2016年12月13日

朝井リョウ『何者』

何者 (新潮文庫) -
何者 (新潮文庫) -


朝井リョウの『何者』を読んだ。

大学生がたくさん出てくるのに、セックスのシーンがなかった。確かに俺にも大学生活でセックスのシーンはなかったが、他の大学生にはセックスのシーンの1つや2つあると思っていた。演劇サークルで脚本を書いている主人公、バンドをやっている主人公の友人。とその元彼女、元彼女の留学仲間、同棲相手がアパートの一室で就活対策をする。真面目にやるわけ無いと思う。セックスがないと嘘だ。小説なのだから嘘なのだけれども。

作者=朝井リョウの実経験に視座した目線で描いているのであるならば
「セックスはあって当たり前」
「当たり前なのだからいちいち描写するまでもない。読者でおのおの補うべき」

と、あぶれつちまってるろくでもない学生連中の声なんか耳を貸すまでもないのか。

作者は(インターネットで流布されている情報によると)「サラリーマンをやってみたかったから」という理由で東宝に就職せられたのだから、「就職活動」という壁にぶつかっている人間の剥がしやすい表層を問題意識として切り取り、成し得た者目線で「就活あるある早く言いたい」をやっているだけなんじゃないか。ともあれ、この『何者』を書く材料として、就職活動を一通りこなした上で「勝者」の立場から物が言えるのだから、その競争で敗者となってしまった側からの異論・反論・嘆きを全て腕(かいな)で塞ぎ込んでしまえる。


一歩引いた目線から物事を観てしまう主人公が、「馬鹿になれている」人間にどこか羨ましさを覚えつつもやはり入り込めないもどかしさ、踏み切れない煮え切れない。就活という"通過儀礼"になんらかの意味を見出そうとしても能わず、達観したような素振りだけは一丁前になった。
SNSでの「皮」と目の前に居る実際の友人連中とのギャップを鼻で笑い、「弁えている俺だけは特別なんだ」と自分に言い聞かせる。


そんな腹のうちが、カンボジアまで海外ボランティアに行き難民支援、学部やゼミを刷った名刺を配ってインターンやOB訪問に愚直に励んでいる女にバレてしまう。「ツイッターの裏アカウント」が見つかったからだ。途中途中、「この主人公のことはどうしても好きになれんな」と思いながら読んでいた。「そこで人の言葉借りちゃダメだろ」とか、「案外先輩も大したこと言ってないのに感銘を受けるなよ」など。@NANIMONO で周りを馬鹿にしまくっていたつぶやきが10ページに渡りひたすら暴露されるシーンは最初「ダサすぎる、恰好が悪すぎる」と引き笑いをしながらページをめくっていたが、「こんなにボコボコにしたるなよ」となんだか引くのが笑いに勝って切なくなってしまった。大層な問題では、ない。「鍵のかかっていない裏アカウント」で好き放題発言している事実が露呈されるというのは「夜中に外でちんちん出して楽しんでたら、まさか本当にちんちん見られて大変なことになった」というのと同じで、露出趣味でスリルを味わっていた人間がおまわりさんに見つかったというのと大差ない。


"「そうやってずっと逃げてれば?カッコ悪い自分と距離を置いた場所で、いつまでも観察者でいれば?いつまでもその痛々しいアカウント名通り【何者】かになった振りでもして、誰かのことを笑ってなよ。就活三年目になっても、四年目になっても、ずっと"


自尊心に粗塩を、しかも番手の大きいサンドペーパーで擦り付けられた主人公は、まるで憑き物でも取れたかのようになり朗らかに集団面接に挑む。いまは「自分の言葉で」しゃべられている。己が【何者】なのか、なんて思い煩わされていたのが遠い昔のようだ。受かるか落ちるか。それよりもきっと僕は「大丈夫」だろう。とのことだった。エピローグでの自己PRでも、考えがまとまっていない主人公を「ダサい」と捉えられうる書き方をしているようで、面白かった。


”プロフ欄”でスラッシュでぶつ切りに区切られた単語単語、要素要素で自分を取り繕って着飾って【何者】かになったつもりでいる連中はダサい、痛い、愚にもつかないという視点においての「下に見る」という行為。定義付けしたがりの、名前をつけたがりの、人間を何らかの枠に当てはめがちのこのご時世がくだらないのは同意なんだけれども、この小説が扱っているテーマたる「紋切り型で定義付けを強いられる現代社会」という主軸自体がせせこましく、しかしこういった時代に生まれてきてしまっていることすらの嘆きだったとしたら、平成世代の旗手たる朝井リョウ先生には更なる大上段で時代に斬りかかっていって欲しい。問題のスケールをもっともっと拡充できないものだろうか。
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2016年11月20日

正宗白鳥『何処へ』等



"忙しい人は仕事に心を奪われて時の立つを忘れ、歓楽に耽れる人も月日の無い世界に遊ぶのであるが、此頃の健次は絶えず刻々の時と戦っている。酒を飲むのも、散歩をするのも、気焔を吐くのも、或いは午睡をするのも、只持ち扱ってる時間を費すの為のみで、外に何の意味もない。そして一月二月を取り留めもなく過ごしては、後から振り返って、下らなく費した歳月の早く流るるに驚く。"


全集は出ているけれども没後間もなくして名前を取り沙汰されるようなこともなく、講談社文芸文庫の『白鳥評論』『白鳥随筆』ぐらいしか新刊で置いていなくて、そもそも文芸文庫が街に繰り出さないと手に入らず値も張るから中々文章が読める機会を作るのに気合がいる。


50年以上に及んだ文筆生活で『何処へ』を発表したのが明治41年白鳥当時29歳、主人公の健次は中学校教師を辞し雑誌記者で愚にもつかない、心にもない社会論評で糊口をしのいでいる実家住まいの27歳。


何も起こらない。「起こりそう」までも行かないし、教訓めいたことも言わない。人生所詮こんなものという割り切りでもない。苛烈に生きたいが生きられない。知っているから。酒を飲めば酔う、放蕩すれば後悔する、その辺に綺麗な女なんかいない。こうなってくるともう阿片か戦争しかない。


阿片か戦争か、バーニング、スピード、あるいは水谷修ぐらい恥を知らずに夜道をほっつき回れたら、と、洒落ではなく真剣に考えることがある。近頃お酒の量も減ってきているのだけれどもそれは、「腹の立つ出来事があって酒を飲んで酔っ払って楽しい気分になり忘れる」までワンセットとして扱われ、そこに肉体も精神もすっかり組み込まれてしまっていることがもどかしく、翌朝しんどいしお金を払わないとお酒は買われないし、このパッケージに費す何某を既に「知ってる」から飽きてしまってきている。警察に捕まるのがいやなのでやりませんが、迷惑をかける身内も居なくなって無事年金生活に突入せられたら、ラスタまるだし、カンナビスまるだしのTシャツを着て煙を吐き出しながら富良野かどこかで土をいじって5年ぐらい余生をやろうかとも存外まじめに視野に入れている。


「世界はこのままでいいんじゃないか」と白鳥は死の年の講演で述べたらしい。クリスチャンでありながら神の存在を疑い、心酔した内村鑑三とも決別し、どこまでも「世界はこのままでいいのか?」と考え続けた人間が、奥さんに先立たれ肉親は去り、安らかな死に顔を見届け、「つまるところ、信じる者は救われる」のだという境地に至るまでにどれほどの月日と精神を削ったか。


死の床で神父の手を握りながら「アーメン」と唱えた。散文主義、シニシズムの権化とも言われた白鳥が「ああ、老いとともに結局信心に着地してしまったのだな」と叩かれたのは、藤村、泡鳴、花袋といった赤裸々告白文学と一線を保ち続けていたのに土壇場で信心を吐露してしまったからだ。白鳥も老いるのだと。


"いっそのこと、四方から自分を憎んで攻めて来れば、少しは張り合いが出来て面白いが、撫でられて甜められて、そして生命のない生涯それが何になろう。「迫害される者は幸いなり」。ていう此奴は当たってる言葉だ。苦しめられようと泣かされようと、傷を受けて倒れようと、生命に満ちた生涯。自分はそれが欲しいのだ。
健次は立ち上がるのも物憂そうに、こう考えてる中に、酒が醒めて夜風が冷たくなった。彼れは主義に酔えず読書に酔えず、酒に酔えず、女に酔えず、己れの才智にも酔えぬ身を、独りで哀れに感じた。自分で自分の身が不憫になって睫毛に一点の涙を湛えた。"


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『身の程なんて一生知るな』というナイキのキャッチコピーがあるけれども、俺は身の程というものを判り尽くして、弁えて、輪郭をキッチリさせておいてから"あえて"それを破る(あるいは拡げる)ことの方に価値があると考えている。自分のことを把握していない人間にことが成し遂げられるとは思えず、馬鹿には出来ないことをしでかさなければ人生ではない。
なんで俺はナイキのキャッチコピーにいちいち文句をつけているのだろうか?これがジジイになるということなのか?


怒りもしないとやることもない。「迫害される者は幸いなり」はキリストの言葉だ。しかしこれは頭に「義のために」という枕がある。わめきながら、義なのか自利なのか境目がわからない時がある。

最近は「のぶみ」という絵本作家の『ママがおばけになっちゃった』が叩かれている。母親が交通事故で死ぬという描写が幼児にトラウマを植え付けかねないと。死を軽々しく扱うなと。俺はのぶみという人は、このツイートを読んだ時に「死んでしまっており、この世には居ない人なのだ」と決めてしまったので、当件で裏付けが取れて溜飲が下がった。死んでいるから生命観が希薄なのは当然のことだ。この世から「羊の皮を被った」悪は消え去る運命にあるのだ、という近頃の考えが確信に変わりつつあり、とするといち中肉中背たる自分が声を荒らげる理由も見つからず、このまま四畳半で畳の染みになるまでどろどろに溶けるのを待たねばならぬのか、という茫とした恐怖を感じている。
posted by JET at 11:26| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月03日

「PPAP」と生活と闘い

忘年会で「PPAP」をやらされそうになっている。2016/11/2(水)の午後3時頃、「しきぬ君に話がある」と内線をかけてきた1個上の先輩に呼び出され、普段俺がその場所で昼ご飯を食べ続けていることにより「しきぬくんが普段、昼ご飯を食べている場所」と呼ばれるようになったロッカールーム兼雑紙等を放り投げておくスペースで会合があった。


先輩は経理部なのだが、経理部長がどうやら若手同士(俺を含む4人)で組んで今流行の「PPAP」をやったら面白いんじゃないか?という思いつきによるお達しがあったらしく、伝令として渋々の申し送りをしに来たとのこと。先輩の立場上、こちらが一方的に不満を押し付けたところで板挟みにしてしまうから、表情筋で圧倒的に抗議しつつ、言葉のうえではできるだけやんわりと、なんとか収める方向に持っていけないかということ、最悪何らかの一芸を披露したとて「PPAP」だけはご勘弁願いたい、4人でピコ太郎を演る意味があるのか、1分足らずの寸芸のためにわざわざ自費で衣装をあつらえ、一応のリハーサルをやり、時間を裂き、なおかつ酒の入った場で誰もろくすっぽ注目していない舞台で駆り出される必要があるのか、冷静に考えて欲しい、とお伝えください、ほな、また、と切り上げた。


先輩の立場が一番面倒くさい。部署も違うし、越権のハラスメントを伝える飛脚をやらされるなんて、心が朽ち果ててしまう。だけれどもここは闘わなくてはならない。人間の尊厳に関わる問題だから。本当に「PPAP」をやらされる可能性が万に一つでもあるならば、徹底的に抗う覚悟である。直(じか)に経理部長とデュエルをかます構えがある。


「PPAP」そのものに嫌悪を抱いているわけではなくて、ピコ太郎も古坂大魔王も花開いて頑張っていてくれたらいいのであって、そこに一切のポジもネガもない。ただ、今流行をしているモノ、コトを「とりあえずやっといたらおもろいんちゃうのん」だけで上からグリグリ押し付けられることへ、若者として、ペーペーとして従い、これも社会で生きていく上の通過儀礼であると割り切って無表情で業務命令をこなすことが果たして是であるかという問題だ。


会社の飲み会で経理部長と話したことがあるのだが、かつては役者を目指し俳優養成の専門学校に通っており、健康不良が理由で夢を頓挫し、まっとうのサラリーマンとして生きていく道を歩んで今に至ると、若手を集めて気持ちのよい表情で喋っていた。まともに働くことを良しとせず、表現で食っていこうという時代があった人間が、社会に巻き込まれて立身出世し、階級が目下の人間に忘年会で「PPAP」をやれ、と覆いかぶされるようになってしまうのだ。


社会人、としての位が上がっていく上で、どこかで"センス"は死んでしまうのだ。あるいは、センスを殺さないとやっていけない社会なのかもわからない。夢を放擲せざるを得ないほどの病気のあとで、痛みを共有できずむしろ「押し付ける」側に回る。死ぬか生きるかなんかわからないんだから、己の思うように生きたれ、地獄に道連れじゃい、からの開き直りかもしれないけれども。とにもかくにも「PPAP」を目下の人間に無理やりやらせるという行為は精神が死んでいる。やめてくれ。ゾンビに肩を組まれたら振り払わないとこちらまでゾンビになってしまう。勘弁をしてほしい。


加えて、「PPAP」を、会社で気になっている関根麻里似の新人の前では絶対にやりたくない。クリスマスにご飯に誘おうかと逡巡しているんだよ。絶対「PPAPやらされた奴」と2016/12/24(土)という3連休の中日に飯食いたくないだろ。貴重な大卒1年目のクリスマスを。人間の尊厳と己のペニスの為に俺はジジイと闘わなくてはならない。という話。続報をします。
posted by JET at 22:37| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月31日

フォルティシモ無意味論

おまえの涙も
俺を止められない
いまさら失う
ものなど何もない

言葉にならない
胸の熱いたぎり
拳を固めろ
叩きのめされても

激しくたかぶる
夢を眠らせるな
あふれる思いを
あきらめはしない

愛がすべてさ
今こそ誓うよ
愛をこめて
強く強く




大友康平さん率いるHOUND DOG(ハウンド・ドッグ)が1985年に発表した楽曲「ff(フォルティシモ)」。
1番の歌詞を抜粋し、吟味し、咀嚼してみたい。
1985年度年間56位(ザ・ベストテン調べ)である当楽曲が当時、日本で56番目に国民の琴線を震わせた根拠・いわれは果たしてどこにあるのだろうか。


おまえの涙も
俺を止められない
いまさら失う
ものなど何もない



作中の俺・大友康平(以下、こうへい)は「おまえ」に涙を流させてしまった。原因はわからない。けれども、俺の夢、目標を最優先事項に据えているので、今さらどうこうと咎められようがこのまま突き進むという決意表明。「いまさら失うものなど何もない」とこうへいは言う。「おまえ」を失うことを厭わないようだ。おまえの涙以上に崇高で価値を感ずるsomethingをこうへいは追い求めているようだ。果たして一体なんなのだろう。はっきりしない。最後まで。


言葉にならない
胸の熱いたぎり
拳を固めろ
叩きのめされても


言葉として表現できないほどにパトスを感じている。その対象が不明瞭だけれども、リリースされた年、こうへいは29歳。今更言葉にならない怒りを表明するにはいささかおじさん過ぎはしないか。言葉にならないことと、「言葉に出来ない」のは別だ。「言葉にしようとしたか?」「サボってない?」ということだ。ここで飛び火させるのもどうかと思うが、怒髪天の「おじさん頑張ってるんだぞロック」も馴染めない。俺もおじさんに片足突っ込んでいるけれども、果たして四十を迎えて「おじさん頑張ってるんだぞロック」を聴きながら中ジョッキを煽って月曜もお仕事頑張るぞ!と活力にするものだろうか?苦手だ。目を逸らしてしまう。


1985年。ブルーハーツが『1985』で”全ての大人に感謝します"と宣戦布告した年。尾崎豊が卒業の答辞を読み、BOOWYが『BOOWY』を発表し、北アメリカ大陸でウケていたWe are the worldが敗戦国ジャパンにも鳴り響いた。うんざりするほどメッセージが世にあふれかえっていた。さなか、このff(フォルティシモ)が期せずして一石を投じたのだ。先に結論付けてしまうけれども、この曲は「マジで何も言っていない」。


「叩きのめされても」と一口にいうけれど、叩きのめされたにしては、映像で見ている限りマイクスタンドをショルダーに担いでマッチョイズムをむき出ししている。のめされているか?のめされた男性に果たしてここまで勝ち誇った表情でとっぽいパフォーマンスが出来るものなのか。

激しくたかぶる
夢を眠らせるな
あふれる思いを
あきらめはしない

愛がすべてさ
今こそ誓うよ
愛をこめて
強く強く


叩きのめされたはずの、世の中への不平を抱いている、抑圧された人間が「強く"come on"強く」と歌詞に載っていない"come on"をはずみで口ずさむなんてありえない。そして具体的に教えてほしい。夢とは。思いとは。


言ったもの勝ち、言えばそれで完了して責任が手から離れた、となしてしまう勘違いは流石に2016年も終わりに差し掛かっているのだからそろそろ咎めたい。残るんだぞ。言葉は。「激しくたかぶる夢」「あふれる思い」と、口に出すだけならば誰にだってモンキーにだって出来る。間寛平も「誰がモンキーやねん」「ワシは止まると死ぬんじゃ」と杖を振り回した。寛平が振り回す杖のほうがこうへいのマイクスタンドよりも「近寄った際のヤバさ」にあふれてよっぽど様になっている。"声の出る人"ことファンキーモンキーベイビーズのファンキー加藤さんは公衆に向けて声を発したり、CDに焼いたりするとなぜかお金をくれる人たちがいるらしく、そのおかげで生活しているが、彼も決して意味を伝えているわけではない。亀田大穀がリング上で熱唱したのもさもありなん、だ。意味がない。


急に「愛がすべてさ」「今こそ誓うよ」と表明されたところで、「と申しますと?」となってしまう。この詞には意味および脈絡がない。言うだけならば誰にでもできることを歌うのをやめてほしい。歌ってもいいけど、家でやってほしい。


と、30年以上前のこうへいに言いがかりをつけている奴の方が頭どうかしている気もするが、こうへい→加藤の系譜として、ffのような「何も言っていない歌」の流れが出来ていることも確かで、「誰かが強く言う」をしなければ。どこかで食い止めないといけない。何だこのこみあげる使命感は。


ナンセンスと「意味がない」はどうやら違う。たとえばイマクニ?さんの「ポケモン言えるかな?」の詞は当時151匹しか発見されていなかったポケモンの名前を羅列しただけだけれども、小学生だったころは歌えない奴はクラスのつまはじきだったし、CDを買ってもらうまでは歌詞カードを友達にコピーしてもらって授業中机の下で読んでいた。ナンセンスかもしれないが、子どもたちには"意味"をもたらしていた。意味を付随させるのは受け手たる我々の仕事だ。「意味がない」とは、聞かされたところで得られる情報、知識、感慨、情、などが欠落しているもののことだ。「毒にもクスリにもならない」という言い回しがあるけれど、毒でもクスリでもないものは毒より毒だ。


現在、自身以外の全メンバーが脱退し、1人で「ハウンド・ドッグ」をやっているこうへい。「いまさら失うものは何もない」じゃない。まだ、ある。「ハウンド・ドッグ」だ。売りましょう。断捨離。削ぎ落していきましょう。意味のない歌を唄うのであれば、限りなく自己を無くし、「空(くう)」の域にまで達したこうへいの歌が聴きたい。


※こんな「意味のない」歌がありますよというご報告をTwitter「n-jomooo」までお待ちしております。
posted by JET at 21:57| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月13日

宗教と自動車と人気もの

某人気ベータツイッタラーの日常用アカウント("ネタツイ用"ではつぶやけないこぼれ話のための)において、去る8月4日に以下のような発言があった。


"車を運転する人が歩きスマホをバチバチに叩いているのを見ると「この人の中では歩きスマホはNGで自分の移動時間を短縮するためだけに歩行者を轢き殺すことのできる道具を使うことはOKなのか……」と頭がクラクラするんですけど、この話はもう宗教に近いのかもしれませんね。”


日常用のアカウントといえどフォロワー数は流石の2800人、当投稿のリツイート数は200回を超えている。俺のタイムラインにもこのつぶやきが回ってきた。なるほど少し過激な内容でウケているのだろうな、と流しかけたのだけれども、引っかかった。これは一体どこが「宗教」なんだろうと。


「歩きながらスマートフォンを操作することはNG」であることと、「自分の移動時間を短縮するために自動車=歩行者を轢き殺せる乗り物を運転することがOKになる」が結びつき、しかもそれが「宗教に近い」という。申し訳ないけれども一見にはさっぱりわけがわからなかった。某ベータツイッタラーさんに意を問うリプライを送ってみたけれども当人からの返事が無かった(どうせ無視されるんならと悪のりをして「BROTHER時代のたけしが一番格好よくないか」、と問うてみたけれどもなかったことになった。これだけに返事来たら面白かったのに)。なので、某ベータツイッタラーさんの中で発言がリツイートされて意図せず膨らんでいくのが許容されるのであるならば、ブログで引用するのも大して変わらないだろう、と誠に勝手ながら当発言の脈絡について考える。


まず、この場合の「宗教」の意味合いはなんだろうか。おそらくは宗教、という言葉に対してのマイナスイメージ(カルト、洗脳、妄執、水中クンバカなど)に端を発しているんじゃないか。つまり某ベータツイッタラーさんの中に軸としてある『自動車運転絶対最悪教』の戒律に「自動車の運転は人間を殺す可能性がある→人間を殺しうる存在は悪だ→すなわち自動車は悪である」とあって、とすると、{「頭がクラクラする」=自動車という兵器を操っている人間が、「歩きスマホ」という不注意甚だしい行為にケチをつけていることに混乱している。} すなわち、いつでも人を殺せることにある状況にある(命を手玉に取れる)のにも関わらず、"「死」に意を向けていない連中に怒りを覚えている奴ら"という存在の矛盾、に疑問を感じずには居られないのである、と解釈した。


そのような"極論"で物事を捉えてしまう自分は『自動車運転絶対最悪教』の信徒で、"極論"といえ宗教、なるほど「宗教」なのかもしれませんねと。というように、極論と宗教がイコールなのではないだろうか。


(「物流」は誰が支えてるんだ、人を殺せるトラックの運ちゃんじゃないのか。という反論をしている方も居たが黙殺されていた。今は「"宗教"かもしれませんね」とのことなので、残念だが的外れとしてふいにされたのかもしれない。プレイステーションの「交通整理シミュレーションゲーム・ナビット」を極めてプレイをVHSで収録して着払いで送れば反応があるかもしれない)


俺も一応免許は持っているけれども、自動車の運転はなるべくやりたくない。が、労働で「運転自信ないんで…エヘヘ…」を無理やりこじ開けられてハンドルを握らされることもある。


基本的にはなるべくして「人を殺す」「己が死ぬ」リスクを少しでも回避したい。メチャクチャ生きたいし殺したくないから。嫌で嫌で仕方なくやっているのに、ちょっと地下駐車場で駐車にミスりリアバンパーを擦って始末書を書かされた。俺は失敗しまっせ、と散々フリをして案の定やらかしたのに真面目に怒られていることに理不尽を覚えて『自動車運転悪教』に入信はしている。しかしここで某ベータツイッタラーさんと違うのは、『自動車運転絶対最悪教』と宗派が微妙に別れているということだ。俺は自動車の運転が上手い人、なりわいとしている方々を尊敬している。


例えば自分の父親の車に乗って家族で旅行に連れて行ってもらったことも沢山有るけれど、父親が「移動時間を短縮するためならば歩行者を轢き殺してもよい」とというドグマに則りホンダ・ステップワゴンを運転していたとは思えない。というか、いざ出発の間際に「父さんはな、人を轢き殺すリスクよりも移動時間の短縮を選んだ。さあ車に乗れ。」と宣言されたら怖すぎて振り切り、家でスーパーファミコンをするほうを選ぶと思う。


『自動車運転絶対最悪教』は完全なる「極論」です。でも俺は"あえての極論"というものが面白くて、きちんとわかりきって右に左に針が振れている人にはそのままやっちまえ、と背中を押したくなるが、やっぱりご意見として(ネタ用と日常用でわざわざアカウントを使い分けしているのもあるし)世に発しているのであれば、ある程度は事情を説明できる地盤が固まっていてほしい。「ギャグ」なら、「ギャグでした〜っと!」と片足を上げてダブルピースしてもらえれば「な〜んだ〜〜」で(あくまで俺の中では。世間様は黙っておかないかもしれない)収まるのだけれども、じゃないのなら宗教、なんてデリケートでありながら壮大で、人類が生まれてからずっとあるのに、ずっとあるのにも関わらず未だかつて明確に定義づけられていない言葉を、ぞんざいに取り扱うのはよしたほうがいいと思う。ましてや「轢き殺す」なんて扇情的、アジ的な言葉が乗っかるのであればなおさら。


「反応の取捨選択」が怖い。何かの拍子に自分の声が届く範囲が広くなったとして、90%賛成、10%反対という結果が出た時に「10%」の声を無いことにしてしまえる。人間なんて己に都合がよければいいのでそりゃ90の波に乗ってしまえればあとはGOGOになる。10の反対というさざなみを「うるせえな」で抑えつけられる。「タバコを吸っている人は、早死にすると覚悟しているのだから今すぐさま殺しても構わない」と叫んだって、90賛成していればその人の中では正義になってしまう。ツイッターのフォロワー、なんて「フォローをしてくれる人」なんだから基本味方で応援してくれて、好き放題言えがちだけど、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)でアーカイブとして残るんだぞおい、と殊勝に、弁えなくてはならないと思っている。とはいいつつ、俺がブログを書いても、2000人弱の「フォロワー」の支えをかいくぐって「計5いいね」だったりする。俺がアフィリエイトで覚せい剤売っててもバレないと思う。
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2016年10月09日

梅崎春生『幻化』




九州に向かう飛行機の中で偶然知り合った映画会社の営業の丹尾(にお)という男と、阿蘇山で賭けをする。「丹尾が火口を一周して元の場所へ帰ってくるかどうか」つまり、飛び込まずに無事に戻ってきたら貴方の勝ちですよ。と。ハサミで万札を真っ二つに断って、半分をしまった。2つに繋ぎ合わせなければもう使い物にならない。
主人公は精神病院を脱走している。戦争が終わってから、「自分が自分でないような感覚」に苛まれるようになった。「悲哀」に心は動くのに、「笑い」には一切鈍くなった。夜中に玄関のブザーが鳴って、ドアを開けても誰もいない。壁にはアリが這っている。それを医者に説明することをしたくない。そんなことを言うやつはまともではない、という認識はまだ残っている。


ほうぼうを回る。戦時中に奄美出身の兵長が酔っ払って調子こいて、海に関してはマジで自信があるから泳ごうぜ、とざぶざぶ入っていって心臓麻痺で死んだ岬。その時は気づかなかったけれども、彼は自殺するつもりじゃなかったのか?暗号兵(作者の梅崎春生も枕崎で従軍していたこともある)という立場、戦局の実況がいちいち聞こえてくる。彼の一家のある辺りが焼き払われたとか、守りがどんどん手薄になる様子も一番最初に知る。明確に自死の意思があったかどうかは定かでないが、死ぬギリギリの縁まで行ってみようかな、と覗きに行って、踏み外して死んだのかもしれない。


砂浜で貧血を起こし、木陰でしばらく眠る。精神病院で入院していた時に同室だった「チンドン屋を見ると"頭がばかになってしまう"」おじいさんがいて、同室の連中で共謀してチンドン屋のマネをしたらおじいさんどんなになるだろう、とスレスレのギャグをやった。そのことをふと思い出し、砂浜でひとりチンドン屋をやった。つい面白くなってきた。誰も見ていないと思った。そうしていたら、浜辺で魚をすくっている少年に視線をくれられているのに気がついた。"おじさんは気違いじゃないんだ。安心しなさい。"


少年の父親はタクシー運転手をやっていた。無下にもできず、馴染みの按摩が働いている旅館まで連れて行かれ、泊まっていきな、ということになった。按摩を呼んだ。老人が来た。もごもご背中を押しこくられていたら、ずしっと圧がかかった。さては、と様子をうかがうと背中に両足で乗られていた。は?なんでじいさんによりじいさんの足で踏まれなくちゃならないんだ?元を正せば少年と仲良くなったのも、魚獲りとチンドン屋が一瞬交錯してその場でバイバイ、が綺麗だったんじゃないのか。大人に余計なおせっかいをするな。なめんなよ。腹が立ってきた。"不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着替えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。「おれは憐れまれたくないんだ」怒りのあまり、布団の襟にかみつきながら思った。「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」"


死ぬことと生きていることの境界線は一歩跨げば超えられてしまう。誰かに引っ張ってもらわないとぐらっと崩れてしまうこともある。兵長も無理やりあの時咎めていたら生き永らえていたかもしれないが、「そうやって死ぬこともあるだろう人間なんて」とつい他人事のようになり、見過ごしてしまった。


映画会社の営業は事故で妻子をなくしてから、常にポケットにスキットルを忍ばせて酒びたりになった。彼も「自分が自分でなくなってしまった」人間だった。自殺の賭けをしましょうよ、一周して戻ってきたらお金あげます。主人公は観光地用の望遠鏡に小銭を入れて様子を追いかけた。「あいつは俺なのか?俺はあいつか?」と境目がぼやけて、ふらふら火口に吸い寄せられそうになる男に視線を注力してしまう。


"しっかり歩け!元気出して歩け!"もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなっていくようだ。そしてふらふらと歩き出す―"


梅崎春生は『幻化』の前編を発表した一ヶ月後に肝硬変で死んだ(後編は死後に発表された)。「しっかり歩け!元気出して歩け!」と彼方の自分の肩を揺さぶった。人間の命を係累しておく何か、へ意識が傾き、探りだしたら瀬戸際と思う。どこまで行ったら自分は死ぬのか?とおぼろげの中を歩いていってがくんと道を踏み外してぽっくり逝ってしまうこともある。肝臓が固まったのも酒のやり過ぎが原因だった。ここからは過度でここまではセーフだ、という線の上を歩いているとふと、死んでしまう。作者自身、鹿児島県坊津基地で特攻隊を見届けていた側だったから、なんで俺は生きていて、彼らは死んでいくのだろう、というラインが茫としてしまった。『幻化』という表題がそのものずばりと思う。では、何処へ?という。
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2016年10月03日

尾崎翠『第七官界彷徨』



「点描ということは吾々散文作家が、今までの自然主義時代の一から十までくどくど説明するというような手法ですが、ああいうものに吾々は飽き飽きしたのです。…(中略)…とにかく自然主義的な、ものの考え方とか手法、あれで日本の文学というものが非常に腐ったと思います。平板です。もうすこし新鮮な立体的な文章を欲しいのです。」
「心境文学、触覚文学というものを書きたい」


昔、一度目に読んだときはなんだかもやめいて筋があるようでないようで、何が書かれているのだかむず痒い感覚しかわかず、さてどうしようかと、評判だけで入ってしまい尾崎翠の「第七官」を理解しようとする端緒を引っ張り寄せられる感受性もはなから持ち合わせていなかった。というか、未だにわからないのだけれども、群ようこの『尾崎翠』で引用されている座談会での上記の発言を読んだら、ようやく「第七官界彷徨」の糸口を手繰り寄せられるのかもしれない気がどことなく沸いてきた。


「夢はつまり、思い出の後先」とサングラスをかけて大麻をやっていたおじさんが歌っていたが、鋭敏に、鮮烈に心のひだにトゲが刺さった出来事を膨らませて形にする。「第七官」「恋愛」「慕情」の中に潜まった「もやもや」は万人がそれを受け止めきれる感性を持ち合わせているわけではない。もやもや病で徳永英明は苦しんだ。もう「もやもや病で一時期お休みをもらっていた」、って一生ネタの十字架を背負っていくのは気の毒だ。あと、お金を持っているのだから歯を直した方がいい。


俺みたいな者が死ぬるまでわからない核、コアの部分があって、それを主軸に扱われたら如何ともし難いと諦めていたのだけれども、「心境文学、触覚文学を書きたい」にハッとした。この人は、「指紋で触れて心の中で感ずられた」出来事を理屈を超越して成形しようとしていたんじゃないか。尾崎翠が主人公=小野町子の分身として、精神科医の長男、苔の研究をしている次男とそれぞれの兄弟および、音大浪人中の従兄弟と4人暮らしで進むんだけれども、「心境」を表す上で、@精神科医の常にサイエンティフィックに理詰め理詰めで、あまり感情を表沙汰にしない長男、A「苔」、「蘚」のうずうずというかもぞもぞというか、肥やしを鍋で煮やしてバイオ、ナマモノ的に有機的に女の心情を解きほぐす次男、B音大志望でとにかく理屈はのけといて肉体的にアプローチをかけてくる、エネルゲンを活力源にする従兄弟、という三者三様との生活。というか、三人共血縁関係なのに「肉薄」が薄紙一枚なので、恋愛感情を近親に抱いてしまうインモラルは一旦外に捨て置くべきと思う。なんだかそういったものさえくだらなく感じる。


おもしろいのが、尾崎翠は「まるで設計図を引くかのように」この話を書いたとのことで、絵コンテを別に用意し、登場人物の配置や舞台設定とかインテリアを前もって緻密に設定していたらしい。「心境文学」を標榜するうえにおいてさえ、心のうちを書きなぐるのではなく、あくまで、自分の中では説得力を持たせたうえで言い訳しない。あまり世間を喜ばせようというサービス精神があったわけでなく(同時代の林芙美子が意気揚々と「放浪記」を発表するのを傍目に眺めながら、かえって内々へと向かっていった)、あくまで己が納得することが最前提の文章を書いた。つまり、尾崎翠の体内に流れる「第七官」に輪郭を与えたゼラチン質、じゅん菜。


蘚苔の研究をしている次男の部屋に茹でたかち栗を運ぶ場面の文章

"うで栗の中身がすこしばかり二助の歯からこぼれ、そしてノートの上に散ったのである。私は思わず頸(くび)をのばしてノートの上をみつめた。そして私は知った。蘚の花粉とうで栗の粉とは、これはまったく同じ色をしている!そして形さえもおんなじだ!そして私は、一つの漠然とした。偉(おお)きい知識をえたような気もちであった。ー私のさがしている私の詩の境地は、このような、こまかい粉の世界でなかったのか。"


フォーカスの絞り値を上げて限りまで寄って寄った「栗の破片」と「蘚のなごり」に共通点を見出す。「こまかい粉の世界」、吹けば跳ぶような、とは、「村田だ。ガムくれ。」でおなじみの村田英雄も歌っていた。ページをめくった風圧でいなくなってしまうようなトンボの羽の網目をなぞるような書き方だ。結局尾崎翠は「わからない」ままであって欲しいし、誰かが「わかる!」と言い出したのなら、特に野郎であるならば懐疑的、舐めんなよ、と頬を平手打ちしてしまうと思う。尾崎翠は有声映画=トーキーが気に召さず、「こっちのの想像で補うから邪魔するな」と張り倒す。どこまでも心境が張り詰めすぎて、頭痛薬中毒になり文壇から姿を消してしまった。もったいないけれども、ここまでの繊細をやり続けることもそうそう出来ないと思う。押し入れには衝動買いしたフルーツバスケット全巻が3年近く眠っている。いい加減に読まないと、Lカゼイシロタ株を体に入れ続けないとすぐ腸に毒が貯まるので、「第七官」の要素もどんどん取り入れ、ゼッタイキレイになってやると思いました。
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2016年09月22日

『アメリカン・ビューティー』の感想

アメリカン・ビューティー (字幕版) -
アメリカン・ビューティー (字幕版) -



どうしてもケビン・スペイシーの立場で見てしまう。ケビン・スペイシー、それ判るな〜、と鑑にしてしまうと日常を幸せに送れるわけがない。生活をかなぐり捨てて、子供の頃に憧れてた古い型のクルマ買って、ヒステリーの嫁論破して、己の娘の友だちに惚れて抱こうとしてだらしない肉体を鍛え直す。話が進んでいくにつれて「俺は俺の為に生きていくことにしました。文句は言わせません。宜しくお願いします」という割り切り、開き直り、 諦念が表情や振る舞いに徐々に滲み出ていく。どうせお前ら=周りの連中だって、影でこそこそ好き放題鬱憤を発散してるくせに、それだったら俺だって今まで抑圧されてた分吐き出してやるからな。つべこべ構うんじゃねえわ。と。


「映画」として超越して向こう岸から第3者視点で観ると、「こいつ気持ち悪いな」「いやいやいや流石に?流石にそれは?」と常識人目線で、そんなん無いって、と終わらせることも出来る。けれどもいざ、態度として誰かに移入するとなると、どの登場人物にも「思い当たる節」がある。


ケビン・スペイシーの隣の家に住んでいる元海軍の親父。手塩に育てた息子がお薬の売人になり、ケビン・スペイシーの娘と出来る。
角刈りで妙に目がつぶらでおっかないから「敵」のおじさんか?意味わかんないジジイか?と思いがちだけれども、男まみれの社会で"育成"されてしまったことによる不可避な性的矯正と、軍の戒律や誇りを重んじてきた自己矛盾の摩擦が発火してああなったんじゃないか、とすると、「家庭」という枠組みが具合が悪くて仕方がなかったのかもしれない。あの人は。奥さんガナガナしてて、ガナガナしてるというのは地元の方言で筋張って痩せちゃって大変だねという意味なんですが、絵に描くような家庭的のふくよかな幸せから程遠い。


どこかで「折れる」ことがどうしてもできない連中が、沸々と「こうなればいいのに、こうなるべきなのに」という環境こもごもの理想を腹の中で溜めて、溜めて溜めて爆発して終わる。アメリカの現代社会を鋭くえぐり取っている、のだろうか。


ケビン・スペイシーが、セックスしたくてしたくて、したいがあまり、本番用に肉体を仕上げていた、自分の娘の友人のバカエロい女の子を脱がせにかかった。 が、本番の刹那に「実は、初めてなの」と告白された瞬間の、「えっ???処女なの???」と、単なるいちペニスおじさんから、守るべき所帯を持つ凡な初老、に戻る時の表情。巧すぎる。一瞬で「朗らかな中年男性」に変わって、毛布をかける。


所々カットの挟まる、薔薇の花というモチーフになぞらえて、これが「アメリカン・ビューティー」ですね、すなわちアメリカ合衆国暗黒、の上っ面の「美」「理想」「象徴」を皮肉ってございますねという町山智浩的な側面もあるらしい。という考察はとりあえずうるさいので、面白いので是非と思います。角刈りで顔が濃い奴はヤバいという偏見は正しいのかもわからない。
posted by JET at 23:54| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

関係ない話

■ゴミのような話でいささか恐縮ですが、酔っ払って人様の肉声、レスポンスを受けたくなり、連絡先の割れているガバガバの女性にLINEやSkypeを介して文言を送ることがある。送られた方はいい迷惑で、断るも断らないもなにもくそも、前提として俺に声をかけられたところで意味がない。LANの管を這いつくばる息の酒臭いジジイに運悪く絡まれただけ、振り払えば、あしらえばそれでお終い。


■だれからも反応がなくさくっと諦めた日も、あるいは跳ね返りがあるまで粘るようなパターンも、そのぶんの持久力に費やしたアルコールが進んでしまっている。翌朝こめかみを中指の第2関節でえぐる。お前には意味が無いぞ。下らないぞ。気づけよと。意味をほじくり出そうとしても意味が、味噌が出てこない。


■こういった振る舞いを、ほかの誰か、ジジイ諸君も同様にしているのであれば多少気が休まるが、ただただ俺ばかりが単独で縦横無尽にオンラインを駆け回っているのではないか。逆がない。逆のパターンがない。しきぬさん、喋りましょうよ。話聞いてくださいよ。が一切ない。「そういうものなのはそういうもの」で諦めるしかないのか。四畳半の中央に座布団を敷いて1人鎮座している。襦袢の裾からマジックアームを伸ばし往来の人間の首根っこをひっつかんで無理やり敷居の内側へ引きずり込む。もしもしと。ご機嫌はと。今日も今日とて。


■こんなもん、「構ってくれ!」「かまちょ!!」と捉えかねられない。決してそうだ。決してそうなんだよな結局。何も起こらないことへの倦み。前蹴り。


■「一体俺だけが、世の中と関係ないのであるか?」果たしてそうか?飛躍がうるさい。


■坂口安吾は「学問とは、限界の発見だ」と言った。、ウィトゲンシュタインは「世界は、私の手前でぼやける」と言った。カントの純理を読もうとしたら、ゴリゴリの筋肉翻訳で歯ごたえがありすぎて上巻で頓挫をしてしまったけれども、「思考の限界」、人間の考え得るボーダーラインを探ろうとしているらしい。ウィトゲンシュタインの「操ることば」の境界線と似ているようで、違う。勉強します。


■「私の手前で世界がぼやける」、どうしても、己とお前は関係ないのではないか?がつきまとう。吉野源三郎先生の『君たちはどう生きるか』では、あなたとあなたは社会的に関係、連環があり、そのまた別のあなたとあなたが干渉していて、ひとは1人で生きているわけではないのだ、窓に伝わるバラバラの水滴が重さで垂れるとともにくっついていって、体積を増すのと同じように。と至極まっとうを説いた。気付いていない人間が案外いる。


■気付いていない人間。そういうやつはバカだから声だけでかい。勘違いをしたまま死ぬのか?幸せかもわからないが、気の毒に。スコアは2点。ちょうど2点。


■久生十蘭『内地へよろしく』、カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』は、戦争で人が爆裂に、続々に死んでいく最中、達観なのか、"俺"と"死んでいくお前"はつまるところ、関係ないのではないか?という、第3者視点の極北から書かれていておもしろい。久生十蘭が書いた「私」の終盤唐突の突囲表演であるとか、『スローターハウス5』で人間が消えるたびに反復される「そういうものだ。」はやっぱり、どうしたって自分、おのずは「関係がない」という目線。書いている人間のエゴかもわからないが。えご。えごといえば佐渡ヶ島の郷土料理、海藻を立方体に押して固めたゼラチン、酢味噌に合う。九州の北では「おきゅうと」と言うらしい。


■ある程度かわいい女、ちょろくないか?


■ブスの女、辛くないか?応援をするべきでないか?


■戦争、結構嫌だな


■明日、働きたくない。区切りをつけて、出社する。上記、以上は関係ない。なにやらかんやら、貴方とは関係ない。
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2016年09月11日

スパワールド世界の大温泉周辺の話

このところ「スパワールド世界の大温泉」にはまっている。スパワールド世界の大温泉というのは、成金の夢が具現化されたスーパー銭湯の上位互換で、月によりけりで値段は変わるのだけれども千円ちょいで大浴場に入られて、体力あればプールもあるし、タオル貸してくれるし、追加で払えばプールサイドでも風呂あがりでも飯食えて酒飲めてゲーセンで遊べて、行ってはいないけど岩盤浴もあるし、泊まれるし、ジムもあるし髪の毛切れるし、24時間やってる。そのまま「生活」が収まっている。早く教えてくれよ。とここしばらく足繁く通っている。

サウナも何パターンかある。塩サウナは体がヒリヒリして痛い。鮭じみてくるので嫌だ。スチームサウナは「生ぬるい湿気がむんむんしてる中ですき好んでジジイと相席する奴があるかバカ」と滅入るので5分と落ち着いてられず、結局明快なただ暑いだけのサウナに入る。弱・強とある。強でなるべく粘る。備え付けのテレビで地球で唯一のスポーツジャーナリストでおなじみ二宮清純がカープ優勝の原因を分析していた。皆とっくに知っていた。カープといえば、高校時代の友人が今年の頭に病気をして死んでしまったのだけどそいつがカープファンで、随分タイミング悪いな可哀想に、と思い出した。シュールストロムっていう助っ人外人が居て、選手名鑑で顔写真の輪郭が完全に正方形だったのでそいつの家でウケてた記憶が蘇った。シュールストロム、駐米スカウトかなんかやってたけど今どうしてるんだろうか。

炭酸風呂という細かい泡が沸いている風呂があって、36度そこそこなのでそうそうのぼせない。しばらく浸かっていると微炭酸が陰毛に付着してみるみるシュワシュワになり、「俺は水草。俺はアクアリウム」とただただ何も考えず揺らめいていられる。禅宗の坊さんなんかは坐禅組むより炭酸風呂に使ってたほうがよっぽど効率よく雑念が飛んで行くので来たほうがいい。酸素風呂、水素風呂もあるんだけれども、酸素は密閉空間の洗濯槽でジジイが固まっているので割って入るのも気が引け、水素のほうは3つしかスペースがないので空きが中々回ってこない。ジジイのローテに交じりたくないのでいまだ未体験。というか、そんなにジジイが嫌ならスーパー銭湯なんかに来るんじゃないよ。


20時頃施設から出て、動物園前商店街に、目星をつけていた美味しそうなモツ鍋の店があったので行ってみたらもう終了していた。案外新世界といい西成の商店街といい、日曜だからかも知れないけど終わるのが早い。しょうがないので新世界の居酒屋に入って、ホッピーを注文したら外身の小瓶だけ渡された。

ホッピーというのは、焼酎を割る前提の、ビールの風味がついた炭酸水のようなもので、それだけ単体を渡されてもどうしようもない。大阪ってそうなの?と、「すいません、中身もください」とホールのおじさんに頼んでもピンときてなさそうな様子で、のれんをくぐってきた新規の客に「いらっしゃい!!」と声を張り上げ無理やり場面を切り替えられた。えっ?俺がおかしいのか?生まれが東の方面だから?「すいません、焼酎で割りたいので、焼酎ください」とお願いしてようやく運ばれてきた。文化圏のすれ違いか、ホールの親父がもしかすると高校生だったのか。

マカロニサラダとどて焼きとホッピー2杯で1,780円、高い。下町風情を醸し出しつつも、観光客向けの商売だから案外ふっかけてくるので気をつけてください。別にもう酒もよかったので、「女性のおっぱい、知りた〜い」と飛田の方に足が伸びた。
蒼井そらさんや、俺がかつてパワープレイをしていた桜井あゆさんなども飛田の出身らしい。「女性のおっぱい、かなりあるな〜」と区画を蛇行しながら、敷居の奥でアヒル座りしている女性のおっぱいを見るだけ。で歩く。2万円払えば20分相手をしていただける。バリバリ綺麗な女性と死ぬまでに添い遂げられもしないだろうけれども2万か〜、2万か、と踏ん切りつかず大阪で3年目のシーズンに入ったが、どこかにまた飛ばされるような発令があれば、思い出代打でお世話になるだろう。

新世界の交番でジプシーのおじいさんが土下座をして何ごとか若手の警官に立ち膝で懇願していた。おまわりさんもおじいさんも、いろいろあって大変と思う。笹野高史とかあのへんと同い年ぐらいだろうな、偏屈なジジイの役やらせるんなら笹野高史なんかより今おまわりさんに頭下げてるジプシーのおじいさんにやらせてあげてほしい。真に迫っているのは果たしてどちらかと言えば、答えは明快、なので間違ってはないと思う。
posted by JET at 23:39| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする