2016年04月10日

ナサニエル・ホーソーン『緋文字』と不倫に関してのブログ



1850年 米

緋文字の「A」はAdultery(姦通)の頭文字Aを表しているらしいけれども作品中そうですという種明かしをしているわけじゃない。Angel(天使)かもしれないしAble(可能性)とも受け取れる、そうやって正解を散らして、読者諸君に委ねてくる。緋文字、という作品は序章の「税関」で、ナサニエル・ホーソーンさんが実際に役所づとめだった時期にたまたま発見した(というていの)一片のドキュメントを押しなべていって語られる話であり、ドラマを吹き込んだ著者の想像力が必ずしもイコールで答えとは限らない、ことは本人も気づいていたので緋文字「A」をいかように捉えるかというワキの甘さはあえて残しておいた部分で、さあみんなで考えよう、と香取慎吾が昔いいともでアルタの100人から徐々に質問にYESと答えた人間の総数を減らしていくデスゲームを任されていたけれども、もしも、匿名性が護られているはずの「YES」のフォーカスがだんだん絞られていって特定された瞬間に照準が合い、撃ちぬかれてしまったとしたらそんなリスクなんか背負いたくない。絶対にバレないというレンガの向こうに立っているから石をぶつけられる。


旦那がいるのにもかかわらず、その旦那は船旅に出たっきり帰ってこない。死んでしまったんだろうという信憑性のない情報を掴まされたまま、町のエリート牧師に犯されて子どもをこしらえてしまった女、女を犯してしまい子どもまでこしらえさせてしまったけれども、「罪」と認識しているために苦しみ続けている牧師、そして実は死んでなかった旦那、産まれちゃった娘。


魔女狩りもガンガンやっていたし、清教徒が支配していて、不義を犯すことがそのまま死刑とされる社会で、酌量の余地ありとそれなら「A」の文字が刺繍された服を一生着ていなさいという判決が果たしてどっちが残酷なんだろうか、小さい娘がその「A」って何なのお母さん、と尋ねるのをはぐらかしつづけるのにも限界があるし開き直れるたぐいのものでもないし。一回きりのワンミスの反省が話の最後まで続く。母親に輪をかけて凹みまくるのが相手の牧師で、彼はその一回きりの、どうしてものついついのセックスだけをひたすら悩み続ける。街の連中は彼の説教を聞きに教会に来るし、あんなヤリマン殺してしまいましょうよ、にも歯切れの悪い受け答えしかできない。


"死んでしまった"はずの夫は嫁より相当年上でジジイで、頭のキレまくる医者でもあり、しかも不具者で、やっとのことでヨーロッパから海を渡って嫁の居るニューイングランドにたどり着き最初に目撃した光景が、嫁と身に覚えのない赤ん坊が公衆の面前で晒しあげられているまさにその瞬間だった。この元夫は復讐の塊になります。大事にしてやってた嫁に対してもそうだし、気づくんですよ。「あ、どうやら牧師の野郎が嫁とヤってますよこれ」っていう、でも直接問い詰めることはせずに牧師からゲロさせようとする狡猾さ。それが最も苦しいから。でも、こいつも悲しい奴で、不具持ちだから「ごく普通の幸せ」というものへのあこがれが強く、どうしても欲しくてたまらなかった。"なるほど年はとり、陰気で、不具だったけれども、それでも、どこにでも転がっていて、だれもが拾いあげている素朴な幸せを、わたしも拾いあげることができると思ったのだ。"


不貞を犯したら罰せられる文化や倫理観、人妻とセックスしたらいけないことはお釈迦様もキリストも仰っているけれども人間の動物の部分、前歯の部分が抑えられなくなってしまったとする。そんなことは是か非か問うまでもなく絶対的に非で、性欲の正当化じゃなくて、完全に非であると、悪うございましたと認め、命を棄てることまで考慮に入れている者を果たして許せるかどうか。然るべき処置とは一体何なんだろうか、誰もが「そこまでしなくても…」と一歩引いてしまうラインで土下座しないと許してくれないんだろうか。峯岸みなみが丸坊主になっても叩かれたのはもともとがそこまで可愛くなかったからだろうか。というかそもそも、不貞というのは不思議な罰で、当人間同士でしか不都合が生じないのに周囲は石を投げたがる(マリオカート64のドンキージャングルパークでコースアウトした時のあれです)。逡巡したら俺も私もどこかで知らない人間とセックスしたいという感情があるけれども、それを塞がなければ社会がメチャクチャになってしまうよね、と宗教では不貞を禁じた。それを赦すか赦さないかでまた揉める。個人の斟酌を争いの種火にするべきじゃないと思う。


この『緋文字』で、お前の考える最悪の罰が実行されないかぎり満足しない説が固まるシーンがあります。晒し台に向かう夫人をはためで見物している、ひときわブスの女が言い放つセリフ。"あのごたいそうに縫いつけた赤い字のかわりに、わたしのリューマチ用の湿布のきれはしをつけてやりゃ、そのほうがよっぽどお似合いってことさ!" 黄ばんでそうだからマジでやめてほしい。

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posted by しきぬ ふみょへ at 13:06| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月04日

悪い人の声を聞くな

中学校3年、卒業式の前日予行練習で、心の底から嫌いだった腕力きちがいの陰口を叩いていたら本人にばれ、ちゃんとカラーをはめ込み、ホックのところでパチっと止めていた制服の襟をグワングワン揺さぶられ投げ飛ばされた。俺はバレーボール部だったが下手くそだったので日々顔面にボールをもらっていたのでメガネのスペアが無かった。襟首取られている間もメガネを高く掲げ、明日からの視界を奪われないように必死だった。前日のリハという事もあり全校生徒が参加させられていたので、400人弱の面前で首投げをされた。今振り返るとあまり興行的に振るっていないプロレス団体よりも大勢の前で暴力を振るわれたことになる。陰口の内容も、寒い時期なので体育館にジェットストーブが置かれていたのだけど、「いくらでかかろうがあのストーブに突き飛ばしてしまえば殺せると思う」といったハードコアマッチ思想が入ってたのでしょうがない。「やってみろよ!!」と胸元を掴まれてた時怖かったなー。出来ないに決まってるじゃないすか。メガネなんだから。


そんな腕力きちがいは地元ではセーフティーネットになっている私立高校を中退したのだが、キリスト系の福祉専門学校に入り直し、介護の仕事に従事しているらしい。メガネお笑い好きラジオ好きメガネメガネをぶん投げるパワーで老人の1人や2人、面倒見るなんて造作も無いだろうし、イエス様の教えに感化を受けたかどうかは知らないが、生きるという面ではまじめをやっている。田舎ほど結婚も早いが彼もそうで、俺が常日頃からかなりほしい自分の子どもを早々に作り、養っている。大学進学なんかせずに田んぼとセックスしていれば今の夢なんか一瞬で叶ったんだろうが、スーパーマリオブラザーズでも1-2から4-1まで飛びたくない派、過程をしがみたい、しゃぶりたいのでこっちのほうが長く楽しめるはずだ、という一点に期待を寄せてなんとか保つ。


俺はいじめられた経験はないです。この野郎の振る舞いにイライラはしていたけれど、明確にターゲットになった経験はない。その首投げまでは。日常的には、学年内でブスな女の子やアゴのいがんでた男が腕力きちがい一派にハチャメチャにいじめられていた。知ってはいたけれども、そこにイラつくばかりでなんとかしようと動いたわけでない。ああ、嫌だ、死んでくれたら嬉しいな!と願っていたばかりで実際に殺すのは法などにも触れるし、受験で市内の公立に受かったので出来なかった。いま、そのブスの女の子はちゃんと食いっぱぐれのない鈑金工と結婚して幸せに暮らしているらしいし、アゴの男は県内の大学医学部にストレートできちんと収まった。卒業後の道筋は知らないが踏み外すこともないだろう。


いじめられていた経験、あるいはいじめていた経験を大人になってから喧伝している人がかなりいる。義家弘介、絵本作家のぶみが嫌いだ。宇梶も嫌いだ。暴力を振るった経験を肯定している。そんな時代もあったねと、で済まされる問題でない。お前が摘んできた芽に宿っていた生命を背負えている覚悟があるんであれば決して世に出て目立とうとなんてしないだろ。面の皮の厚さが世渡りの最重要項であれば生きづらい。いじめられていた経験で飯を食おうとしている人間もそうだ。こないだ買ったクイックジャパンにも、奥田愛基とコムアイが学校で疎外感を覚えてふらっとエスケープしましたという話題で盛り上がっていた。盛り上がるな。"それでもなお"学校に通っていた人間に対しての引け目、を背負っていてくれないか。と怒鳴ろうとしたがコムアイさんは慶應義塾大学を卒業されていたので、うん、ひとまず置いておきましょう。奥田愛基、筋肉質の男性に首投げされてくれ……。ネットの殺人予告も怖いだろうけども、マジで不意に現れた筋肉質に首投げされてくれ……


「克服」による説得力、伝播のスピードを今一度洗うべきだ。世に出たいためなら周りにいじめられろ、あるいはいじめた後に後悔をし反省をすればOK、というテンプレートを母子手帳の1ページ目に書きかねない。安易にウケすぎだ。いじめるのも、いじめられるのからも腕振って走って逃げてくれ。形だけの更生で安易に認められたやつがこんなにも受けいれられるのならば、それを見越して、そもそも世に認められるために人間に悪を働け、という教訓がまかり通る日が来かねない。何ごともなかった人の意見を聞くことが流行る日が来たらいいのに。



明日仕事場で女子更衣室の模様替えに駆りだされます。ロッカーの移動をします。女がやれよ。俺は関係ないだろ。
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posted by しきぬ ふみょへ at 00:50| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月27日

檸檬の数珠

電気を浴びせれば俺のものになるだろう。海に向かって敢然と仁王立ちの学ラン。科学の粋の結集したやつですよ。波に乗ることの無意味を分かりなさい。などと逡巡しながら窓の外の海を眺めていた。何も起こらない。何も起こりはしないのだ。3年間の総結がペライチにまとめられてしまった。たらたら長い文章なんか誰も読みはしないのだから、このほうが簡潔で良い。西田幾多郎先生だって、「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。」と仰っているではないか。ニッポンの大碩学たる西田先生の一回転と俺の高校生活をイコールで縛り付けようというのは、いささかに暴挙と言えなくもないけれど、俺は若いのだ。今のうちに焼き付けておかなければならぬそして焼き払わねばならぬエロスが多すぎる。近視用眼鏡(がんきょう)のレンズの光屈折をうまいこと利用し網膜に投影している。窓の外の海でのんきに太陽にさらされている連中を、俺は頭脳でもって殺してしまうことが出来る。


腰に手をあてて高笑いしかねぬ、則巻千兵衛さんとDr.マシリトの悪の部分を掛けあわせて出来上がったような高校3年生の青年が、夏休み、なにやら童貞心(ごころ)に決着がついたのか、補習の教室にひとり残り、害をこねくり回していた。田舎の海辺の公立高校。まちがいで彼は誕生した。猿に徹せばよいものを、半端に知性を備えていた。性の爆薬なんて小便をかけてしまえばシケって鎮火する。だが彼は、小便だの海の水だのがぶっかかってもしぶとく燃え盛る炎を内蔵で燃やしていた。


購買の焼きそばパンを選ぶ理由はなんであるか。炭水化物に炭水化物を掛け合わせるエネルギー。エネルギーは破壊力だった。九九の世界では9×9=81が最強である。ククハチジュウイチ、という圧倒で、シチハゴジュウロク、をぶっ飛ばしてやりたかった。どんなに鍛えてようが日に灼けてようが、肘で敵の眼窩に垂直に食らわせられれば勝てる。バカが言っていた「肘でもええから目に入れろ」は真理だった。勝てばよかろうだった。毎日焼きそばパンに徹した。エネルギーが腹回りに蓄えられた。殴られても平気なように。


海で遊んでいる連中には電気を浴びせればいい。水に電気が効く、という知識を得たのはポケットモンスターのアニメの再放送がやっていたおかげで、ピカチュウがですよ、あんなに愛くるしいピカチュウが、ニビジムのスプリンクラーをぶっ壊してイワークにシャワーを浴びせてからの電流、という戦術を編み出していたのを観たから。工夫次第で、岩でできた大蛇を倒せる。ゲームなんて頭のいい奴じゃなきゃ、算数の得意な奴じゃなきゃ作れないんだから、ゲームを何だかんだ言って規制して自分とこのガキを護っている気になっている連中はどうかしている。歴史の本に出てくる人間だいたい殺されてるって最初に気がついたのは俺かもしれない。


彼にはまるまるの3年があったので、世の全レモンを結んだ電流の装置を作ることができた。小遣いで月に数個買えるレモン、から揚げにもぶっかけうどんにも絞らずにマジのレモンを貯めた。マジのレモン。わにのクリップは理科実験室から拝借してきた。鎖鎌のように振り回し、教室の窓から浜に向かってブン投げた。レモンの連なりがまっすぐ飛んでいって、ちょっと待ってください。これは美しいな、と思った。己の力のみに頼り完成させた兵器が白熱球のように可視放射し、炸裂のもとにお望み通りに小麦色になればいい。


水着の可愛い女がこちらに向かって走ってきた。話しかけてくる。


「レモンをたくさん繋いで海に電気を流しても、人は死なないよ」 まるで現実のようなことを言う。人を殺せなかったようだ。努力が足りなかったからか?次はいつだろう。大学入ったらたくさんチャンスはあるだろう。勉強でもするか。放り投げたレモンの数珠を手繰り寄せながら、「夏、夏、夏…」と、そういえば学ランの第一ボタンでも開けたらちょっと涼しくなるかも知れんと気づいた。
posted by しきぬ ふみょへ at 20:39| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月22日

桐谷美玲好きな男、クズ説

インターネットで調べたところによると、桐谷美玲さんの身長・体重は163.5 cm / 39kgらしい。人間としての体裁を保つための最低限を保っているだけの質量たる桐谷美玲さんという存在を愛している などとのたまう男はクズだ。


モデル、女優という職業 で飯を食わなければならない。つまり、飯を食うために「飯を自由に食ってはならない」という二律背反に縛られなくてはならない。自分で稼いだお金で、おいしいご飯をたらふく食べたいよ普通は。大人になったら誰だって、やっぱり俺はチキンライスでいいや根性、親の苦い微笑みを一旦忘れてぜいたくを尽くしたい日がある。食べログによると夜2万円から3万円くらいかかる店ですよ、ちょっと奮発すれば手頃といえなくもないね、ならばインターネットで予約だ、という半端に金に多少の余裕がある層ぐらいの男どもはまず、心身を掌握しようと「桐谷美玲と付き合いてぇ」→「桐谷美玲みてぇな女と付き合いてぇ」に縛られる。


ジジイどもが努力した成果の最上限として「桐谷美玲」と据えている。桐谷美玲を神棚のセンターに祀っている連中はクズです。


桐谷美玲は目下あなたがたの理想像としての姿かたちであるに過ぎない。163.5 cm / 39kgである桐谷美玲を愛しているに過ぎない。自然の摂理に反している女性に、「頑張ってください(*^_^*)」と無責任な顔文字を平気で投げかけられる男どもが桐谷美玲を苦しめているのに。モデルなんだから、女優なんだから、だったら"プロ"として俺ら消費者を楽しませて当然でしょ、とのたまう、頭皮が死んでしまっているジジイどもは一刻も早く脂分を控えるべきだ。桐谷美玲が好きならリカちゃんのドールとセックスをしろ。



アバラ骨が浮き出ている女 に性的欲求を狩り立たれる男は、「自分のぶよぶよの贅肉を真上から押し付け、圧力でかよわき女性を屈服する」という、てめぇがダラダラ生きてるだけで、生き物であるだけでなんでもないくせに、男として生まれた由来の腕力で女を丸め込む、というシチュエーションに興奮する歪んだフルメタルジャケット気取りのペニスばかりだ。



女の人はどうあがいても可愛い。白身魚のフライをお昼に食べたって、ちくわの磯辺揚げで2膳いけたって可愛い。男と同じ量のカロリーを摂取して可愛かったらそれだけで特殊の可愛さだ。なのに、桐谷美玲的なスタイルを押し付けるジジイが居る。ハゲているのに。桐谷美玲より努力をしていないのに。刺していいことにしましょう。刺していいことになりました。
posted by しきぬ ふみょへ at 01:33| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

サン=テグジュペリ『夜間飛行』感想



1931年 仏


飛行機に乗ってる奴と、地上で飛行機の運行を管理してる奴とのプロフェッショナルの話です。じっさいに飛行機乗ってる奴が、地上に居る奴に命を握られている。リヴィエールという主人公(航空郵便会社支配人、50代のえらい人)が、日々の商売が淡々とうまくいければそれでいい、お前は飛行機に乗れ、と冷酷に命令を下すことができ、飛行機乗ってる奴を従わせられる。互いがこいつプロだな、と認め合ってるから。航空郵便、というビジネスがまだ安定しだす前、そもそもが夜中に飛行機飛ばすのが、暗いし怖いからやばいとされていた頃に、リヴィエールは"せっかく、汽車や汽船に対して、昼間勝ち優(まさ)った速度を、夜間に失うということは、実に航空会社にとっては死活の重大問題だ"と、世間の罵詈や雑言は承知のうえで、あくまでビジネスチャンスであり、この事業は広い目で見れば人類の進歩に繋がるのだ、と今日もパイロットを見送る。郵便物は届けまくっても無くならない。理念が穏便に成されるためには、飛行機乗ってる奴の「恐怖心」を殺さないといけない、俺は上空で山がうねっているように錯覚しました、とか、マジで木々が俺に向かって吠えたんすよ、とか、お前しか知らないだろ、記録に記せないんなら虚偽として扱う、ちゃんと仕事しろやと。本人に言う。


作者のサン=テグジュペリは実際に飛行機乗ってる側の人間ですので、本当はこんな駒扱いされたらキレてもいいしその権利がある。しかしながら、リヴィエールという地上で管理する組織側の人間にまったく悪態をついていない。気高い精神を兼ね備えた者のみにしかわからない苦悩にクローズアップして作品の主題に据えられるってどういうこと?と。爆撃して殺戮してさよならオチ(どくろ雲オチ)で書いたって説得力はありますよ。でも、反体制の文章にしなかったのは、飛行機というマシンを操れるという条件が魔法並みに限られていた1930年代、いまだってパイロットの免許取るのなんかむずいですけども、プロペラを駆動させる快感を味わった、「限られた俺」たる矜持が、管理体制すら跳ね飛ばすほどにバキバキに勃起していたんじゃないでしょうか。


飛行機乗ってる奴がどういう状況で何を感じているのか、アンデス山脈のギザギザすれすれをすり抜け、嵐と雲の中で信じられるのは自分自身の操縦桿をつかむ握力だけだ、って男の子なら興奮しますよ。しかも実際にやったことある奴が書いてるんだから絶対そうですよ。「猛スピードで」「見下ろす」ことの優越感(気持ちよさ)もちゃんと書いていて、"あの農夫たちは、自分たちのランプは、その貧しいテーブルを照らすだけだと思っている。だが、彼らから八十キロメートルも隔たった所で、人は早くもこの灯火の呼びかけを心に感受しているのである。" 「生活」を追い越していく爽快 と、無事に職務を終えて地上で一安心 と、「明日も飛べよ」と通達が"来る"憂鬱=リヴィエールが「明日も飛べよ」と通達を"出す"憂鬱と、そのルーチンを丁寧に均等にならべていて、明日読んだら感想が変わるような小説です。


"「部下の者を愛したまえ、ただ彼らにそれと知らさずに愛したまえ」"というリヴィエールの哲学を実行に移せるのは相当に難しい。というか今の御時世、古典じゃないと受け入れられないかもしれない。雇われている側の人間は、何を気取ってんだよ、そこまでマジじゃないから、と横っ面を引っ叩いて棒に荷物くくりつけて退職しかねない。けれども、愛してまっせ、わかってくれまっしゃろ、というベタベタしたザラメ溶かしたのじゃなくて、互いにプロ同士で腕ぶつけ合うの憧れますね。なんのプロでもねえけど。
posted by しきぬ ふみょへ at 12:02| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月10日

ようこそ先輩

「本当にね、僕がこの教壇に立つ機会が来るだなんてゆめゆめ思ってもみませんでしたよ。ろくすっぽ先生共の…先生がたのお話なんて真面目に聞いた記憶が無いのでね…(笑)教室からぼんやり校庭眺めてりゃいいほうで、退屈だったら屋上でラジオ聞いてましたし、学校来ないで川っぺりで寝そべってうだうだしてたこともありましたし…なんだかね、そんな俺が教えられることなんかそう無いわけなんだけれど、まあこういう舞台に立ったからには、"SHOW"をこなすのがプロフェッショナルの努めなんじゃないかって思うわけですよ、俺だってオトナだからね(笑) それでもって、今日なにをテーマに扱うかって寸法なんですけれども、俺はですよ、俺ちゃんはですよ、やっぱりこう、本を読むこと、"読書"ってってのが肝要だなって気付きました。そうなのよ。何でかわかる?なんでもいいよ、読書がなんで大事なのか見当がつく男の子、もしくは女の子!いねえですよね(笑)、まあ今のところ、なんで読書が大事なのかっつうってえと、やっぱし「作者とサシで喋れる」っていうのがでかいですね。たとえば、ブックオフで、清水國明が牛の糞頭からかぶって、しゃらくせぇ能書き垂れたりなんかして、そんなのは無視しまして、ウンコの臭いするなー、バカヤロってポッケから小銭握り締めて買った本が、案外兄(あん)ちゃん姉(ねえ)ちゃんの舵握ったりすることがあるんですよ。中古の本屋じゃなくても、そのへんの汚ったない、背中のひん曲がったジジイが引いてる貸本屋でもいいわけですよ、今貸本屋なんかねぇか(笑)、まあ、ともかく、本の一冊をじっくり隅から隅まで、時間の許す限り読むってのは俺、大事だと思うわけです。


じゃあ、じゃあクラスの諸君、君たちが、実際に面と向かって喋ってみたい有名人はいるかな?もしかしたらそういうチャンスがあるかもしれない。夢見てられるのはお前らみたいなガキの内なんだから(笑)さあ、さあガンガン手を挙げてください。じゃあそこの女の子。


「NEWSの加藤シゲアキ君と一度、お喋りしてみたいです。」


NEWSの加藤シゲアキくん、これはいいですね。彼は近頃作家としての活動も始められてるっていうじゃないですか。まあなかなかね、僕なんかが手の届く存在ではないと思うけれども、でもそんな彼の著作を手に取ることによってね、直(じか)に対話できる、っていうのも読書の良さ、っていう捉え方も出来るわね。かっこいいしね彼ね。歌もダンスもできるしね、彼ね。


「加藤シゲアキくんの小説、ちゃんと読んだんですか?」


正直な話、読んでないのよ、まだ。所詮ジャニーズ、っていうのがどうしてもあって。文章の世間で評価されるためには、片手間で書かれたような小説まがいの作品はそもそも門前払いですからね(笑)そういうものなんですよ。悲しいけれども、立ち回りというのが大切なんですなあ、いくら筋が面白くても、文章に機微があっても意味がないものはそれまでなんで。それでも前を向いて邁進していってほしいですけれどもね、本当に文学を愛するのであればですけれどもね(笑)


「面白かったら、どうしますか?」


面白かったら?うーん、まあ、俺だってまともに生きていくって道は捨てたわけで、世に出た著作物、芸術品に対して、真っ直ぐな目で審美するように努めます。でもね、俺より男前で、歌も踊れてダンスも出来て、そんな人間が、世の人らを楽しませる文章を世に記せたんだとしたならば、頭かきむしって血が止まらなくなって死んじゃうと思うよ(笑)そんなことはないように 努力してきたつもりだけどね。 努力してきたつもりだけどね。 努力してきたつもりだけどね。


「なるほど。どうもありがとうございました。」


バッドエンド NO,6
頭から血が止まらない。もっと本当に努力をしていれば…?
posted by しきぬ ふみょへ at 00:10| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月07日

大阪の人は路傍の人だ

大阪に引っ越して来て3年が経とうとしている。毎朝通勤に、日本一高いビルあべのハルカスの地中に埋まっている地下鉄天王寺駅を利用している。だいたい毎朝同じ電車を使う。すれ違うだけだけれども、そのなかで多少異彩を放っている存在は嫌なもので覚えてしまっている。まず、双子なのか、双子じゃないのか、絶妙に頃合いは似てるけれども判別しかねるブスな女子高生2人組。思い切ってどっちですか?と聞きたくなる。かならず2人でいる。


黒い革ジャンで、押井守みたいな(少年アシベにでてくる中華屋の大将みたいな)髪型のおじさん。このおじさんは、手ぶらか、ショルダーバックを提げているかの確率がほぼ半々で、毎朝同じ時間にすれ違うから一応ルーチンワークには就いているのだろうけど、丸腰とそうでない日はどう区別されているんだろうか。大麻を卸している人か。


冬場以外はランニング(タンクトップと言いたくない、彼の場合はランニングが正しい)、冬場は桜が刺繍された和柄のスカジャンをはおっている、二十代前半ぐらいのかなり肥えたスポーツ刈りの男。彼は基本地下通路をぶんぶん腕振りながら猛ダッシュしている。かと思いきや、今日もそうだったんですけど、やたら背すじを伸ばしてむしろ威風堂々と歩いている時もある。さっきの押井守もそうですが、毎朝こっちは同じ電車を利用して同じ通路を歩いているのに、向こう側が変化をつけてくるのはなぜか。走っている背中を追いかけて捕まえたら大麻売ってくれるかもしれない。


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だいたいこんな肩幅のある女のマネキンが府の公式で人格を与えられている時点でまともな人間が利用できる駅じゃない。今朝はがなり声を挙げているおじさんが居た。土地柄が土地柄だけに六甲おろしか、と一瞬勘違いしたが完全にオリジナルの節でがなっているだけだった。


ケンミンショーなんか観ていると大阪で別枠設けられて、こんなに愉快やで、壁とか感じひんねんウチら、横丁へよ〜こちょ、とか言ってますけどぜんぜんそんなことない。一人で飲み屋に入ったって絡まれない。一回だけ、高校の頃赤井英和にボクシングでボコボコにされた経験のあるおじさん(マジで右フックが見えなかったらしい)とちょっと喋ったがそのくらいだ。前の客にはお会計3000万円、とユニークをかましていた店員が俺の番になって1800円になります。とマニュアルの応対をされたこともある。結局よそ者に対してはいつまでたってもよそ者扱いだ。


駅でうんこをしたくなったけど、全個室がふさがってて、仕方ないので10分くらい待ったけど本当にどこも開かなくて時間もないので諦めて失意のうんこを腸に抱えたままで会社に行った日がある。朝の通勤時間帯に3つしかない個室トイレを占領するろくでなしが3人集まるなんて、"人情の町"であってはならないよ。どうせスマホでもかまっているんでしょう。俺はうんこの列に並んで、いざ自分の番が回ってきたら絶対に周りの連中よりも早く出して拭いて流す。「出して拭いて流す」、悪・即・斬、に命を懸けてますので。結局それが後の人のためにもなるんだから。大阪の方々はぜひ参考になさってください。
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posted by しきぬ ふみょへ at 22:42| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月06日

和辻哲郎『風土』こだま『Orphans 川本、またおまえか』



1935 日本
2016 日本


今年の冬ははわりあい暖かったが、北海道は今日も最高気温1度とまだまだけっこう冷え込んでいるらしい。人間が定住している土地の最北端といわれる、ロシア・オイミャコンの現在の気温は-42.1℃。900人住んでいるとのこと。この事実を知ったら900人のロシア人が大阪に引っ越してくる。そんな世界津々浦々の人間が、朝家を出て「今日寒っ」とついつい口に出してしまうその「今日寒っ」は、それぞれ強度が違う。価値観や宗教や文化、生まれる文章は、土地の「風土」に大きく左右される。昭和10年と平成28年ではだいぶ街の雰囲気は違うだろうけれども、この2つの作品について書きます。

インドの神様は蛇だったり鳥だったり、象と人間が合体してたり、宗教画も極彩色でとにかくバリエーションに富んでいる。それは雨季があり乾季があり、ヒマラヤに接し、ガンジス川が流れ、「変化」に富んでいるから。香川県生まれのナンチャンもインドで映画を撮った(撮ることを許された)。対して、砂漠の民、一年中砂と岩と"乾燥"のみで、生産性ゼロ、部族という集団に属し、敗北すなわち死、水を得るために闘わなくては生き残れない環境で生まれたのは「唯一神・戦の神」だった。砂漠の芸術も、「モスク」とか「ピラミッド」とか、自然への対抗意識としての人工物、"形"をはいドーン、というもので、砂漠の中にぽつんとあると存在感がすごい。"砂漠においては自然は死である。生は人間の側にのみ存在する。従って神は人格神でなければならぬ。"


戦の神は、砂漠を超えて「愛の神」に変わった。乾燥しているものの冬期は湿潤な西ヨーロッパでは、主食である麦がよく育つ。夏に撒いてほっといたら生えてくる。そのへんの草も牧草として、牛や羊に食べさせておけば良い。労働に関心が薄い。だから"余暇"が生まれる。ひまなので、勉強をしようとなる。白人が全員かしこいのはこのおかげ。そしてギリシャ、ギリシャはまったく雨が降らない。年間300日晴れる。が、エーゲ海の近くなので、牧場もあるし、オリーブやぶどうの栽培はできる。ギリシャでは、「ポリス」という集合体で生活した。ポリス間の戦争で負けたら奴隷になる。奴隷に労働をさせる。ここでもまた労働の必要がなくなった。"競争"に価値を置くギリシャ人は、「俺は絵を描くわ」同士、「俺は石を彫るわ」同士、俺は「"万物の起源"について考えるわ」同士でバトルして文化が育っていった。そんな「個」の集団でガシガシやってたギリシャを、全員野球でローマが倒しました。ローマ人は「水道」を街中に張り巡らし、街の環境統一を図った、「合理性」が勝利した。"ローマ人はただギリシャの産物を受け容れるのみであって、己れ自身の表現をなし得なかった。しかるに合理性による自然と人間の制服に関しては、彼らはギリシア人のなし得なかったことをなし得るまでに至ったのである。"


アジアでは、「中国」そして「日本」が挙げられている。中国はでかすぎる。揚子江と黄河、という2本のでかい河が流れている。揚子江は湿潤地帯にあり、でかすぎて人間がどうやったって氾濫する。黄河は乾燥している。何も起こらない。王朝はあるけれども、法の網の目がきちんと隅まで徹底できるわけがないので、自分たちの身は自分たちで守るしかない。人々は「没法子(メイファーズ)」=しゃあない、こんなもんだろ、という価値が行き渡った。
日本では「台風」に着目されて、いくらコツコツ積み上げてもその都度台風でチャラになってしまう(桃鉄でもそうですね)、四季ごとの変化もめまぐるしい。日本人の感情は「昨日の敵は今日の友」とめざせポケモンマスターでも歌われていたようにコロコロ変わる。敗北の美学、判官びいきは日本独特のものだ。しかしながら、日本人は「忍従性」も併せ持つ、さっき書いた西ヨーロッパ人は麦は撒いときゃ育つので余暇を自由に使えるというのではなく、稲は田んぼがまず必要で、腰を曲げて稲を植え、雑草を引っこ抜かないといけない。「日本人」という単位で性格や感情をくくることは難しい。北から南であまりにも風土が違いすぎるので。


和辻哲郎は、ハイデガーの「存在と時間」という本に影響を受け、人間の存在を決定づけるのはタテ軸の時間=歴史性によるものだとしたら、ヨコ軸の場所=風土もそうなんじゃないの?違ったらごめんねという好奇心で書いている。2016年、都市〜都市の町並みは平たく延ばされ、マクドナルドは世界中何処にでもあるし、ピカチュウを可愛いと感じない人間はいない。価値観がうわーっと地球単位で統一されようとしている。


だけど、いち個人の、「こう思ってまっせ」という、話しぶり、文章は、いまだに、「風土」に左右されてどういう振り子の触れ方をするかが決まると思う。こだまさんの『Orphans 川本、またおまえか』を読んで、北海道の真ん中らへん、というメチャクチャ冷える土地で生き抜いてきた、細胞がどんどん死んでいっているおばさんが、脳内で暖房を焚いて煮えたぎらせた熱量、寒地の生活への根付きがあると思った。


"私の生まれ育った極寒の集落は、冬の朝、氷点下二〇度以上まで冷え込む。私が通っていたのは過剰までに放送機器が揃っていながら、体育館の暖房設備は不十分という、ちぐはぐな学校だった" と書かれている。氷点下二〇度下にさっきまで居たのに、機材が放つ熱のこもる放送室、で作文を発表する、ボーっとする、顔面が紅潮する、いじめっこの「川本」に「猿」とからかわれる。こだまさんが南に住んでたら、ちょっと不健康なおばさんで終わっていたんじゃないか。体をむしばむ、吹雪の山谷の間に暮らしているから全身が捻じくれてしまった。


本当に、エピソードとエピソードを自然につなげるのがうまい、小学校、中学、高校、大学という場面転換。「川本」の存在が軸になっているのだけれど、こじつけがない。小中高、という極寒の部落で、狭いコミュニティで、ずっと障害として現れてきたコンプレックスこと川本が、時を隔てて大学時代にたまたま再開し、彼のセリフに感涙し、「あいつも広い世界で変わったのだ」という。


こだまさんは、「川本、またおまえか」を主題に据えた。こだまさんはまだギリギリ生きている。川本がクイックジャパンを読み、勝手に載せられ、恨み、こだまさんと生命維持装置をつなぐ管を外しに来るかもしれない。未来はわからないが、こんなに文章のうまく、運命を受容している人は、カラダを張って伏線を回収してくれる気もする。
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posted by しきぬ ふみょへ at 22:41| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

坂口安吾『桜の森の満開の下』


1947年 日本


何故「満開の桜の森の下」ではいけなかったのか、日本語の耳馴染みの他に、「満開」の時期が怖いから、「満開の下」に坐すと男は自我が吹き飛んで居なくなってしまうから、その一瞬を切り取ろうとする意味合いで持ってこんなタイトルをつけたんじゃないかなという、女がわーわー言い出したらマジでやばいねっていう気持ちで読んでください。


山賊がメチャクチャ綺麗な女の連れの男を刀でぶっ殺して、今日からお前は俺の女だと指をさす。女ははいと応える。女を背負って山に持ち帰る。なぜならば恋をしてしまったという。道中の山々、自然やらが美しいので、こんなステキな山を独り占めできるんだぜ俺は、と鼻高々でおぶった女をぐるりと一周させる。女は、岩だらけでなんにもおもんねーし、いいからとっとと走って家まで連れてけとごねる。山道をバカ疲れながらやっとこ家に帰る。男は女のことが好きなので体がバラバラになっても平気だぜと強がる。いままでに連れて帰った嫁どもがなにごとかと震えている。今惚れた、連れてきた女が「首をはねろ」と頼んだので、言うとおりに、いちばんブスだけを残して刀で斬った。一通りスコアを稼いだあと、疲れに疲れ果てた状態で惚れた女が目に入る。"目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。けれども男は不安でした。どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分からぬのです。"そして"桜の森の満開の下です。あの下を通るのに似ていました。"女に抱いた感情が、童貞なので(ギャグでなく、女を手に入れようとはしても、犯そうという描写がまったく出てこない) 桜の森の満開の下 に喩えた。何が何だかわからないものを何が何だかわからないものに喩えた。


このピンクな気持ちを克服するために、"今年はひとつ、あの花ざかりの林のまんなかで、ジッと動かずに、いや、思いきって地べたに坐ってやろう"と決意する、ただ、女にバレないように。
生きていくために必要な栄養やビタミンやミネラルなどを動物を殺した命、肉でバンバン与えまくり、ほっつき回っている都会から山にとぼとぼ旅してる連中をバンバン殺し、身ぐるみを剥がし、きれいなアクセサリーをほれ、と渡す。女はまだ足りない、私は都会に帰りたい、クサいとわめく。
”この生活、この幸福に足りないものがあるという事実に就て思い当るものはない"

男は弱いやつを殺す殺す、こんだけ殺して俺が死なないのなら、己の「強さ」が女の「美しさ」に匹敵するんじゃないか?と。勘違いで、しきぬ ふみょへはアイドルのことをもっともらしく語って「ハリボテの知」で一生懸命努力するアイドルと並走した気になっている野郎が大嫌いなんですけど、さておき、女がそれだけお前が強いなら、ワタシを京都まで連れて行っておくれ、と頼む。男は承知するも、都に出るまでには桜をくぐらないといけない。さっきの決意がいざ目の前に振りかかるとたじろぐ。しかし、このおぼろげなきっかけを、女に打ち明ける。俺は変わるんだぜ、という男が絶対に女にバラしてはならないやつです。

"「桜の花が咲くのだよ」
「桜の花が約束したのかえ」
「桜の花が咲くから、それを見てから出掛けなければならないのだよ」
「どういうわけで」
「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」
「だから、なぜ行って見なければならないのよ」
「花が咲くからだよ」
「花が咲くから、なぜさ」
「花の下は冷めたい風がはりつめているからだよ」
「花の下にかえ」
「花の下に涯(はて)がないからだよ」
「花の下がかえ」
男は分らなくなってクシャクシャしました。"


男は、マジでこれが理由とかで無しにやりたいのだ、という理屈を、は?なんで?と女からあらためて問いたださされると、たしかに果たして何故だ?と首をひねって会話が途絶えて気まずくなって女にバカにされてしまう。"刀で斬っても斬れないよう"な女の苦笑いを前にして完全に無力になる。これまでそこらへんのNPCなら、兵卒ならかたっぱしからぶっ殺してたのに、好きな女の苦笑いなんていう物理的になんの抵抗にもならないものの前になすすべがない。男は女に否定されて、結局決意が砕かれ、咲いている桜の下を目をつぶってダッシュでくぐり抜ける。女とブスの下女と一緒に、都に住むことにした。


女は、生首を使ってごっこ遊びがしたいので、あらゆる役職の人間の生首を持ってきてちょうだいと男に丸投げする。坊主の首を絶対に悪役にする。坊主なんてこの世で一番つまらないので、女はそのへんの性悪さにはかなり敏感である。それでも、男がいくら生首を貢いでやっても、愛情を注いでやっても、飽きる。"その先の日、その先の日、その又先の日、明暗の無限のくりかえしを考えます。彼の頭は割れそうになりました。それは考えの疲れでなしに、考えの苦しさのためでした。"これだけ日々一生懸命に首をはねていても、女は次、よっしゃ次と言うばかり、思い切ってこんなに苦しいのなら、よっぽど女の首こそはねてやろうとクソがよ、を刀を握るも、それが出来ない。別れを切り出す。

が、女は、男のノスタルジーをくすぐる=初めて山を登った時の、男が有頂天だったころの記憶を呼び戻させることで簡単に心の陰茎を握ることが出来ることを知ってしまっている、つまり、どうして俺の気持ちがわかったんだ、さては俺に惚れてるな、の曲解の曲の部分、カーブをいともたやすくグイグイ曲げやがる。女は、山に帰ってもいいと言う。

ガハハ、初めて出会った頃のことを思い出しちゃったよ、と男は女を抱きしめた、したらなぜか、女が紫色の気持ち悪いババアになった。は?と首を思い切り男の力で絞め、女の生命活動を終わらせる。その背中に桜の花びらが落ちてきた。男は冒頭で塊で持っていた気力がゼロになり、桜の森の満開の下で膝ついて力無くへなへなと跪く。ということはここで、俺が桜の森の満開の下で坐して満開に立ち向かってやる、という、女がこれまで自分の所有物だった頃に抱いていた、「俺、実はこれをやってみたいんだ」という願望に決着がつく。


ここでざっくばらんにざっくばらんに書いたことはスカスカだし、ともかくも、俺は女の人が読んだ時に何を思うのか気になりまくるので、Twitterアカウント「njomooo」にリプライでのご意見をお待ちしております。
posted by しきぬ ふみょへ at 01:31| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

The Who『Baba O'Riley』の和訳



The Who『Baba O'Riley』(71年 英)


Out here in the fields
I fight for my meals
I get my back into my living
I don't need to fight
To prove I'm right
I don't need to be forgiven

ここじゃない場所で
飯を食べるために闘う
自分の人生を背負うぞ
闘う必要はない
自分が正しいので
許される必要もない

Don't cry
Don't raise your eye
It's only teenage wasteland

泣くな
目を上げなくてもいいから
10代なんか意味が無いぞ

Sally ,take my hand
Travel south crossland
Put out the fire
Don't look past my shoulder
The exodus is here
The happy ones are near
Let's get together
Before we get much older

サリーという恋人がいるので俺は大丈夫だ
南の方へ行こう
火を消せよ
肩越しに過去なんか見るなよ
逃げよう
サリーという恋人がいるので幸せだ
一緒になろう
ジジイとババアになる前に

Teenage wasteland
It's only teenage wasteland
Teenage wasteland
Oh, oh
Teenage wasteland
They're all wasted!

サリーという恋人がいるけど、
それは10代だから意味がない、
20代になっても意味がないし、
oh、oh、
ジジイとババアになっても意味がないだろう。
ありがとうございました!
posted by しきぬ ふみょへ at 23:13| 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする