いた友人は「うん、いつまでもそういう世界に住んでいられれば結構さ」と吐き捨ててその幕は終わります。今の自分がこのセリフを目の前で吐かれた日には、おそらくそんな「言ってろバーカ」ではなく卓に置いてあるJINROの瓶で頭を割っていると思うんですが、確かに、自分がまだ働く前、デスクで「ワ〜〜〜ッ!」と頭を掻きむしってふと気がついたら1週間ぐらい一瞬で過ぎ去っているような今のくらしは想像してない。好きなときに本を読んで、映画を観て、漫喫でDMMチャンネルを楽しんでいた時代に戻れればなあと思ってしまう。


友人の奥さんは、仕事にばかり明け暮れる夫にいつしか「愛されていないのでは?」と不安を抱き、その心の動きを察した主人公が「俺が救ってやらねば」と先述の駆け落ちにつながっていきます。奥さんまで寝取られる。「麺麭の為」に生きているうちは人の目に魅力的には映らない。つまるところ余裕があって、汗の臭いがせず、ツーブロックが似合わなければ幸せになる権利がないのか?この話は、タイトル通り、主人公が最終的にどうなるか、までは描かれていません。職を見つけ、友人と同じような考えを持つに至るのか、それがどうしても出来ずにオンナを手放すのか。書いてる自分としても、またしばらく時間を置いてから読み返した時に、果たしてどっち寄りの位置にいるのか。気づいたらこうなってました、ではなく、こうしたからこうなった、という軌跡をちゃんと残しておきたい。羽生結弦くんが2枚目の金メダルを獲るころ、俺はどうなっているだろう。ガンバレ、ゆづ!!俺も負けねえからよ!!!


バチバチバチバチバチ!!!!!!!!(電気イスのレバーが倒される)
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2014年09月07日

夜長姫と耳男 感想文

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俺は坂口安吾という小説家がかなり好きです。純文学、歴史モノ、推理小説、エッセイ、評論、扱っているジャンルは相当幅ひろく、とっかかりが難しい部分があって、ファンは多いんですが周りで出会ったことがありません。本、何読む?という話題になった時に、「安吾… あ、坂口安吾」と答え方として満点のきしょさを弾き出してしまって以降あまり自分から名前を出すこともないんですが、今回、数ある作品の中でも代表作のひとつとして挙げられることも多い「夜長姫と耳男」について思うことを書いていきます。

国の権力者が、自分の娘である夜長姫(よながひめ)を一生護ってくれるような、ありがたい仏様を彫ってほしい、と腕の立つ仏師3人を集め、競わせ、最も素晴らしい作品を作った職人がチャンピオン、という催しを考えました。その中の1人が、主人公の耳男(みみお)です。が、耳男は腕は立つとはいえまだ若く、師匠の推薦で出場した代打に過ぎません。当然周りからは「オイオイ大丈夫かよ」という声が浴びせられます。

"「一心不乱に、オレのイノチを打ち込んだ仕事をやりとげればそれでいいのだ。目玉がフシアナ同然の奴らのメガネにかなわなくとも、それがなんだ。オレが刻んだ仏像を道のホコラに安置して、その下に穴を掘って、土に埋もれて死ぬだけのことだ。」"

こう自分を鼓舞しますが、その後"正直なところ、自信はなかった"と、速攻で弱音を吐きます。この、耳男の

@オレは本気を出したら実際ヤバい
A実際ヤバいけどそこまで根拠は無い
B絶対ナメられたくない


という男だったら絶対ある、なかったらそいつはクソ。オカマ。健康志向。な価値観が魅力的な要素。
耳男は、作品の制作に取り掛かる前、初めて今回大会が催される発端となった夜長姫に謁見します。で、この夜長姫はバリバリ美しい。無邪気な笑顔の裏で何を考えているか判らない。耳男の長い耳を見て、「馬?」と何の悪びれる様子もなく感想を言うぐらい無邪気。耳男は彼女の目をじっと見つめますが、屈辱、ナメられたくない、いい作品を作る、といった気持ちがこんがらがり、何故か「走って外に出る」という行動を選択します。なんでだよ。でも、あれやこれやの感情が一気に襲いかかってきた時に「現実からの逃(とう)」というわけわからない行為に出る場合って誰にでもにあって、耳男がその時ゲームボーイをかばんに入れてきていたら逃げた先でゲームボーイをやっていたと思う。

大会の優勝賞品のひとつに、「遠い土地から連れてきた機織りの美人」がありました。この女と耳男とのバトル、もかなり面白い。女は「なんで下手すりゃこんな馬みたいな奴の女にならなくちゃいけないんだよ」と悲しみ、憎悪を抱き、対して耳男は「別に女目当てで来たわけじゃねえよふざけんな」をガンガン前に押し出すから余計に火に油で、恨みを買い女に片耳を切り落とされます。しかも、その後に女がその罪で死罪に決まり、首をはねる権利を与えられた耳男が

"虫ケラ同然のハタ織り女にヒダの耳男はてんでハナもひッかけやしねえや。東国の森に棲む虫ケラに耳をかまれただけと思えば腹も立たない道理じゃないか。"

いらんことを言います。腋汗をビショビショかきながら。いらんことを言ったので、「へえ、虫ケラに耳をかまれただけなんだ。なら別にいいよね?」ともう片方の耳まで切り落とされるハメになるのですが、ニコニコ笑いながらその命令を下したのが、夜長姫です。


夜長姫という女は、基本的にはワケが判りません。トチ狂ってます。同じ作者の『桜の森の満開の下』でもそうなんですけど、「女は何を考えてるか判らん。オレはどうすることも出来ない」という恋愛観が根底に流れていて、それでも尽くすことをやめられない悲しさ。

耳男は、今回、仏ではなく、化け物の像を彫ってやろうとします。「あのオンナマジでナメんなよ」そして「笑顔が忘れられない→恋愛感情」からです。勝つために自分を追い込もう、という発想にいたり、毎日毎日山の中から蛇を捕まえてきて、さばいて生き血を直飲みして死がいを天井に吊るしていきます。ここがかなり好きなんです。追い込み方が不器用すぎると思う。自分を逆境に追いやってそれを乗り越えた時に、やっと納得の行くものが出来る、という考え方。しかもその間ずっと脳裏にオンナの笑顔がちらついているわけです。ノミを振るって忘れようとしてもどうしようもない。

出来上がった作品を夜長姫が気に入り、耳男は勝利を収める。しばらくして、村には疫病が流行りだします。下々の人間はコロコロ死ぬ。その様子を楼閣から眺め、

"私の目に見える村の人々がみんなキリキリ舞いをして死んで欲しいわ。その次には私の目に見えない人たちも。畑の人も、野の人も、山の人も、森の人も、家の中の人も、みんな死んでほしいわ"

耳男は思いました。「こいつマジか。」と。私もあれやりたい、と耳男に蛇を大量に捕まえてこさせ、生き血を喜んで飲みだします。耳男がかつてオンナを見返してやろうとしてきた"追い込み"の為の行為を「村の人間がたくさん死ぬ」単なる願掛けとして模倣する。

"とてもオレの手に負えるヒメではないし、オレのノミもとうていヒメをつかむことはできないのだとオレはシミジミ思い知らずにはいられなかった。"


そして、ノミでの一撃を姫の胸に叩き込んでしまいます。コイツはもう殺さないとダメだと。

先の勝負で勝利を収めた耳男は、その時、本来のテーマであった仏様を制作していたのですが、一旦"認められた""満たされた"心境でつくられていくその像はつまらないものになっていました。今際の際に姫が残した言葉、

"「好きなものは咒(のろ)うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊るして、いま私を殺したように立派な仕事をして……」"


人間は幸せのため、満ち足りるために心血を注いでいるわけで、そこには「愛するべきものを手に入れる」が入ってくるはずです。一生追い込まれて蔑まれて這い続けられる奴なんかいません。やっとのことで一瞬の安寧が手に入った、と思ったら、「今のお前、イマイチだな」と槍で刺される。この作品は葛藤、投げかけに答えを出しているわけではなくて、坂口安吾も実際迷っていたと思う。狭間で反復横跳びを脚パンパンになりながら続けなければいけないのかもしれない。


やっぱりメチャクチャ彼女欲しいですね。
posted by しきぬ ふみょへ at 10:31| ラスベガス ☀| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする