2016年12月13日

朝井リョウ『何者』

何者 (新潮文庫) -
何者 (新潮文庫) -


朝井リョウの『何者』を読んだ。

大学生がたくさん出てくるのに、セックスのシーンがなかった。確かに俺にも大学生活でセックスのシーンはなかったが、他の大学生にはセックスのシーンの1つや2つあると思っていた。演劇サークルで脚本を書いている主人公、バンドをやっている主人公の友人。とその元彼女、元彼女の留学仲間、同棲相手がアパートの一室で就活対策をする。真面目にやるわけ無いと思う。セックスがないと嘘だ。小説なのだから嘘なのだけれども。

作者=朝井リョウの実経験に視座した目線で描いているのであるならば
「セックスはあって当たり前」
「当たり前なのだからいちいち描写するまでもない。読者でおのおの補うべき」

と、あぶれつちまってるろくでもない学生連中の声なんか耳を貸すまでもないのか。

作者は(インターネットで流布されている情報によると)「サラリーマンをやってみたかったから」という理由で東宝に就職せられたのだから、「就職活動」という壁にぶつかっている人間の剥がしやすい表層を問題意識として切り取り、成し得た者目線で「就活あるある早く言いたい」をやっているだけなんじゃないか。ともあれ、この『何者』を書く材料として、就職活動を一通りこなした上で「勝者」の立場から物が言えるのだから、その競争で敗者となってしまった側からの異論・反論・嘆きを全て腕(かいな)で塞ぎ込んでしまえる。


一歩引いた目線から物事を観てしまう主人公が、「馬鹿になれている」人間にどこか羨ましさを覚えつつもやはり入り込めないもどかしさ、踏み切れない煮え切れない。就活という"通過儀礼"になんらかの意味を見出そうとしても能わず、達観したような素振りだけは一丁前になった。
SNSでの「皮」と目の前に居る実際の友人連中とのギャップを鼻で笑い、「弁えている俺だけは特別なんだ」と自分に言い聞かせる。


そんな腹のうちが、カンボジアまで海外ボランティアに行き難民支援、学部やゼミを刷った名刺を配ってインターンやOB訪問に愚直に励んでいる女にバレてしまう。「ツイッターの裏アカウント」が見つかったからだ。途中途中、「この主人公のことはどうしても好きになれんな」と思いながら読んでいた。「そこで人の言葉借りちゃダメだろ」とか、「案外先輩も大したこと言ってないのに感銘を受けるなよ」など。@NANIMONO で周りを馬鹿にしまくっていたつぶやきが10ページに渡りひたすら暴露されるシーンは最初「ダサすぎる、恰好が悪すぎる」と引き笑いをしながらページをめくっていたが、「こんなにボコボコにしたるなよ」となんだか引くのが笑いに勝って切なくなってしまった。大層な問題では、ない。「鍵のかかっていない裏アカウント」で好き放題発言している事実が露呈されるというのは「夜中に外でちんちん出して楽しんでたら、まさか本当にちんちん見られて大変なことになった」というのと同じで、露出趣味でスリルを味わっていた人間がおまわりさんに見つかったというのと大差ない。


"「そうやってずっと逃げてれば?カッコ悪い自分と距離を置いた場所で、いつまでも観察者でいれば?いつまでもその痛々しいアカウント名通り【何者】かになった振りでもして、誰かのことを笑ってなよ。就活三年目になっても、四年目になっても、ずっと"


自尊心に粗塩を、しかも番手の大きいサンドペーパーで擦り付けられた主人公は、まるで憑き物でも取れたかのようになり朗らかに集団面接に挑む。いまは「自分の言葉で」しゃべられている。己が【何者】なのか、なんて思い煩わされていたのが遠い昔のようだ。受かるか落ちるか。それよりもきっと僕は「大丈夫」だろう。とのことだった。エピローグでの自己PRでも、考えがまとまっていない主人公を「ダサい」と捉えられうる書き方をしているようで、面白かった。


”プロフ欄”でスラッシュでぶつ切りに区切られた単語単語、要素要素で自分を取り繕って着飾って【何者】かになったつもりでいる連中はダサい、痛い、愚にもつかないという視点においての「下に見る」という行為。定義付けしたがりの、名前をつけたがりの、人間を何らかの枠に当てはめがちのこのご時世がくだらないのは同意なんだけれども、この小説が扱っているテーマたる「紋切り型で定義付けを強いられる現代社会」という主軸自体がせせこましく、しかしこういった時代に生まれてきてしまっていることすらの嘆きだったとしたら、平成世代の旗手たる朝井リョウ先生には更なる大上段で時代に斬りかかっていって欲しい。問題のスケールをもっともっと拡充できないものだろうか。
posted by しきぬ ふみょへ at 00:39| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月27日

京都府・宇治

いきさつ


2016/10/11のツイッター
2016/10/28のツイッター



2016/11/26(土)、会社の関根麻里似の女性(以下、麻里)と京都府宇治でデートをした。早め早めに動いたほうが得策だという俺の提案のもとに京阪電鉄中書島駅に11:00集合、11:20頃宇治駅到着。最初の目的地である抹茶、ほうじ茶ベースの菓子類が充実した人気のカフェ・テリアに先着2組の後ろにつきさほど並ばずに入店。俺はほうじ茶ゼリーと抹茶チーズケーキ、麻里は抹茶パフェを選択した。昼食を甘味で済ますのは、日本男児たる、健康優良児たる自分の本懐ではなかったけれども、「これで昼ご飯大丈夫ですか?」という麻里からの気遣いにはノーモーションでOKをした。ほうじ茶ゼリーに「優しい甘さ」、抹茶チーズケーキに「思ったよりもチーズが濃くて、後から抹茶が来る」とコメント。一口もらった抹茶パフェには「あんこが美味しい、こんなに小豆がしっかりしているつぶあんも珍しい」といういかにもな反応を示し上々の仕上がり。12時過ぎから店内も混み始め、先手をうって行動しておいてよかったねと己の株を上げる工作をする。


平等院に向かう。宇治が初めてではない麻里の案内でおすすめの茶菓子店、お土産屋などをジグザグに巡る。そもそもが「先導」が苦手なので、勝手知ったる女性のエスコートに任せられるのは気が楽だ。職場の先輩であるという立場もあって、普段目上の人間が休日に立場が逆転するという「りぼんコミックス」「マーガレットコミックス」などで予習しておいた女性優位のデートが出来ており、彼女になんらプレッシャーもなく一日が過ごせそうだ。


平等院の紅葉具合はきれいだった。美しさ、情緒わかってまっせ面をかましつつ、赤、黄色、緑の葉っぱと青空がグラデーションになっていて映えるね、などと中身のないセリフを吐きながら、デジタル一眼で紅葉を撮影する麻里の後ろ斜め45度で所在なくぶらぶらする。いきなりカメラを向けられて、写されたくないから、パンフレットで隠すなどの行動を取る。また、自撮りの角度から鳳凰堂をバックに2人で撮影。うまくいっている。十円玉の表面越しの写真も撮った。「絶対やりますよねそれ笑」とも言われたが、しょうがないじゃないかミーハーだから、と煮え切らない返し、減点1。ミュージアムでは、最近たまたま勉強していた付け焼き刃の仏教知識をさも前々から染み付いているかのごとくトークに織り交ぜる。案内文をいちいち丁寧に読み、さも学識豊か、知識欲旺盛のような振る舞い。得意中の得意だ。ミュージアムの売店で、阿弥陀様が雲に乗って今世に来迎されている様子のピンバッジを購入。300円。300円で得られる最大の有り難さじゃないかこれ、などとコメント。


平等院表参道ではない、商店街の方にある上林春松でお抹茶を飲む。2階が喫茶スペースだったのだけれども、埋まっているので申し訳ありません、からのすみません、席空いてましたという"儲けた感"で本日の追い風を感じる。歩き疲れたから女性はそろそろ足を休めたいだろうという気遣いも伝わっただろうか。上出来だ。


そして麻里は学生時代に茶道部・兼書道部で、自分でお茶を点てるという習慣が今なおもってある。尊敬するに値する、殊勝で恥じらいもあり、俺のようなせむしに接点など本来はあるべきではない人物なのであるが、何の因果か同じ会社に入ってしまったが運の尽きでこうして糸を垂らされているわけである。可哀想に。気の毒に。


失敗した。ここで「普段会社では付けていない、紫系統のマスカラを付けてはいませんか?」と指摘してしまった。それは正解は正解だったのであるが、何をお前みたいなものが「フォーマル」と「カジュアル」の差異に気づいて浮かれてやがるのだと。異性に好印象を持たれるような人間はつまり打算無く指摘できる自然さ、一挙手一投足のこなれかたが重要なのであって、鬼の首を取ったかのように「会社でしていないマスカラをつけていますやんか!」と息を荒げてしまう己が愚かで仕方がなく、テレビか雑誌か、メディアから与えられた「女の変化を指摘せよ」というミッションにペケをつけて実績を解除したことに浮かれていちいち喜んでいる自分がほとほと嫌になる。


宇治上神社に向かい、16:00頃着。たまたま後にするタイミングで16:30に門を閉めるとわかり、ここでも運良く回れている感の演出の足しになり追い風の錯覚をする。宇治川沿いを歩く。「寒い」「手が冷える」という発言に乗じて「自分がエナジーが漲っている」というユニークを織り交ぜつつ朱色に塗られた橋をどさくさに手を握って渡った。もうあとは"流す"だけで麻里を付き合える、と、バックストレートを日の丸を背中に覆いながら小走りした。決めたも同然と思った。


夜予約していた「創作小料理屋」に入る。麻里はお酒を飲まないので、一方的に楽しい気分になってしまうが、この「酒の勢い」という波に乗れているふりを悟られたくないので慎重に振る舞う。オーダーから時間を取らないであろう牛すじの煮込み、本日のおすすめからブロッコリーの天ぷら、そして「サラダが食べたい」というリクエストから、お品書きの「菜」のページから「茶そばサラダ」を頼んだ。宇治という土地柄もあり「茶」の文字さえ入っていればお気に召すだろうと、また午前から甘味しか摂っていないので至極腹が空いており、本来ヘルシーたるべき、アルカリであるべきサラダにも炭水化物を織り交ぜようとしてしまった。今思うに反省ポイントの1つだ。


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本日のデートは、1ヶ月後の12/24にご飯に誘いそこで告白するための布石だった。1週間前に会話の流れでクリスマスに空いているかどうかを確認したところスケジュールは特に入っていないという事前情報も得ており、そこで誘ってしまっても良かったのだがあくまで本日、宇治からの助走の先にあるクリスマス・イブを駆け抜けてやりたかったので言葉を飲み込み、掘りごたつのようになっているカウンター席の左側に座っている麻里を口説きにかかった。


まさか、1週間でスケジュールは埋まっていた。友だちと日帰りで旅行に行くらしい。新喜劇の内場勝則ばりに「イーッ!!??」と叫びながら、カウンターにベリーロールで飛び込んでキープしてあるボトルを全部ぶち撒けてしまった。つるの曲がったメガネを拾い、前歯がなくなってしまったので「ガッ、ガガッ」しか喋れない。「しきぬさんこそクリスマス誰かと遊びたいって言うてはったじゃないですか、もっと早く言ってくれたらよかったのに」と言われたが、なんで情緒やお約束やしきたりがわからないんだ。散々アイコンタクトを、スルーパス出すよと合図を送っていたのにまったく伝わっていない。チームから孤立していたドイツワールドカップ時の中田英寿と同じ心境になってしまった。


どうせ裏目るなら、自分が絶対に失敗すると思った行動を取れば案外うまくいくんじゃないか、という謎の理論を構築し始め、そこに縋るより道は残されていなかった。少し早くに店を出て京阪に乗り、彼女の最寄り駅まで鼻水を垂らしながらのこのこ付いていき2軒めに入る。どうせ振られるならクリスマスでも今でも変わらないだろうと「クリスマスに本当は言おうと思っていたのですが、恋愛感情がありますので交際をしていただけませんか」という旨の意味がこもっている文言を声帯を振動させて口蓋から発した。麻里は明らかにビビっている。酔った勢いで、がいちばん誠実でないのでよしたほうがいい、ということぐらいは分かっている、今のタイミングが最悪であることも分かっている。クリスマスはワイン一杯ぐらいで留めておこうと肝に銘じていた。だが、もうストラテジーが全て裏目るのならもうままよ、ええいと逆方向に突っ走ったらそれはそれで案の定ドブ一直線だった。東に走ろうが西に走ろうがドブに落ちる。もしかして地球って丸いんじゃないか?たぶん皆は気づいていないかもしれないが…


「自分はしきぬさんにとって、何ていうか"妹的な存在"なのかと思ってました」


女のことを"妹的な存在"で見るようなおぞましい男として思われている。男性としてではなく俺は「お兄ちゃん」だったらしい。女性を「対象」としてではなく"妹"として捉えているような気持ちの悪い、性根の腐った人間のうちの1人に入れられた。あくまで貴方のことをいち異性として純粋に好もしく思っております、と伝えることも気持ちが悪いし、性の匂いを消しても気持ちが悪く思われる。繰り返すが地球は丸い。どうしろというのだろう。「前に温泉に誘っていただいたじゃないですか、あれ、そういうことだったんですね」と言われた。おもむろに自分の目玉をくりぬいてぜんざいにぶち込んでやろうかと思った。


翌日LINEで身辺整理、終活に入らさせてもらったところによると「もう少し考えさせてください」というお言葉だった。今ダメなら明日も年をまたいでもダメだろう。休みの日や昼休みやアフター・ファイブに飯を奢ったり美味しい店を紹介したりされたりするような異性を好きにならずにおられるような人間なんか存在するわけがないだろう。剣桃太郎かそいつは。なめとんけ、だ。何が(以下、麻里)だ。


女に殺された翌日の食事はいつも午後4時前に近所の大阪王将で済ませている。遠くに足を伸ばす体力がないからだ。有線で星野源の「恋」が流れていた。
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posted by しきぬ ふみょへ at 18:40| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月20日

正宗白鳥『何処へ』等



"忙しい人は仕事に心を奪われて時の立つを忘れ、歓楽に耽れる人も月日の無い世界に遊ぶのであるが、此頃の健次は絶えず刻々の時と戦っている。酒を飲むのも、散歩をするのも、気焔を吐くのも、或いは午睡をするのも、只持ち扱ってる時間を費すの為のみで、外に何の意味もない。そして一月二月を取り留めもなく過ごしては、後から振り返って、下らなく費した歳月の早く流るるに驚く。"


全集は出ているけれども没後間もなくして名前を取り沙汰されるようなこともなく、講談社文芸文庫の『白鳥評論』『白鳥随筆』ぐらいしか新刊で置いていなくて、そもそも文芸文庫が街に繰り出さないと手に入らず値も張るから中々文章が読める機会を作るのに気合がいる。


50年以上に及んだ文筆生活で『何処へ』を発表したのが明治41年白鳥当時29歳、主人公の健次は中学校教師を辞し雑誌記者で愚にもつかない、心にもない社会論評で糊口をしのいでいる実家住まいの27歳。


何も起こらない。「起こりそう」までも行かないし、教訓めいたことも言わない。人生所詮こんなものという割り切りでもない。苛烈に生きたいが生きられない。知っているから。酒を飲めば酔う、放蕩すれば後悔する、その辺に綺麗な女なんかいない。こうなってくるともう阿片か戦争しかない。


阿片か戦争か、バーニング、スピード、あるいは水谷修ぐらい恥を知らずに夜道をほっつき回れたら、と、洒落ではなく真剣に考えることがある。近頃お酒の量も減ってきているのだけれどもそれは、「腹の立つ出来事があって酒を飲んで酔っ払って楽しい気分になり忘れる」までワンセットとして扱われ、そこに肉体も精神もすっかり組み込まれてしまっていることがもどかしく、翌朝しんどいしお金を払わないとお酒は買われないし、このパッケージに費す何某を既に「知ってる」から飽きてしまってきている。警察に捕まるのがいやなのでやりませんが、迷惑をかける身内も居なくなって無事年金生活に突入せられたら、ラスタまるだし、カンナビスまるだしのTシャツを着て煙を吐き出しながら富良野かどこかで土をいじって5年ぐらい余生をやろうかとも存外まじめに視野に入れている。


「世界はこのままでいいんじゃないか」と白鳥は死の年の講演で述べたらしい。クリスチャンでありながら神の存在を疑い、心酔した内村鑑三とも決別し、どこまでも「世界はこのままでいいのか?」と考え続けた人間が、奥さんに先立たれ肉親は去り、安らかな死に顔を見届け、「つまるところ、信じる者は救われる」のだという境地に至るまでにどれほどの月日と精神を削ったか。


死の床で神父の手を握りながら「アーメン」と唱えた。散文主義、シニシズムの権化とも言われた白鳥が「ああ、老いとともに結局信心に着地してしまったのだな」と叩かれたのは、藤村、泡鳴、花袋といった赤裸々告白文学と一線を保ち続けていたのに土壇場で信心を吐露してしまったからだ。白鳥も老いるのだと。


"いっそのこと、四方から自分を憎んで攻めて来れば、少しは張り合いが出来て面白いが、撫でられて甜められて、そして生命のない生涯それが何になろう。「迫害される者は幸いなり」。ていう此奴は当たってる言葉だ。苦しめられようと泣かされようと、傷を受けて倒れようと、生命に満ちた生涯。自分はそれが欲しいのだ。
健次は立ち上がるのも物憂そうに、こう考えてる中に、酒が醒めて夜風が冷たくなった。彼れは主義に酔えず読書に酔えず、酒に酔えず、女に酔えず、己れの才智にも酔えぬ身を、独りで哀れに感じた。自分で自分の身が不憫になって睫毛に一点の涙を湛えた。"


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『身の程なんて一生知るな』というナイキのキャッチコピーがあるけれども、俺は身の程というものを判り尽くして、弁えて、輪郭をキッチリさせておいてから"あえて"それを破る(あるいは拡げる)ことの方に価値があると考えている。自分のことを把握していない人間にことが成し遂げられるとは思えず、馬鹿には出来ないことをしでかさなければ人生ではない。
なんで俺はナイキのキャッチコピーにいちいち文句をつけているのだろうか?これがジジイになるということなのか?


怒りもしないとやることもない。「迫害される者は幸いなり」はキリストの言葉だ。しかしこれは頭に「義のために」という枕がある。わめきながら、義なのか自利なのか境目がわからない時がある。

最近は「のぶみ」という絵本作家の『ママがおばけになっちゃった』が叩かれている。母親が交通事故で死ぬという描写が幼児にトラウマを植え付けかねないと。死を軽々しく扱うなと。俺はのぶみという人は、このツイートを読んだ時に「死んでしまっており、この世には居ない人なのだ」と決めてしまったので、当件で裏付けが取れて溜飲が下がった。死んでいるから生命観が希薄なのは当然のことだ。この世から「羊の皮を被った」悪は消え去る運命にあるのだ、という近頃の考えが確信に変わりつつあり、とするといち中肉中背たる自分が声を荒らげる理由も見つからず、このまま四畳半で畳の染みになるまでどろどろに溶けるのを待たねばならぬのか、という茫とした恐怖を感じている。
posted by しきぬ ふみょへ at 11:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月03日

「PPAP」と生活と闘い

忘年会で「PPAP」をやらされそうになっている。2016/11/2(水)の午後3時頃、「しきぬ君に話がある」と内線をかけてきた1個上の先輩に呼び出され、普段俺がその場所で昼ご飯を食べ続けていることにより「しきぬくんが普段、昼ご飯を食べている場所」と呼ばれるようになったロッカールーム兼雑紙等を放り投げておくスペースで会合があった。


先輩は経理部なのだが、経理部長がどうやら若手同士(俺を含む4人)で組んで今流行の「PPAP」をやったら面白いんじゃないか?という思いつきによるお達しがあったらしく、伝令として渋々の申し送りをしに来たとのこと。先輩の立場上、こちらが一方的に不満を押し付けたところで板挟みにしてしまうから、表情筋で圧倒的に抗議しつつ、言葉のうえではできるだけやんわりと、なんとか収める方向に持っていけないかということ、最悪何らかの一芸を披露したとて「PPAP」だけはご勘弁願いたい、4人でピコ太郎を演る意味があるのか、1分足らずの寸芸のためにわざわざ自費で衣装をあつらえ、一応のリハーサルをやり、時間を裂き、なおかつ酒の入った場で誰もろくすっぽ注目していない舞台で駆り出される必要があるのか、冷静に考えて欲しい、とお伝えください、ほな、また、と切り上げた。


先輩の立場が一番面倒くさい。部署も違うし、越権のハラスメントを伝える飛脚をやらされるなんて、心が朽ち果ててしまう。だけれどもここは闘わなくてはならない。人間の尊厳に関わる問題だから。本当に「PPAP」をやらされる可能性が万に一つでもあるならば、徹底的に抗う覚悟である。直(じか)に経理部長とデュエルをかます構えがある。


「PPAP」そのものに嫌悪を抱いているわけではなくて、ピコ太郎も古坂大魔王も花開いて頑張っていてくれたらいいのであって、そこに一切のポジもネガもない。ただ、今流行をしているモノ、コトを「とりあえずやっといたらおもろいんちゃうのん」だけで上からグリグリ押し付けられることへ、若者として、ペーペーとして従い、これも社会で生きていく上の通過儀礼であると割り切って無表情で業務命令をこなすことが果たして是であるかという問題だ。


会社の飲み会で経理部長と話したことがあるのだが、かつては役者を目指し俳優養成の専門学校に通っており、健康不良が理由で夢を頓挫し、まっとうのサラリーマンとして生きていく道を歩んで今に至ると、若手を集めて気持ちのよい表情で喋っていた。まともに働くことを良しとせず、表現で食っていこうという時代があった人間が、社会に巻き込まれて立身出世し、階級が目下の人間に忘年会で「PPAP」をやれ、と覆いかぶされるようになってしまうのだ。


社会人、としての位が上がっていく上で、どこかで"センス"は死んでしまうのだ。あるいは、センスを殺さないとやっていけない社会なのかもわからない。夢を放擲せざるを得ないほどの病気のあとで、痛みを共有できずむしろ「押し付ける」側に回る。死ぬか生きるかなんかわからないんだから、己の思うように生きたれ、地獄に道連れじゃい、からの開き直りかもしれないけれども。とにもかくにも「PPAP」を目下の人間に無理やりやらせるという行為は精神が死んでいる。やめてくれ。ゾンビに肩を組まれたら振り払わないとこちらまでゾンビになってしまう。勘弁をしてほしい。


加えて、「PPAP」を、会社で気になっている関根麻里似の新人の前では絶対にやりたくない。クリスマスにご飯に誘おうかと逡巡しているんだよ。絶対「PPAPやらされた奴」と2016/12/24(土)という3連休の中日に飯食いたくないだろ。貴重な大卒1年目のクリスマスを。人間の尊厳と己のペニスの為に俺はジジイと闘わなくてはならない。という話。続報をします。
posted by しきぬ ふみょへ at 22:37| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月31日

フォルティシモ無意味論

おまえの涙も
俺を止められない
いまさら失う
ものなど何もない

言葉にならない
胸の熱いたぎり
拳を固めろ
叩きのめされても

激しくたかぶる
夢を眠らせるな
あふれる思いを
あきらめはしない

愛がすべてさ
今こそ誓うよ
愛をこめて
強く強く




大友康平さん率いるHOUND DOG(ハウンド・ドッグ)が1985年に発表した楽曲「ff(フォルティシモ)」。
1番の歌詞を抜粋し、吟味し、咀嚼してみたい。
1985年度年間56位(ザ・ベストテン調べ)である当楽曲が当時、日本で56番目に国民の琴線を震わせた根拠・いわれは果たしてどこにあるのだろうか。


おまえの涙も
俺を止められない
いまさら失う
ものなど何もない



作中の俺・大友康平(以下、こうへい)は「おまえ」に涙を流させてしまった。原因はわからない。けれども、俺の夢、目標を最優先事項に据えているので、今さらどうこうと咎められようがこのまま突き進むという決意表明。「いまさら失うものなど何もない」とこうへいは言う。「おまえ」を失うことを厭わないようだ。おまえの涙以上に崇高で価値を感ずるsomethingをこうへいは追い求めているようだ。果たして一体なんなのだろう。はっきりしない。最後まで。


言葉にならない
胸の熱いたぎり
拳を固めろ
叩きのめされても


言葉として表現できないほどにパトスを感じている。その対象が不明瞭だけれども、リリースされた年、こうへいは29歳。今更言葉にならない怒りを表明するにはいささかおじさん過ぎはしないか。言葉にならないことと、「言葉に出来ない」のは別だ。「言葉にしようとしたか?」「サボってない?」ということだ。ここで飛び火させるのもどうかと思うが、怒髪天の「おじさん頑張ってるんだぞロック」も馴染めない。俺もおじさんに片足突っ込んでいるけれども、果たして四十を迎えて「おじさん頑張ってるんだぞロック」を聴きながら中ジョッキを煽って月曜もお仕事頑張るぞ!と活力にするものだろうか?苦手だ。目を逸らしてしまう。


1985年。ブルーハーツが『1985』で”全ての大人に感謝します"と宣戦布告した年。尾崎豊が卒業の答辞を読み、BOOWYが『BOOWY』を発表し、北アメリカ大陸でウケていたWe are the worldが敗戦国ジャパンにも鳴り響いた。うんざりするほどメッセージが世にあふれかえっていた。さなか、このff(フォルティシモ)が期せずして一石を投じたのだ。先に結論付けてしまうけれども、この曲は「マジで何も言っていない」。


「叩きのめされても」と一口にいうけれど、叩きのめされたにしては、映像で見ている限りマイクスタンドをショルダーに担いでマッチョイズムをむき出ししている。のめされているか?のめされた男性に果たしてここまで勝ち誇った表情でとっぽいパフォーマンスが出来るものなのか。

激しくたかぶる
夢を眠らせるな
あふれる思いを
あきらめはしない

愛がすべてさ
今こそ誓うよ
愛をこめて
強く強く


叩きのめされたはずの、世の中への不平を抱いている、抑圧された人間が「強く"come on"強く」と歌詞に載っていない"come on"をはずみで口ずさむなんてありえない。そして具体的に教えてほしい。夢とは。思いとは。


言ったもの勝ち、言えばそれで完了して責任が手から離れた、となしてしまう勘違いは流石に2016年も終わりに差し掛かっているのだからそろそろ咎めたい。残るんだぞ。言葉は。「激しくたかぶる夢」「あふれる思い」と、口に出すだけならば誰にだってモンキーにだって出来る。間寛平も「誰がモンキーやねん」「ワシは止まると死ぬんじゃ」と杖を振り回した。寛平が振り回す杖のほうがこうへいのマイクスタンドよりも「近寄った際のヤバさ」にあふれてよっぽど様になっている。"声の出る人"ことファンキーモンキーベイビーズのファンキー加藤さんは公衆に向けて声を発したり、CDに焼いたりするとなぜかお金をくれる人たちがいるらしく、そのおかげで生活しているが、彼も決して意味を伝えているわけではない。亀田大穀がリング上で熱唱したのもさもありなん、だ。意味がない。


急に「愛がすべてさ」「今こそ誓うよ」と表明されたところで、「と申しますと?」となってしまう。この詞には意味および脈絡がない。言うだけならば誰にでもできることを歌うのをやめてほしい。歌ってもいいけど、家でやってほしい。


と、30年以上前のこうへいに言いがかりをつけている奴の方が頭どうかしている気もするが、こうへい→加藤の系譜として、ffのような「何も言っていない歌」の流れが出来ていることも確かで、「誰かが強く言う」をしなければ。どこかで食い止めないといけない。何だこのこみあげる使命感は。


ナンセンスと「意味がない」はどうやら違う。たとえばイマクニ?さんの「ポケモン言えるかな?」の詞は当時151匹しか発見されていなかったポケモンの名前を羅列しただけだけれども、小学生だったころは歌えない奴はクラスのつまはじきだったし、CDを買ってもらうまでは歌詞カードを友達にコピーしてもらって授業中机の下で読んでいた。ナンセンスかもしれないが、子どもたちには"意味"をもたらしていた。意味を付随させるのは受け手たる我々の仕事だ。「意味がない」とは、聞かされたところで得られる情報、知識、感慨、情、などが欠落しているもののことだ。「毒にもクスリにもならない」という言い回しがあるけれど、毒でもクスリでもないものは毒より毒だ。


現在、自身以外の全メンバーが脱退し、1人で「ハウンド・ドッグ」をやっているこうへい。「いまさら失うものは何もない」じゃない。まだ、ある。「ハウンド・ドッグ」だ。売りましょう。断捨離。削ぎ落していきましょう。意味のない歌を唄うのであれば、限りなく自己を無くし、「空(くう)」の域にまで達したこうへいの歌が聴きたい。


※こんな「意味のない」歌がありますよというご報告をTwitter「n-jomooo」までお待ちしております。
posted by しきぬ ふみょへ at 21:57| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月16日

女に金玉を握られている

■10/15、最近話題に上げることの多い『会社の関根麻里』と遊びに行った。中崎町、という、東京に住んでいる人間に説明する場合は「下北みたいな場所」といえば集まる層や店構えなんか想像がつきやすいかもしれない。町並みこそ違うけれども「古民家を改装」したようなカフェやハンドメイドの雑貨屋なんかが並んでいる。猫も杓子も最近古民家を改装しすぎじゃないか?俺も古民家を改装して何か始めたい。桃鉄をこたつで出来る店をフリープレイ1,000円からで開きます。totoBIGが当たった暁には。よろしくお願いします。


■雑貨屋でも服屋でも百貨店の化粧品売り場でもなんでも、女の付き添いで野郎が普段はまあ敷居をまたぐことのないような店に入ってこれがいいんじゃない?あれはどう?などと場をつなぐためだけに適当なアイテムを手にとって見せて「それも可愛いですね!」なんてやり取りをしている時に、己がまぬけでまぬけでどうしようもなくなり店から走り去りたくなる。可愛いとか感じるんですよ。ステキやん、みたいなものは持ち合わせているんですよ。それでも、この店にそぐわない、そぐってないんだろうな、とムズムズしてしまって背中がイーとなる。おしゃれ伊達メガネコーナーの回転スタンドから、レンズフレームがハート型になっている銀縁を選んで「これかけてみてくださいよ笑」あるいは「これかけてみてよ笑」的な平和一辺倒の疎通をやっている時に、ワイプでもう1人の俺が「うわ!女に気に入られようという試み!」と手を叩いてソファから転げ落ちている。


■宝塚の誰それさんが、とか、芦屋のなんとかさんが作ったんですという注釈のプレートがあるような雑貨屋で、関根麻里はホオズキをあしらったイヤリングを買うか買うまいかと逡巡していた。1,900円。欲しいものを買うんだったら即決せい、というような値段設定で、横で眺めながらどうするんだ、と待っていたんだけれども結局購入せず、店を出た。俺がもし「おう、買(こ)うたろけ?」と歯茎と下心を剥き出しで気を利かせようとしようものならそんなものはキャバクラ嬢と同伴中の禿頭と変わらない俗野郎になってしまうので黙って眺めていた。付き合っていたらこの時間さえも愛おしく覚えられるのかもわからないが、ただただ関根麻里の付き添いである以上は、「なに?この時間?」と懐疑をやってしまわざるを得なかった。5,6件似たような古民家を改装した雑貨屋を巡っている。全然いいんす。全然いいんすけどね。何がいいんだかわかんねーと叫ぶ口の臭いジジイにだけはなりたくないので、「嫌」とか「女ってやつは理解できんのやぜ」とナタを振り回しているわけではない。後ろを付いてってショーケースの前で白目を向いている自分が愚かだという話。


■夜は東梅田で、美味しいのにあんまり流行っていない居酒屋があって、こういう店を抑えておけば好印象だろう、という和メインのところに、前日にきちんと予約をしており、のれんをくぐった。四方竹の天ぷらっていう、大分だかで今しか穫れないから食っていってくださいよ、という大将のレコメンドがあってそれがサックサクでサックサクでたいそう旨く、カープがCS勝ちましたね、広島の酒サービスしまっせなどと賀茂金秀を飲んだ。関根麻里はアルコールが飲まれないので、俺ばかりが今回に限らず毎回酔っ払うのだけれどもずるいと思う。うめーうめーと啜っていたら、「しきぬさん、美味しそうに飲んでるから気になっちゃって。ちょっと貰ってもいいですか?」なんて枡から2なめくらいされた。


■こんなんされたら「アラ、いいですね〜〜」と勘違いをするに決まっているだろうよ。しかしこういう魔性の振る舞いを自然と、オーガニックにやってしまうのがオンナという生き物なのだと、いくら肝に銘じていたとしても当座では酔っ払っているので判断するのにえらく苦慮する。2件目の土間土間で、「すいませんがお付き合いの旨、ご了承いただいて宜しいでしょうか?」と喉まで出かかったが、職場の斜め前の席で働いている新入社員の人生を俺のようなせむし男が左右するような真似はおこがましいにもほどがあり、何もなくその場を解散した。


■寒くなってきたから温泉にでも行きたいねえ、という会話のバースを翌日思い出し、そしたら今度城崎温泉にでも日帰りで行ってみようか?大阪駅から片道特急で2時間半だから朝早くなっちゃうけども、とジャブを打ってみたら、「じゃあ会社の人も誘ってみます〜?(*^o^*)」というレスポンスだった。関根麻里にとって俺が、「休日ひまひま都合つきおじさん」という扱いだったとして、どうせ空いているだろうから1人じゃ行きづらいカフェーや雑貨屋に付き合わせるのに具合が良いとという理由で遊んでいるのだとしたら、「2人きりで遠出なんて勘違いをするんじゃないぞ、会社の人という防護膜を、ディフェンスを張るけれどもそれでもいいなら誘われるんでも無いではないが、私に行為を持っているのであればそこまで広い心を携えているわけじゃないだろう、所詮」という穿った、穿りに穿った見方も出来なくはない。一緒に過ごしていて関根麻里が斯様にも悪魔的な考えをしているとしたら恐ろしいにも程があるが、俺に好意を、ラブ・サイケデリコを抱いてくれているのだとしたらバリケードなんか張らないだろう。というか何故俺だけが悶々としなければならないんだ。不公平だ。


■女性から振られたことは多くあるけれども、こちらから関係を断った経験はない。いつも「金玉」を女性に預けている。いつでも気に食わなければちぎりとって殺してくれと。何らかの決定的な粗相の際にまるでびわの身をもぎりとるが如く俺の金玉を持っていかれて犬猫に与えられている。生かすも殺すも、命の生殺与奪の権利を握られていて、なんでこっちばかりがいつも考えて考えて裏目に出るような行動をして笑われなくてはならないんだ、というコンプレックスが過剰にある。金玉を握られたくない。ナチュラルに手と手を取り合い、わたせせいぞうのような恋愛を目指している。170cmないのに。頭をかきむしるのを止めたい。


【コラ!のコーナー】


■『小説BOC』という中央公論から出ている文芸誌で、「アーノルズはせがわ」というtwitterで24万人のフォロワーをひっさげているインターネットの人気ものが「読まずに描く名作マンガ」というコーナーを承っていて、第1回は谷崎潤一郎の『細雪』、第2回は川端康成の『伊豆の踊子』を、「作品を読んでいない立場から、内容を類推しておもしろおかしくウケるように仕立て上げ、1ページ漫画にしました」という連載を受け持っている。


■アーノルズはせがわ、という人を批判する上で、「いや、つまんね〜〜」という評価軸に置く時に、面白いかつまらないかはそれはそれで人それぞれだろうが、ウケていればジャスティスだ、と言われてしまえば「ぐぅ…」となってしまうから大手を振って釘を刺しづらいんだけれども、新書を読む時に一番好きなのが中公新書だった。だから小説BOCの出版社が「つまらないけれども名前だけなぜか売れている人」を客寄せのパンダ方式で組み込んでいるんだ、と思うとショックだった。しかも、「読まずに描く」って、インスタントに寄り添っていますよね。文芸誌を買うような人間が一番忌み嫌うものだろ。なんで寄り添うんだよそっちに。出版社の公式広報アカウントがつまらないと落ち込む(平凡社ライブラリーのアカウントが「ゲイ短編小説集」をさも腐女子と呼ばれる層にほおずりするようなツイッターをしていた時にたまらなく嫌だった)。


■『細雪』は上中下とそれこそ中公文庫で別れているから読むのに時間もかかるし覚悟がいる。ばかみたいに「読んでないけど語ってみたった笑」ユーモアが成り立つのはまあそれとして、伊豆の踊子は全然長くないし、さっさと読んだらお終いだろ、「小難しく、大昔文章を書いている人を戯曲化したった笑」的な笑いでお金をせしめている連中が存在していることが腑に落ちない。それは文芸誌で決してやってはいけない。やってほしくない。


■岩波文庫の青でも緑でも、「評価が定まった」作品しか文庫化されない。だから一介の愚ザラリーマン(千原兄弟の「矢ザラリーマン」に影響を受けている)がどうこういう筋合いは無いけれども、今ウケている、ひたすらつまらないアーノルズはせがわの1ページ漫画は彼が死んだあとでボロクソ言われるとしても、存命中ちやほやされればそれでOKだから悔しくてたまらない。お金ももらえているからね。


■「アーノルズはせがわ」がウケて経済が産まれている現状。


■このまま関根麻里とうまく行かなかったとしたならば、クリスマスイブ、飛田新地で25,000円なりでエッチをしたろうかと考えている。今年の12月24日は三連休の中日だ。GOGO!!か?糞がよ。
posted by しきぬ ふみょへ at 23:14| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月13日

宗教と自動車と人気もの

某人気ベータツイッタラーの日常用アカウント("ネタツイ用"ではつぶやけないこぼれ話のための)において、去る8月4日に以下のような発言があった。


"車を運転する人が歩きスマホをバチバチに叩いているのを見ると「この人の中では歩きスマホはNGで自分の移動時間を短縮するためだけに歩行者を轢き殺すことのできる道具を使うことはOKなのか……」と頭がクラクラするんですけど、この話はもう宗教に近いのかもしれませんね。”


日常用のアカウントといえどフォロワー数は流石の2800人、当投稿のリツイート数は200回を超えている。俺のタイムラインにもこのつぶやきが回ってきた。なるほど少し過激な内容でウケているのだろうな、と流しかけたのだけれども、引っかかった。これは一体どこが「宗教」なんだろうと。


「歩きながらスマートフォンを操作することはNG」であることと、「自分の移動時間を短縮するために自動車=歩行者を轢き殺せる乗り物を運転することがOKになる」が結びつき、しかもそれが「宗教に近い」という。申し訳ないけれども一見にはさっぱりわけがわからなかった。某ベータツイッタラーさんに意を問うリプライを送ってみたけれども当人からの返事が無かった(どうせ無視されるんならと悪のりをして「BROTHER時代のたけしが一番格好よくないか」、と問うてみたけれどもなかったことになった。これだけに返事来たら面白かったのに)。なので、某ベータツイッタラーさんの中で発言がリツイートされて意図せず膨らんでいくのが許容されるのであるならば、ブログで引用するのも大して変わらないだろう、と誠に勝手ながら当発言の脈絡について考える。


まず、この場合の「宗教」の意味合いはなんだろうか。おそらくは宗教、という言葉に対してのマイナスイメージ(カルト、洗脳、妄執、水中クンバカなど)に端を発しているんじゃないか。つまり某ベータツイッタラーさんの中に軸としてある『自動車運転絶対最悪教』の戒律に「自動車の運転は人間を殺す可能性がある→人間を殺しうる存在は悪だ→すなわち自動車は悪である」とあって、とすると、{「頭がクラクラする」=自動車という兵器を操っている人間が、「歩きスマホ」という不注意甚だしい行為にケチをつけていることに混乱している。} すなわち、いつでも人を殺せることにある状況にある(命を手玉に取れる)のにも関わらず、"「死」に意を向けていない連中に怒りを覚えている奴ら"という存在の矛盾、に疑問を感じずには居られないのである、と解釈した。


そのような"極論"で物事を捉えてしまう自分は『自動車運転絶対最悪教』の信徒で、"極論"といえ宗教、なるほど「宗教」なのかもしれませんねと。というように、極論と宗教がイコールなのではないだろうか。


(「物流」は誰が支えてるんだ、人を殺せるトラックの運ちゃんじゃないのか。という反論をしている方も居たが黙殺されていた。今は「"宗教"かもしれませんね」とのことなので、残念だが的外れとしてふいにされたのかもしれない。プレイステーションの「交通整理シミュレーションゲーム・ナビット」を極めてプレイをVHSで収録して着払いで送れば反応があるかもしれない)


俺も一応免許は持っているけれども、自動車の運転はなるべくやりたくない。が、労働で「運転自信ないんで…エヘヘ…」を無理やりこじ開けられてハンドルを握らされることもある。


基本的にはなるべくして「人を殺す」「己が死ぬ」リスクを少しでも回避したい。メチャクチャ生きたいし殺したくないから。嫌で嫌で仕方なくやっているのに、ちょっと地下駐車場で駐車にミスりリアバンパーを擦って始末書を書かされた。俺は失敗しまっせ、と散々フリをして案の定やらかしたのに真面目に怒られていることに理不尽を覚えて『自動車運転悪教』に入信はしている。しかしここで某ベータツイッタラーさんと違うのは、『自動車運転絶対最悪教』と宗派が微妙に別れているということだ。俺は自動車の運転が上手い人、なりわいとしている方々を尊敬している。


例えば自分の父親の車に乗って家族で旅行に連れて行ってもらったことも沢山有るけれど、父親が「移動時間を短縮するためならば歩行者を轢き殺してもよい」とというドグマに則りホンダ・ステップワゴンを運転していたとは思えない。というか、いざ出発の間際に「父さんはな、人を轢き殺すリスクよりも移動時間の短縮を選んだ。さあ車に乗れ。」と宣言されたら怖すぎて振り切り、家でスーパーファミコンをするほうを選ぶと思う。


『自動車運転絶対最悪教』は完全なる「極論」です。でも俺は"あえての極論"というものが面白くて、きちんとわかりきって右に左に針が振れている人にはそのままやっちまえ、と背中を押したくなるが、やっぱりご意見として(ネタ用と日常用でわざわざアカウントを使い分けしているのもあるし)世に発しているのであれば、ある程度は事情を説明できる地盤が固まっていてほしい。「ギャグ」なら、「ギャグでした〜っと!」と片足を上げてダブルピースしてもらえれば「な〜んだ〜〜」で(あくまで俺の中では。世間様は黙っておかないかもしれない)収まるのだけれども、じゃないのなら宗教、なんてデリケートでありながら壮大で、人類が生まれてからずっとあるのに、ずっとあるのにも関わらず未だかつて明確に定義づけられていない言葉を、ぞんざいに取り扱うのはよしたほうがいいと思う。ましてや「轢き殺す」なんて扇情的、アジ的な言葉が乗っかるのであればなおさら。


「反応の取捨選択」が怖い。何かの拍子に自分の声が届く範囲が広くなったとして、90%賛成、10%反対という結果が出た時に「10%」の声を無いことにしてしまえる。人間なんて己に都合がよければいいのでそりゃ90の波に乗ってしまえればあとはGOGOになる。10の反対というさざなみを「うるせえな」で抑えつけられる。「タバコを吸っている人は、早死にすると覚悟しているのだから今すぐさま殺しても構わない」と叫んだって、90賛成していればその人の中では正義になってしまう。ツイッターのフォロワー、なんて「フォローをしてくれる人」なんだから基本味方で応援してくれて、好き放題言えがちだけど、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)でアーカイブとして残るんだぞおい、と殊勝に、弁えなくてはならないと思っている。とはいいつつ、俺がブログを書いても、2000人弱の「フォロワー」の支えをかいくぐって「計5いいね」だったりする。俺がアフィリエイトで覚せい剤売っててもバレないと思う。
posted by しきぬ ふみょへ at 23:45| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月09日

梅崎春生『幻化』




九州に向かう飛行機の中で偶然知り合った映画会社の営業の丹尾(にお)という男と、阿蘇山で賭けをする。「丹尾が火口を一周して元の場所へ帰ってくるかどうか」つまり、飛び込まずに無事に戻ってきたら貴方の勝ちですよ。と。ハサミで万札を真っ二つに断って、半分をしまった。2つに繋ぎ合わせなければもう使い物にならない。
主人公は精神病院を脱走している。戦争が終わってから、「自分が自分でないような感覚」に苛まれるようになった。「悲哀」に心は動くのに、「笑い」には一切鈍くなった。夜中に玄関のブザーが鳴って、ドアを開けても誰もいない。壁にはアリが這っている。それを医者に説明することをしたくない。そんなことを言うやつはまともではない、という認識はまだ残っている。


ほうぼうを回る。戦時中に奄美出身の兵長が酔っ払って調子こいて、海に関してはマジで自信があるから泳ごうぜ、とざぶざぶ入っていって心臓麻痺で死んだ岬。その時は気づかなかったけれども、彼は自殺するつもりじゃなかったのか?暗号兵(作者の梅崎春生も枕崎で従軍していたこともある)という立場、戦局の実況がいちいち聞こえてくる。彼の一家のある辺りが焼き払われたとか、守りがどんどん手薄になる様子も一番最初に知る。明確に自死の意思があったかどうかは定かでないが、死ぬギリギリの縁まで行ってみようかな、と覗きに行って、踏み外して死んだのかもしれない。


砂浜で貧血を起こし、木陰でしばらく眠る。精神病院で入院していた時に同室だった「チンドン屋を見ると"頭がばかになってしまう"」おじいさんがいて、同室の連中で共謀してチンドン屋のマネをしたらおじいさんどんなになるだろう、とスレスレのギャグをやった。そのことをふと思い出し、砂浜でひとりチンドン屋をやった。つい面白くなってきた。誰も見ていないと思った。そうしていたら、浜辺で魚をすくっている少年に視線をくれられているのに気がついた。"おじさんは気違いじゃないんだ。安心しなさい。"


少年の父親はタクシー運転手をやっていた。無下にもできず、馴染みの按摩が働いている旅館まで連れて行かれ、泊まっていきな、ということになった。按摩を呼んだ。老人が来た。もごもご背中を押しこくられていたら、ずしっと圧がかかった。さては、と様子をうかがうと背中に両足で乗られていた。は?なんでじいさんによりじいさんの足で踏まれなくちゃならないんだ?元を正せば少年と仲良くなったのも、魚獲りとチンドン屋が一瞬交錯してその場でバイバイ、が綺麗だったんじゃないのか。大人に余計なおせっかいをするな。なめんなよ。腹が立ってきた。"不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着替えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。「おれは憐れまれたくないんだ」怒りのあまり、布団の襟にかみつきながら思った。「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」"


死ぬことと生きていることの境界線は一歩跨げば超えられてしまう。誰かに引っ張ってもらわないとぐらっと崩れてしまうこともある。兵長も無理やりあの時咎めていたら生き永らえていたかもしれないが、「そうやって死ぬこともあるだろう人間なんて」とつい他人事のようになり、見過ごしてしまった。


映画会社の営業は事故で妻子をなくしてから、常にポケットにスキットルを忍ばせて酒びたりになった。彼も「自分が自分でなくなってしまった」人間だった。自殺の賭けをしましょうよ、一周して戻ってきたらお金あげます。主人公は観光地用の望遠鏡に小銭を入れて様子を追いかけた。「あいつは俺なのか?俺はあいつか?」と境目がぼやけて、ふらふら火口に吸い寄せられそうになる男に視線を注力してしまう。


"しっかり歩け!元気出して歩け!"もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなっていくようだ。そしてふらふらと歩き出す―"


梅崎春生は『幻化』の前編を発表した一ヶ月後に肝硬変で死んだ(後編は死後に発表された)。「しっかり歩け!元気出して歩け!」と彼方の自分の肩を揺さぶった。人間の命を係累しておく何か、へ意識が傾き、探りだしたら瀬戸際と思う。どこまで行ったら自分は死ぬのか?とおぼろげの中を歩いていってがくんと道を踏み外してぽっくり逝ってしまうこともある。肝臓が固まったのも酒のやり過ぎが原因だった。ここからは過度でここまではセーフだ、という線の上を歩いているとふと、死んでしまう。作者自身、鹿児島県坊津基地で特攻隊を見届けていた側だったから、なんで俺は生きていて、彼らは死んでいくのだろう、というラインが茫としてしまった。『幻化』という表題がそのものずばりと思う。では、何処へ?という。
posted by しきぬ ふみょへ at 11:50| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月03日

尾崎翠『第七官界彷徨』



「点描ということは吾々散文作家が、今までの自然主義時代の一から十までくどくど説明するというような手法ですが、ああいうものに吾々は飽き飽きしたのです。…(中略)…とにかく自然主義的な、ものの考え方とか手法、あれで日本の文学というものが非常に腐ったと思います。平板です。もうすこし新鮮な立体的な文章を欲しいのです。」
「心境文学、触覚文学というものを書きたい」


昔、一度目に読んだときはなんだかもやめいて筋があるようでないようで、何が書かれているのだかむず痒い感覚しかわかず、さてどうしようかと、評判だけで入ってしまい尾崎翠の「第七官」を理解しようとする端緒を引っ張り寄せられる感受性もはなから持ち合わせていなかった。というか、未だにわからないのだけれども、群ようこの『尾崎翠』で引用されている座談会での上記の発言を読んだら、ようやく「第七官界彷徨」の糸口を手繰り寄せられるのかもしれない気がどことなく沸いてきた。


「夢はつまり、思い出の後先」とサングラスをかけて大麻をやっていたおじさんが歌っていたが、鋭敏に、鮮烈に心のひだにトゲが刺さった出来事を膨らませて形にする。「第七官」「恋愛」「慕情」の中に潜まった「もやもや」は万人がそれを受け止めきれる感性を持ち合わせているわけではない。もやもや病で徳永英明は苦しんだ。もう「もやもや病で一時期お休みをもらっていた」、って一生ネタの十字架を背負っていくのは気の毒だ。あと、お金を持っているのだから歯を直した方がいい。


俺みたいな者が死ぬるまでわからない核、コアの部分があって、それを主軸に扱われたら如何ともし難いと諦めていたのだけれども、「心境文学、触覚文学を書きたい」にハッとした。この人は、「指紋で触れて心の中で感ずられた」出来事を理屈を超越して成形しようとしていたんじゃないか。尾崎翠が主人公=小野町子の分身として、精神科医の長男、苔の研究をしている次男とそれぞれの兄弟および、音大浪人中の従兄弟と4人暮らしで進むんだけれども、「心境」を表す上で、@精神科医の常にサイエンティフィックに理詰め理詰めで、あまり感情を表沙汰にしない長男、A「苔」、「蘚」のうずうずというかもぞもぞというか、肥やしを鍋で煮やしてバイオ、ナマモノ的に有機的に女の心情を解きほぐす次男、B音大志望でとにかく理屈はのけといて肉体的にアプローチをかけてくる、エネルゲンを活力源にする従兄弟、という三者三様との生活。というか、三人共血縁関係なのに「肉薄」が薄紙一枚なので、恋愛感情を近親に抱いてしまうインモラルは一旦外に捨て置くべきと思う。なんだかそういったものさえくだらなく感じる。


おもしろいのが、尾崎翠は「まるで設計図を引くかのように」この話を書いたとのことで、絵コンテを別に用意し、登場人物の配置や舞台設定とかインテリアを前もって緻密に設定していたらしい。「心境文学」を標榜するうえにおいてさえ、心のうちを書きなぐるのではなく、あくまで、自分の中では説得力を持たせたうえで言い訳しない。あまり世間を喜ばせようというサービス精神があったわけでなく(同時代の林芙美子が意気揚々と「放浪記」を発表するのを傍目に眺めながら、かえって内々へと向かっていった)、あくまで己が納得することが最前提の文章を書いた。つまり、尾崎翠の体内に流れる「第七官」に輪郭を与えたゼラチン質、じゅん菜。


蘚苔の研究をしている次男の部屋に茹でたかち栗を運ぶ場面の文章

"うで栗の中身がすこしばかり二助の歯からこぼれ、そしてノートの上に散ったのである。私は思わず頸(くび)をのばしてノートの上をみつめた。そして私は知った。蘚の花粉とうで栗の粉とは、これはまったく同じ色をしている!そして形さえもおんなじだ!そして私は、一つの漠然とした。偉(おお)きい知識をえたような気もちであった。ー私のさがしている私の詩の境地は、このような、こまかい粉の世界でなかったのか。"


フォーカスの絞り値を上げて限りまで寄って寄った「栗の破片」と「蘚のなごり」に共通点を見出す。「こまかい粉の世界」、吹けば跳ぶような、とは、「村田だ。ガムくれ。」でおなじみの村田英雄も歌っていた。ページをめくった風圧でいなくなってしまうようなトンボの羽の網目をなぞるような書き方だ。結局尾崎翠は「わからない」ままであって欲しいし、誰かが「わかる!」と言い出したのなら、特に野郎であるならば懐疑的、舐めんなよ、と頬を平手打ちしてしまうと思う。尾崎翠は有声映画=トーキーが気に召さず、「こっちのの想像で補うから邪魔するな」と張り倒す。どこまでも心境が張り詰めすぎて、頭痛薬中毒になり文壇から姿を消してしまった。もったいないけれども、ここまでの繊細をやり続けることもそうそう出来ないと思う。押し入れには衝動買いしたフルーツバスケット全巻が3年近く眠っている。いい加減に読まないと、Lカゼイシロタ株を体に入れ続けないとすぐ腸に毒が貯まるので、「第七官」の要素もどんどん取り入れ、ゼッタイキレイになってやると思いました。
posted by しきぬ ふみょへ at 21:57| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月02日

失意そしてカラオケそして失意

■斜め前の席で働いている新人の女の子から「休みの日に"お茶"しませんか?」とLINEが来た。オンナ側から休みの日にコマを埋められるなんてマジかよ、とついつい浮かれて0つ返事でOKをした。京都のカフェをめぐりたいというので、そこ知らぬふりをしながら、前の彼女が行きたがっていたが結局行けなかった『嵯峨野湯』という、銭湯をリニューアルした嵯峨嵐山駅徒歩30秒のステキカフェを、「さも私が発見しました」というていで提案した。


■嵯峨野湯で俺がカレーとサラダ、女の子は季節限定で巨峰とキウイが散りばまってチアシードが小脇のポットに携わっているパンケーキを注文した。チアシードってなんですか。ない食べ物を提供しないで欲しい。15穀米。全穀物が入ったライスカレー、カフェーサイズでガバガバ片付けられるのだけれども、パンケーキが片付くスピードに合わせてライスの岸壁を削り削り微調整した。銭湯を改装、なんてあら、いいですね、とお風呂場のタイルとか脱衣所の鏡なんかがそのまま残っていてレトロおしゃれ、が過剰に炸裂していた。ここまでは試合運びは上出来と思う。近辺の古本屋にも寄って適当に岩波文庫を買って、文化的素養のアピールも忘れない。


■妙に、「最近ハマっていることはなんですか?」「服どこで買うんですか?」「メガネいつからかけてるんですか?」とパーソナルのやつを訊かれる。もしやさては俺に興味があるのか?いけまっせか?かましまっせなのか?と全能感が漲ってきたがそうではなく、俺が話題を振られない限り一切喋らず(本当は、喋ろうと思えば無限に喋られるのだけれども、中身をうすーくうすーくクレープの皮のごとくのばしてなぜているだけで、シャバシャバで中身の無さに自分で自分にふとうんざりしてトラックに身を投げてしまうのでやらない)、場がもたないことに気を遣っての配慮だった。ディズニーショップとか、オンナのオシャレのお店とかが視界に入るとその娘が「入っていいですか?」とお伺いをしてくる。ちなみにこの娘は関根麻里に似ていてご両親に大切に育てられた善の化身です。無論従う。この"オンナに振り回されている俺"、という構図の「父性」という上っ面で塗り固めたゴケミドロを早いところキムワイプでくるんで捨ててしまわねばならない。あくまで経験を是とするならば、これ即ち幸せにはつながらない感情だ。


■夜飯食べて、酒を飲んで、2軒目どうしようかで三条の水回りを歩いていた。「カラオケ、何歌いはるんですか?」と尋ねられたので、これはカラオケに入りたいという合図、暗黙のやつと合点し、じゃあ、カラオケいこうか、と主導権をひっさげた。有事の場合も考慮し、セブンで1万円おろした。「えっ、わたしうまくないんで」も謙遜、またまたまた、と勘違いし、ジャンカラの受付が案外並んでいるところで諦めて引き返せばよかった。飲み放題で90分3,000円弱のプラン「しかありません」と、そんなわけないのに、もうそれしかないのでさっさとてめえら宜しくお願いしますというぐらいの圧力でジャンボカラオケ広場の店員がそう申してくるので、「絶対単品のプランあるだろ」ともめようとしかけて半歩足が前に出たが、関根麻里の前でバトルをやりたくないし時間ももったいなかったので飲み込む。アルコールのボトルが一本付いてきますというサービスに憂慮無く鏡月を注文、ひとりで空けた。


■謙遜ではなく真剣に歌はそこまでというかカラオケ自体好きというわけでもなかったようで(下手でもなんでも持ち前の"父性"で熱せばなんでも食べられてしまうのだけれども)、つじあやのの『風になる』しか歌ってくれなかった。しきぬさんの歌ってるところがみたいです〜、一緒に歌いたいです〜、とスピッツのチェリーを2人で唱和した。もう行ってしまってもいいやつだろもはや、やんぬるかな、よっぴいてひやうど放つ、とばかりに閃光の如く距離をにじり詰めたらその分、にじり引かれた。なるほど。


■話はがらっと変わって申し訳ないけれども、学生のときに好きだった女の人と先々週、久々に2人で半日遊んだ。まあこれまた夜カラオケに行って、その人も異性関係でへまをこきがちで、「失恋ソング縛りにしよう。しようずw」となり『サボテンの花』『木綿のハンカチーフ』『あの素晴らしい愛をもう一度』『大きな玉ねぎの下で』などが飛び交った。その人がトイレに行っている間に真島昌利の『空席』を歌った。「アイスクリームは溶けたけれど 謎はついに解けなかった」の時に部屋に戻ってこられて「アイスクリームは溶けたけれど、謎はついに解けなかったんだね」といじられた。悔しいので真島昌利の空席についてなにか文章もいつか書いて屈辱を克服しなければいけないのだけれども、置いておいて、カラオケ屋飲み放題のウーロン茶が99%のウーロンハイを己のために2杯ずつ注文し、時間が来て個室の土間土間に移った。


■その人が「なんだか甘えたい、最近甘えたくて仕方がない」などと抜かしやがり、俺を掘りごたつの隣席に招きカバンからブランケットを取り出し被せてきた。おもむろに。なんだこれ、なめてんのか。だっふんだだろこれ、と勇み、軍艦マーチ、ひらけチューリップ、すすめパイレーツとばかりに懐に潜り込もうとしたらこれまたディフェンスをされた。カーテンが閉まった。要はキッスをしようとしたらキッスはあかんぜよとのことだった。ふうむ、と髪の毛の匂いだけを散々鼻腔に刷り込ませ、カードでおごった。何故ならば髪の毛の匂いを嗅がせて頂いたからだ。


■関根麻里の話に戻ります。解散してLINEで「最後のほうなんか発言がちぐはぐだったですけども大丈夫ですか?」と届いた。渾身のにじり寄りは「ちぐはぐなおじさん」どまりで済んで(済んだと思いたくて)、酔っ払ってこの程度の体たらくで住めばよしなしごとなので、素知らぬ顔をして月曜からまた勤労をすればいい。でもずっと「俺はなんなのでしょうか??」などとぶつぶつ呟いていた気もする。怖いですね。


■京阪で淀屋橋までたどり着くと御堂筋線が終了をしており、三井住友ビルのシャッター前でしばらくビバークをした。おまわりさんにもお声をかけていただいたが、「自分の意志なんで大丈夫す、自分の意志なんで!」と表明し事なきを得た。朝まで粘ろうかと思ったが小雨も振ってきて流石に冷えてきて、あと切なくなってきて立ち上がって歩き出した。地図アプリで家を調べると南へ向かって14kmとの表示、一瞬だな、と歩を進めたが新今宮あたりで心折れ、タクシーを拾ってようやく帰った。6,000円だった。有事の際の1万円がここで役に立った。常にうまくいくな。人生は。


■ミラン・クンデラという作家が好きで、『笑いと忘却の書』では「笑い」には「天使の笑い」と「悪魔の笑い」と2種類あり、牧歌的なおもしろがはびこったら終わりだから俺はそれに立ちはだかる、と標榜していて、げに全く大賛成で格好良くて、デビル・ギャグを認められない連中の墓にクソぶっかけて終いよ、と考えているのだが(中島みゆきちゃんの「君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる」まさしの「せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師になれるよ」に通ずるものがあると思っている)、この人の作品で腑に落ちていないのは登場人物軽々しくセックスしすぎという部分。たぶんそんなにセックスはできない。そんなにセックスできないということに決まっている。日本では。外国は知らないけど。行ったことないから。セックスしても本書くのか。書く人もいるか。


■DAMチャンネルで朝井リョウの『何者』の劇場版予告編がやっていた。「就職活動に無事成功し、彼らは"何者"かになれるのか?!」とのこと。じゃかあしすぎる。就職活動をこなした果てに俺は何者かになっているか?「俺は朝井リョウ、ライバルなんだよ」と関根麻里に言ったら聞いてなかった。


■10月にコミティアがまたあるらしい。やりすぎだろ。先日頒布された『別冊ZOO』という、「動物」をテーマにインターネットのひょうきんものがこぞって寄稿した同人誌のサークルに呼ばれたくて仕方がない。動物も大好きだし、ひょうきんだから。でも数字を持っている人しかお声がかからないので、インターネット六等星の俺なんか丁稚もいいとこ、ビクトリーインターネットロードが果てしなすぎて参ってしまう。加えて昔、ZOOメンバーのひとりでスズコスケさんというインターネットひょうきんビクトリーに「いけすかないので死んでください」という旨で"凸"をしてしまい討ち死にをしたので、己でまた一縷の未来を打ち消してしまったので難しいが、まだ諦めてはいない。動物も大好きだし、ひょうきんだから。ハムスター飼ってました。
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posted by しきぬ ふみょへ at 15:59| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする