2016年03月02日

The Who『Baba O'Riley』の和訳



The Who『Baba O'Riley』(71年 英)


Out here in the fields
I fight for my meals
I get my back into my living
I don't need to fight
To prove I'm right
I don't need to be forgiven

ここじゃない場所で
飯を食べるために闘う
自分の人生を背負うぞ
闘う必要はない
自分が正しいので
許される必要もない

Don't cry
Don't raise your eye
It's only teenage wasteland

泣くな
目を上げなくてもいいから
10代なんか意味が無いぞ

Sally ,take my hand
Travel south crossland
Put out the fire
Don't look past my shoulder
The exodus is here
The happy ones are near
Let's get together
Before we get much older

サリーという恋人がいるので俺は大丈夫だ
南の方へ行こう
火を消せよ
肩越しに過去なんか見るなよ
逃げよう
サリーという恋人がいるので幸せだ
一緒になろう
ジジイとババアになる前に

Teenage wasteland
It's only teenage wasteland
Teenage wasteland
Oh, oh
Teenage wasteland
They're all wasted!

サリーという恋人がいるけど、
それは10代だから意味がない、
20代になっても意味がないし、
oh、oh、
ジジイとババアになっても意味がないだろう。
ありがとうございました!
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2016年03月01日

猿の物真似

先週の金曜日から3連続で帰りにすき家に寄っている。牛丼を求めに来た客を1人でさばく店員の動きをしばらく眺めていた。何か考える余裕はあるのだろか。すき家なんか、無限にメニューがあるし無限にトッピングがあるのに、無事に指定したとおりに頼んだものが提供されてくるの奇跡に感謝しなければならない。ワラライフだ。俺なんか職場のパソコンでふと気が付くと知らない昭和のパ・リーグ選手のウィキペディアとか読んでいる。


「孤独のグルメ」、飯を食っている中年男性のこだわりを緻密に書いたのが当たって、それの真似をして街のへんぴな定食屋に飛び込んでずべこべ能書き垂れながら飯をくうような行為は、本当はよくないんじゃないかと思う。真似るべきは井之頭五郎さんの「好きなもの」に対し、孤独であっても楽しみを己の中で完結させられる人生の技術、愛や姿勢で、別に飯屋でなくてもいい。「孤独のボウリング」で誰とハイタッチするのでもなく淡々とフックをかけ続けて1ゲームだけで帰るのもいいし、「孤独の田植え」で村八分にされたおじいさんが単独で栽培して実った稲を、小さいワンハンドの鎌で刈っている時に何を考えているのかも気になる。そこに美学があれば。一個の物事に、周囲から孤立しようと執着している人間を応援します。関係ないですが、代アニの校長に楽太郎が就任した後どうなったんだろう?


などとぼんやりしながら、ひじきと冷や奴がついてくる「健康セット」を食べていました。健康セットなわけないんですけどね。だいいち牛丼屋入ってまでいらないプライドで最後の抵抗をしようとする俺みたいなのが一番醜い汚泥人形(おでいにんぎょう)ですよ。牛丼美味しかったです。


昨日書いた梶井基次郎の『檸檬』の記事に追記したい話。作品が世間で流行った後、影響を受けた文学好きが、作中の主人公の行動を真似て買っていったレモンを本棚に置いて帰り、再オープンした去年の8月からは、もう片付けられてるだろうけど、期間限定で「レモンを置いていってくださいや〜」とカゴを設置してたこともあったらしい。


檸檬を読んで感動を受けた人間が、実際にレモンを買って京都の丸善に置いていっちゃダメだろ。あれは、まったく無意味な行為に妄想の中で命を吹き込んでいるからこそ素晴らしいのであって、「レモンを置く」そのものをやろうとするのは、アタシはね、アタシは良くないと思うよ。関係ない場所で関係ないことやるのがより「檸檬」であって、京都の丸善寄るんだったら鴨川まで行って川にジーパンのまま入ってど真ん中でジーパンを脱いで帰ってくるとか、その後「ジーパン」って短編書けますよ。
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2016年02月29日

梶井基次郎『檸檬』




1924年 日本


この作品が名作として読まれているのは、モテそう感も然ることながら、「こんなこと考えてその辺うろついている男がいたんですよ」というたんなるいち個人の思考の推移を、そいつの鼻呼吸の音が聞こえるくらいの距離までクローズアップして書いてることが単純におもしろいからだと思う。病弱で金のない男がレモンを買って本屋において帰ってくる、それだけの筋なのに、「病弱で/金のない男が/レモンを買って/本屋において/帰ってくる」という最小単位の文節、文節へ意味をもたせていて、そうであるなら無限に小説書けちゃうよおい、この世の人間全員小説なのかよ。ちょろいだろ。


なんかうまくいかねえな馬鹿野郎、という気分で好きなものが売っているお店に行っても、間隙が満たされるのではなくなんかしっくりこねえな、って帰ってきてしまうことがある。二日酔いででかめの本屋に行く、主人公は丸善に通うのが平生の趣味ですが、なんか「情報、こんなにもあるのかよ」ってオーバーフローしてしまう。心がアーっとなるというか。"書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取の亡霊のように私には見えるのだった。"


道中でふと目に止まって八百屋で買ったレモン爆弾を丸善の本棚に置いて、大量の情報が木っ端微塵に吹き飛んだらかなり笑ける。この話は、実はギャグの小説だと思ってます。ここからはなんとなく今日考えたことで、二日酔いで出社して、路上でウエってなったんですけど、その時ノドが酸ですっぱかったんですよ。で、レモンのフレーバーが、最初のゲボはレモンのフレーバーがしたっていう、で、『檸檬』も、梶井基次郎が体調悪くなって丸善で吐いちゃったから思いついたんじゃないですかね。違います。
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2016年02月28日

ユタカくん

小学校1年から2年の途中まで、ユタカくんという色黒の少年と同じクラスだった話をします。ユタカくんは小学校に上がると同時に富山から引っ越してきた。富山弁というのは若干関西訛りが入っており、県境をまたいだ新潟県上越市のしょうがく1ねんせい達は彼の「ホンマ?」にけっこうビビっていた。


入学し、出席番号が一つ違いだったので席が前後になった。クルッとイスごと振り向き耳慣れない言葉でまくしたてるユタカくんに、生まれながらにして守りの体勢で生きようとしていた自分はかなり恐れおののいた。しかし、だんだんと、彼の服装のパターンが「紫地にティラノサウルスが雄叫びを上げているTシャツ」「赤白のボーダーシャツ」「土星の輪っかが"HELLO"という文字列になっているTシャツ」のローテーションであるという事実に気づいた頃にはすっかり仲良くなっていた。彼は上にお姉ちゃんが2人、下に弟が1人と平成の世にしてはまあまあなかなかの大所帯で暮らしていて、あまり着る・食べる・住むに恵まれているとは言えない環境のようだった。シーズンを通して半袖半パンで貫いていた。足が速かったのにモテていなかった。


通学路でふと、道路脇のアスファルトとブロック塀の境目に生えているヨモギを摘んでいるところを見かけた。「ヨモギ餅にしてもらうんや」と語っていた。横にかがんで、見よう見まねで収穫したヨモギを家に持ち帰ると、母から「そんな不衛生なもの食べられるわけがない」と棄てられてしまった。ユタカくんはヨモギ餅を作ってもらえたのだろうか?


近所の公園でフリーマーケットが開かれたことがあった。遊びに行ってみると、ユタカくんに出くわした。ビニールシートの上に並べられたスーパーファミコンの裸のカートリッジの前でうんうん唸っている。声をかけると、1本100円で所持金が百円玉一枚、どれを買おうか迷っているらしい。しかも彼はスーパーファミコン本体を持っていない。つまり、俺の家にソフトを持ち込んで機械と電気を拝借しようという魂胆なのである。つまりここでの選択は、俺の生活にも影響をもたらすわけだ。2人でしばらく考え、『ろくでなしBLUES』の対戦格闘ゲームをチョイスした。月刊コロコロコミックしか読んだことがないくせに、ヤンキーが暴力でのし上がることを良しとする週刊少年ジャンプ連載作品の対戦格闘ゲームを手に取った我々の価値観、振り返って分析するに、「顔の面白い人が写っているから」一点だったのではないだろうか。その日以降、下校するともう先回りしてうちにいるユタカくんがお菓子を振る舞われながらゲームで遊んでいる、という日々がしばらく続いた。どういうことだよ。もしいま会社の同僚が自分より先に自分ちでゲームしてたら殴るよ。
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ストーリーモードで、前田太尊を操作して、小便器の前に立たせるとおしっこをする、というのが面白かった。たぶん今やってもまだ面白い。


ある日、教室の中で育てていた野菜、たしか枝豆かなにかだった、日陰になるように床に置いてあったプランターに、休み時間はしゃいでいたユタカくんが転んでうっかり思い切り尻もちを着いてしまった。女からの糾弾の雨あられ。たまたまお前たちでなく、ユタカくんの尻だったというだけなのに。帰りの会で晒し者になり、担任からもお灸を据えられた。ティラノサウルスのTシャツを着ている人間があんなにもしょげることがあるのか。あの時新潟県でいちばん健康だったユタカくんは、次の日、またその次の日学校を休んだ。


担任は風邪という説明をしたが、どうしても彼が1℃2℃の体温の上昇で休むようなやわな男じゃないという気がしていた。冬の日本海から吹いてくる季節風に最小限の布きれをまとうのみで立ち向かっていくあいつが。なにやらわけがあると感じ、帰り道、ユタカ家を訪ねてみることにした。我が家と逆方向に歩いて行くのは初めてだったかもしれない。


ピンポンを押すと、ユタカくんの1つ上の姉が出てきた。両親は共働きだったので不在だった。もしここでお母さんが出てきたら、「ユタカは病気だから」という理由で門前払いをくらっていたかもしれなかったので、お姉ちゃんがすんなり通してくれたのはラッキーだった。自分の部屋はないので、ユタカくんは居間に座っていた。いつもより色黒だったような気もする。落ち込んでいるという表現も違くて、ハイ状態に入れっぱなしのギアがニュートラルに戻っている。ユタカくんに立ち会うときのはっけよいから変化を食らってしまった。具合悪い?と聞いてみると、「ちゃうねん。おれが学校行かんかったらな、みんなと逆やとおもうねん。おもろいとおもうねん」と言った。さして意味がうまく掴めなかった。しばらく2日間学校であった出来事を報告し、ユタカ家を後にした。家に帰り、前田太尊を小便器の前に立たせてみたりした。ユタカくんはその翌日、こないだまでのように学校でうるさかった。


みんなと逆やとおもうねん、おもろいとおもうねん、勉強はあまり得意ではなかったユタカくんが途中式を経ずに、集団にカウンターパンチを打とうとする心意気的なものがなんとなく、自分が世の中の通念と違った何かをやってみたくなった時によぎる。3年生に上がる前に転校してしまった。なんとなく思い出したのでもしブログを見つけたら教えてくれ。10月10日の体育の日生まれだった。足速くて。そこは裏切らんのかよ。
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2016年02月26日

サマセット・モーム『月と六ペンス』



1919年 (英)


作家である主人公(一人称の僕=モーム本人)の目線で、ロンドン出身の「チャールズ・ストリックランド」の生涯をルポルタージュするていで書かれた話。ストリックランドという人物はゴーギャンを下敷きにしているが隅から隅まで人生を完コピしたわけでなく、1903年に死んでおり、没後、徐々に当時ウケかけていた孤高の人の生涯になぞらえた創作物です。

証券マンで、安定した収入を得、家庭を抱え、"幸"を体現する存在だった、"幸"ことストリックランドは、齢40を過ぎてからいきなり妻、子どもを捨てて、単身、パリに渡りました。もちろん家族・親族はそのあまりにも唐突で非常識な行為に対し、「絶対女に決まってる。今すぐに土下座したら許すから帰って来い」というメッセージを託そうと、物書き志望で、そんな前途のある若者を囲うのが好きだったストリックランド嫁のご指名で主人公がパリに飛びました。これはネタになるかもしれないという好奇心もあり、たどり着き、見つけだした目的のおじさんが、バーで語ったいきさつは、"「じゃあ、一体何のために奥さんを捨てたのです?」「絵が描きたいからだ」"と。


体裁や、モラルやタブーなどを一切かなぐり捨てて、「絵が描きてえ」一本で世俗をうっちゃってただキャンバスに向かい続ける40のジジイ。ただ、決して魅力的に、素晴らしいじゃないかと全面肯定姿勢で評していない。むしろ、徹底的に皮肉に書いている。主人公も創作で食っていこうとしてるように、人間の内面への邪推に余念がないので、ずっとイヤなヤツのまま、イヤなヤツの内面を分析している。


食うもの食わずに己の創作欲にしか一切興味のないストリックランドを、ダーク・ストリーヴという、通俗的であり、かつて過ごしたイタリアで見かけた微笑ましい光景、小さい幸せ見つけた!なぞをちまちま題材にして、とりあえずの評判を獲得して日銭を稼いでいる男が面倒を見る。ダーク・ストリーヴさんは、自分の作品を俯瞰で見る目線は持っていないのに、他人の創作物のどの部分をどのように評価すべきかという審美眼だけは備えている不器用なハゲで小太りのおじさん。

そのおじさんが溺愛しており、本人もその愛に応えているはずだった、料理好きで容姿端麗なダーク・ストリーヴ嫁が、夫のアトリエで作業しているぐずぐずなろくでなしのストリックランドに惚れてしまう。己が向かっている”絵”にしか一切の興味を示さない、「は?惚れるなら勝手に惚れとけば?でも性欲がやべぇときは抱くけどね」、という立ち位置のストリックランドへの恋が芽生えてしまい、恋が報われないと知るや、自殺する。


モームは、ストリックランドの嫁、ダーク・ストリーヴの嫁という、"幸"に向かって走るレール上の2人の女を奈落に突き落とす。


モームはゲイだったらしいが、とことん女に失望し尽くしていたが故に、じゃあ女なんてくだらねえから男に惚れよう、とならざるを得なかったとしたら?作中、女ってバカ過ぎるだろという苛烈な攻撃がちょくちょく出てくる。うむ、確かにそうだねと納得せざるを得ない勢いで書いてて無理矢理腑に落ちんかい、と鬼気迫るものを感じた。


"「女っていう奴は、何て馬鹿なんだ!愛だと。ふん。いつだって愛なんかぬかす。男が女を棄てるのは他の女への愛のため以外にないというのにだ」"


舞台はおおまかに辿ると、「ロンドン」→「パリ」、そしてストリックランド=ゴーギャンが晩年を暮らした「タヒチ」と移ります。段階ごとにストリックランドの生活が、唯物ではなく、おそらく求めていた環境に移っていく。半端ない色彩で満ち溢れたタヒチで、ご縁があり現地で嫁を娶り、しかし、ハンセン病に感染し、いよいよ周囲から肉体的にも差別される中、ボロ小屋の天井や壁に描き上げた最期の絵。現地の嫁、そこでこしらえたてめえのガキをこさえた嫁にすら、"あの女は俺をほっといてくれる。飯を作り、赤ん坊の世話をする。俺の命じた通りにする。俺が女に望むすべてを与えてくれるのだ"とのたまった人間の絵は、顔面の原型が病気でグズグズになってもなお、己に惚れていた現地の嫁が守った言伝てにより、火がつけられ、燃やされてしまいました。死体はヤシの木の下に埋められた。


語り部である私=モームは、タヒチに旅立つ以前で終わっときゃ前途が多望たる話で終わらせられたし(この引き際をあえて逃した理由に関しては作中で語られている)、なまじ引き伸ばしたとしても、ストリックランドの何もかも全部が詰まった小屋が燃え尽きて灰になったタイミングで終わっときゃスッと引けるのに、後日談まで用意してて、うわっ、性格悪っ、ていう気持ちで終わる小説でした。性格悪い人はぜひ読んでみてください。
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2016年02月21日

2016/2/21の日記

朝10時ぐらいに起きて、おとといCD屋さんで、稼いだお金と交換して手に入れたこぶしファクトリーの「桜ナイトフィーバー」の初回特典PV映像を8回から22回ぐらい鑑賞した。桜ソングは世に超あるが、個人的には川本真琴の「桜」に比肩するとんでもない楽曲だ。作詞作曲はKANで、桜の一人称で人間に対して問題提起というのが白眉だ、構図ひとつ工夫するだけでここまで印象って変わるかね、と驚く。PVもステキだが、和田桜子ちゃんの見せ場が少なかったのが残念だった。3/8生まれだから名前に桜と入っているのを活かしてくれんかい。俺が桜子ちゃんのパパだったらアップフロントの前でそう大声を出しているのに。


南海電車に乗ってなんば/日本橋へ。前日馬鹿みたいに焼酎を飲んで臓器が紫だったが、瀕死になってから復活した時に強くなるサイヤ論に則って己をシバくために二郎インスパイア系のラーメン屋に行った。店のドアを開け、閉めた瞬間空気が悪すぎて髪の毛がハゲてしまった。全マシにしたが案外食いきれて、もう今日何も食わないでいいな、と極狭の店内を通り抜けようとしたら壁にハンガーで吊るされているコートに引っかかってバサバサと落っことしてしまい「アー」と言ってしまった。店内の人間は豚に意識を集中しているため何も反応が無かったので、一人でもそもそと元の状態に直しながらお腹いっぱいなのに死にたい、という初の心になった。外に出たらこんな大阪の南なんて最悪の大気なのにやたらと新鮮にうまかった。二郎系の店に行く度に、結局店の外での呼吸のほうがうまいんかいと思ってしまう。


ハロプロショップの方にまで歩いたが、ここに入るとなぜかサイフの中のお金がなくなってしまうので今日は二礼二拍一礼だけで引き返してきた。だんだんと自分の中で、ハロショが「滝」や「お寺」と同じ位置になってきた。


ベローチェでコーヒーを飲んで2時間居た。ベローチェは安いのでいいが、とりわけ日本橋のベローチェの客層はあまり良くない。だいたいでかい声でソシャゲやらモンハンやら遊んでいるので気の集中に根が要る。今日は宇野浩二『苦の世界(1918-1921)』を読み返した。本当に人生うまく行ってない人間しか出てこない小説。なんでこんなもん出したんだ。背すじが冷たくなる。作品中、「ヒステリーの嫁に耐えかねて別居をはじめた売れない画家」「実の父親に彼女を寝取られた学生」「借金取りから逃げている本屋の主人」の3人のダメな大人が、家に帰りたくなさすぎてなぜか浅草花やしきのメリーゴーランドで遊ぶシーンが何度読んでもいい。

"「メリーはたのしく、ゴーは…ゴーはなんでしたっけな。ああ、行くですか、そしてランド、いや、ラウンドはまわるですか。はあ、メリー・ゴー・ランドじゃない、ラウンド…たのしく、行く、まわるですか。なアるほどね、たのしく、行く」…といっている時に、どうしたはずみだったのか、山本は、ゴトン「あッ」というさけび声とともに、木馬から落ちたのであった。" たのしく、行く、まわるのが人生で一番難しい、人生さえ上手くいくだけでなにも言うことはないんですけども。


千日前のジュンク堂まで歩き、適当に文庫本を買って会計を済ませると、3/21で閉店するとのこと。嫌過ぎる。ここで勘で本を買うのが大阪越してきてからの数少ない楽しみの一つだったのに。思えば、つい先日も仕事終わりにたまに立ち寄ってクイズのゲームをしていた「ニューウメダ」というゲーセンもつぶれた。いよいよもって西から東に移る決心が固くなる。"居る"が出来なくなるのは辛いな。堺市とハロショまでのけもの道を往復するだけの生き物になるかもしれないです。
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2016年02月18日

シーザーサラダに相対す

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大人数の飲み会前半で、誰が注文したのか、コースに組み込まれていたのか、ふと気が付くとテーブルに運ばれているシーザーサラダ。俺はこの料理があまり好きではない。一人暮らしで、コンビニで買ってくることもなければ、まかり間違ってもお店で売っている葉っぱを自宅でちぎってお皿の上に盛ることもない。子どもの頃を遡っても、部活から帰った晩、誕生日、はじめてシコる前、はじめてシコった後、どの食卓を思い出してみても登場しない。こいつに出会ったのは、大学受かって上京して、集団でどこか酒を飲むお店に初めて連れて行かれた時だった。終始恐縮していた。恐縮しきりだった。思い出の中にシーザーが活きてきたためしがない。


シーザーの気に入らない点は、まずそのものずばり味です。味の嫌いな食べ物を「味は嫌いだけど、でも良いな〜」と感じた経験は今のところありません。生野菜に温泉たまごは、合わないよ。レタスの青い味、シャキシャキのみずみずしさをとろみが殺す。青春を否定してかかってくる。あとクルトン。何がしたいんだ君は?皿の上に謎の立方体を散りばめるな。食感だけで「仕事してる面(ツラ)」を出してくるからなあいつ。渾然一体の逆の概念。で、プチトマトも居るじゃないですか。プチトマトも攻撃してやろうと銃を構えましたが、単純に僕がプチトマト氏個人が苦手であり、あくまで集団としてのシーザーの体制を批判する今回の趣旨と外れてきてしまう為、撃ちません。


シチュエーションというか、木製のボウル的なものに入ったシーザーとトングが、卓上に提供された瞬間の空気が嫌い過ぎる。シーザーなんかが出てくる飲み会が気の許せる関係で構成されているはずがないので、"下の立場"の人間が、"上の立場"の人間に葉っぱを取り分けてやらねばならない。上司と部下か、合コンなのか、モンスターハンターのオフ会なのか知らないが、トングを握った奴が、そのまま「気が利き、世の中に慣れている」という称号まで勝ち取ってしまうのが気に食わない。こっちはもう、髪整えたシーザーがこっちに歩いてきた時点で辛い気分で何も出来やしないのに。緑色の葉っぱを均等に配れたら偉い、ってそんなものは洞窟でやってくれ。


第一、酒の席に現れるくせに、アルコールのお供にならないってますますもって存在価値がわからない。薄いてろてろが胃に敷かれてるだけの、膜一枚隔てた真上からビールが流れ込んでくるのでまあ酔う。女性はお酒に酔う。男は調子が上がる。メートルが上がる。力こぶが出てくる。アパートに連れ込む。ロフトに上げる。そこまでは想像付いたんですけど、先へ進もうとしたら頭がボーッとしてきたので何も考えられませんでした。つまるところ、シーザーが君臨した時点でもう、ペニスの暗喩なのです。シーザーサラダ、あらため「ペニスまがい」です。気をつけてください。


シーザーサラダ。そしてポテト、から揚げ。奴らが揃った時点で、厳しく、不当に重力の負荷がかかった闘いが余儀なくされることは疑いないでしょう。しかしポテト、から揚げは、いわば犯罪の片棒を担がされているに過ぎない。もともと彼らは、大手ハンバーガーチェーン・マクドナルドがメニューに採用しているように、万人に愛される存在なのであるから。しかし、ペニスにそそのかれたが故に、或る一人の女性が強姦されてしまう負の連鎖に巻き込まれてしまったのです。悪の源を絶ちましょう。まずはビニールハウスに火を放ちましょう。


いや、しかし、この前レタスで豚肉などを巻き、ぽん酢をふって食べてみたら美味しかったな。迷うな。今日はやめるか
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2016年02月17日

がんばれゴエモンきらきら道中のエンディングは良い



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『がんばれゴエモンきらきら道中 〜ぼくがダンサーになった理由〜』 という、95年にコナミから発売されたスーパーファミコンのゲームの エンディング が好きすぎて、Twitterの140字で収まらない伝えたいやつを伝えたい、というだけの記事です。あらすじとかはまだるっこしいので省きます、75%くらいネタバレしますのですいません。やったことある人の間で共有できたら嬉しいし、未プレイの方はこんなとこで中身を知ってしまってもなお手にとってほしいゲームです。

冒頭に貼った画像ですけど、「泥棒」と「泥棒の相棒」と「緑髪のくのいち」と「ちょんまげの生えたメカ」の笑いのツボが一致するなんてことあります?職種、性別、人類であるかそうでないかの壁を乗り越えてゲラゲラと泣き笑ってるってこんな平和なことないだろ。そういうエンディングなんです。


惑星を股にかけた闘いの後に、夕暮れをバックに仲間たちと大爆笑している。ちなみに、こいつらがツボっている共有の話題については、迷ったんですけどそこはゲームやってもらったほうがくだらなさが伝わるので隠しておきます。ここでは。配慮として、「〜ぼくがダンサーになった理由〜」部分なのですが。ただ、ここは死ぬまでに知っておいたほうがいいです。間違いない。

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ヤエちゃん、ゴエモンに対して「さん」付けなのかよ、ってのも距離感いいですね。あくまで彼女はくのいちですから、共闘関係にあってもそれ以上密接にはならないビジネスの心構えが逆にそそる。育ちの良さとかも伺えるしな。口元に袖もあてがっているし。

悪役のセップク丸って奴は、宇宙のあらゆるスポーツを極めているんですが、なぜかニッポンの「切腹」という文化を スポーツ であると勘違いしていて、で、腹の中に爆弾を積んでおり、こいつの興味本位なんかで本当に切腹なんかさせられた暁には星が滅びてしまうから大変なのでそれを阻止しなきゃ っていうくだりがあります。懇切に説明してこの通りなのだから仕方がないだろ。いざギリギリに腹に刀をかけるシーンが、今あらためて見たらかなり好きだったので貼っときます。

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「うおおおーーーっ!いてええええーーーっ!!」と 叫びながら腹かっさばくんじゃないよ。なぜ彼が逆さまなのかというと、宇宙空間に居るからです。

このゲームはゴエモンシリーズの中でも割りと賛否両論あって、ボス戦がミニゲームだったり、どうあがこうがノリが特殊すぎてついてけないとかあるんですが、スーパーファミコンの親しみやすさに今の時代でも通用する尖ったギャグが共生している稀有な作品と思う。以上です。ぜひ。
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中学生女子、君は豚ではない

聖林檎学院中等部に通う中学1年生の少女・国分果林。ある朝、学校に遅刻しそうになって急いでいた果林は、道端で偶然子豚を見つける。しかしその子豚はブーリンゴ星という星の王子様・トンラリアーノ3世(トンちゃん)で、修行のため地球に来ているという。そして、いきなり「果林に変身してスーパーヒロイン『ぶーりん』として活躍してほしい」と頼む。しょうがないと、果林が変身してみると、なんとピンクの『ブタ』になってしまった。


『とんでぶーりん(94)』のあらすじです。この記事は、不可抗力でどういうわけか豚という生き物に变化させられてしまった中学生・女子に向けて贈る、いやいや、君は決して心まで豚になったわけではない、悲観するな、万事うまくいく。というエールである。以下、エンディングテーマ、『ぶーりん・あ・ら・もーど』を引用していきます。




♪チョコ・パ チーズケーキ プリン・ア・ラ・モード まっしろバニラはキャラメルリボン
 洋なしタルトに横目で気になる 本日のケーキはモンブラン

メニューに目を通しながらも、おそらく壁掛けの黒板か何かに書かれているであろう「本日のケーキ」にまできちんと目を配れているあたりポイントが高い。店側が意気込んで提供している、今日イチのケーキに対する心構えは、何も考える頭を持っていない豚のそれとは明らかに異なる。 

♪約束したばかりのダイエットだけど なかったことにして やぶーりん
 次から次に目移りしちゃうけどダメ! 全部たのんだら アンビバぶーりん

ダイエットの天敵はストレスである。自制が効かなくなったが最後、あっという間に豚への坂道を転げ落ちていってしまう。ここでは一見「なかったことにして やぶーりん」と己を咎める心を捨ててしまっているように見えるが、中学生・女子の財力との兼ね合いで一回のぜいたくに使えるマックスが1,000円少々として、飲み物1杯、ケーキ1つに収める意気込みたるや、いくら欲望が散らつくとはいえ、考える力が失われていない。単にカロリーを摂取したいだけなのであれば、1,000円以内でおかしのまちおかで豪遊することも可能である。量より質を選択している。決して豚の思考に陥っているとは言えない。


♪たくさんメニューの中から(ぶぶぶぶーりん えらぶぶーりん)
 いちごのパフェたのんだの(ぶぶぶぶーりん よろこぶーりん)

"いちごのパフェ"を注文するという、つまるところ安定、「間違いなく美味しい」を求めてしまう日本女性の心のあどけなさに惹かれてしまう。絶対に美味しいからな。苺が生クリームの上に乗っかっている物理のうまいやつは、平和な家庭に育ってきた、両親の寵愛を存分に得て育ってきたニンゲンの女の子がステキだと空想に思い描く第一の表層に現れる。自分の辿ってきた家族生活、経済状況を鑑み、いちごのパフェをオーダーする。


 まるで幾千の きらめく流れ星 たったひとつだけ めぐりあうみたいに
 あなたにこうして せっかく逢えたのも 偶然じゃないわ 瞳そらさないで


涙が出てきた。渡されたメニューの数ページや、店内の入り口脇に据えられた黒板という限りなく少ない情報量から、幾千の流れ星から、たったひとつを掴み出す覚悟がここで歌われている。そして、こうした出会いが偶然ではない、たまたまの気の紛れではない。"瞳そらさないで"という決意から、いちごのパフェ という概念に相い対し、如何に今回の1,000円強にかける体重、加圧が重いか、読み取らなくてはならない。女子中学生の千円札と、使い道のない成人男性のサイフでくしゃくしゃになった千円札の価値はまったく違います。



♪自由の女神に一目ぼれぼれ ナイルの流れで頭冷え冷え
 午後の紅茶運ぶインド象にゆられて エッフェル塔までお願い
 知らない街をひとりで旅したら なんだか 知ってる気がして デ・ジャ・ぶーりん
 気が気じゃないのは 着がえだけじゃないのよね おさいふ落としちゃ アンビバぶーりん


Bメロではいきなり世界の名所を巡りだします。「なんだか 知ってる気がして デ・ジャ・ぶーりん」と、どうにも強がってしまう心情を吐露している。この娘がたとえメチャクチャ可愛くて、惚れてしまったとしても、世界のどの名所に連れて行こうが、「なんだか 知ってる気がして デ・ジャ・ぶーりん」で一蹴されてしまう。オンナの底知れなさがこの小節に溜まっている。豚ではない。そのワンフレーズで男の顔面をキックできる。

「なんだか 知ってる気がして デ・ジャ・ぶーりん」でオンナは男の首を、言葉で刎ねていると思う。

♪ ワクワク空を飛び越え(ぶぶぶぶーりん すぐとぶーりん)
 初めて行く国はどこ (ぶぶぶぶーりん よくとぶーりん)

 両手ですくった 小さな砂の粒 風に舞いながら たどり着くみたいに
 あなたにこうして せっかく逢えたのも 偶然じゃないわ 瞳そらさないで


"初めて行く国はどこ"。"初めて"の覚悟の敷居の圧倒。波を受け止める覚悟があるか?我々はタキシードを着て、身長を185cmにし、ストレッチなどで関節の間をミチミチに伸ばし、つま先立ちで少女からだばだば溢れでてくる感情の堤防として機能せねばならぬ。砂のたった一粒にすら、必然性を見出そうとしている中学生・女子の心理を無碍にできるのか?その問いに対し明確な回答を用意していないようであれば、身を入れて頑張って勉強をしましょう。いくらでも勉強すべきことがあるなこの世は。
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2016年02月08日

メイド喫茶で誕生日を祝われている人間の感情

今日は彼女にフラれてショックで、最寄りの2駅手前でかなり脳が嫌になって電話を入れて会社を休んでしまった。周りの人間がやったらメチャクチャ叩くけど、自分がやるぶんには当然許されてしかる権利を強く主張します。畳の上で包丁を刺してじっとしているのに飽きたのでブログ更新します。


昨日友人のツヴァイドラゴンと日本橋に遊びに行きました。ちなみにツヴァイドラゴンは30才男性の職業・デビルです。「ツヴァイ」で「ドラゴン」で「デビル」の成人男性がこの世に存在するなんて頭がおかしいのではないか、と思われるでしょうがそうなのだから仕方がないので掘り下げないでおきます。で、何しようかってなって、メイド喫茶に遊びに行きました。


あんまりいまだに楽しみ方もわかってないんですけど、とりあえず飲み物ちびちび飲みながらだべって、たまにお冷を注ぎに来てくれたメイドにしゃべりかけ、「その猫のポシェット可愛いすね(笑)」「メイドさん厚切りジェイソンってオモロいと思います?(笑)」などとパンチを打てど放てどカウンターでボディをもらってお腹を抑えながらイスにもたれる、という繰り返しで、もうむしろ逆にそれを楽しみにメイド喫茶行くまでの域に達しつつある。しかし周りを見渡すと、服装や髪型やまゆ毛や声帯の震わせ方や腹式呼吸にいっさい興味のない、屍にチェックのシャツを羽織らせジーパンを履かせただけの生き物が、わりと楽しそうに、我々よりは明らかに朗らかにメイドさんや周囲の人間とトークを繰り広げている。確かにメイド喫茶は、たんなる喫茶店から比べたらそりゃ割高だけど、席代取らないとこは取らないし、1000円弱も支払えばそこそこかわいい女の子に対して、お客様というだけで上の立場に立てるし、キャバクラなんかよりはぜんぜん安上がりに女の子と合法に喋ることができる。屍のくせにかしこいな。


そこでカッコつけて多少なりとも整えてから臨めば彼女できる可能性だってあるのに、それをしない人間の感情があまり理解できない。で、この日一番異彩を放っていたのが、自分のハンドルネームの描かれたトレーナーを着た、40半ばぐらいの小太りの男性、ジャイアンの元ネタか?みたいな男なんですけど、店内にいきなりハッピーバースデーが流れてきたかと思えば、ケーキを運ばれ、店中のメイドに囲まれ祝われだしました。居酒屋とかレストランで、たまにそういう演出に巻き込まれて、テロで死ぬ時もこんな唐突なんだろうな、って落ち込む時ありますけど、大概誕生日の主は友人、家族など複数名で来てるパターンがほとんど。しかし目の前では、単独のおじさんが謎に大量の女たちから祝われている。「ハッピバースデー、ディア○○」の○○には、服に書いてあるハンドルネームが入る。今思ったんですけど、そこで歌詞が詰まらないようにメイドの中の1人がファインプレーで切り抜けたのかもしれない、と推測すると面白くなってきた。


ハッピバースデーが流れ終わった後は、メイドとチェキを撮影し、また席についてただただ佇んでいました。これはいったいどういう感情??40代になり、他に自らの誕生日を過ごしてくれるような恋人、友人、家族が居ない、じゃあメイドカフェで俺のハンドルネームを、架空の自分を祝ってもらおう、という風になる気がしないし、そもそもそんな年頃になったら一個年齢が増える日に対する感慨ってあるんだろうか?その「感慨」というマテリアだけ己にあって、ほかの人生、生きていれば備わっていくであろうものが止まっているって腑に落ちない。自分がどう観られているかの視点が消え去ってしまっている。FPSですよ。


一個結論をひねり出したのが、どんどんソリッドに、余計なものをそぎ落としていくとそうなるのかな。余分な贅肉を削ぎ落とす。F1マシンみたいな。ジョブズの発想。機能美という。体型がだらしないのは、シャープじゃなくても「最低限生きていく」ことは可能だから。そうなると日本橋にジョブズがわらわら沸いてることになる。電気街ってそういうことか。俺も20年後「スティーブ・ジョブズ」と書かれたトレーナーを着てメイドにハッピバースデー歌われてる日が来るかもしれない。30になるデビルもいるし。可能性は無限大ですよ。
posted by JET at 21:08| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする